第49話 チビり猫、仕事をする
夜明け前の、ひんやりとした空気が肌を刺す。
魔王軍の幹部、グリーンウェルが残していった脅迫に、俺の心は鉛のように重く沈んでいた。
どうする? どうすれば、この絶望的な状況を打開できる?
思考の海に沈みかけていた俺の肩を、背後から何者かがガシッと掴んだ。
「うわあああああああああああああ!」
「にゃあああああああああああああ!」
鼓膜を突き破らんばかりの互いの絶叫。
振り返ると宿屋のロビーだというのに、全身をわなわなと震わせ、猫耳と尻尾を逆立てた猫獣人のミャミャが涙目で俺を見上げていた。
「にゃ、にゃんにゃのにゃー、今のは! い、一体あれと何してたにゃああああ! 怖すぎて……怖すぎて……チビッちゃったのにゃあああああ!」
「チビッただとお⁉」
みたい! 単純に本能が見ろと叫んでる。
反射的にミャミャの下半身に目を向ける。
だが、あの特有の臭いと透明の液体が流れてない。
変わりに、浴衣の裾から覗くしなやかな太ももに、とろりとした白い液体が流れていた。
……ん? ちょっと待て、この色と粘度は……。
俺のスキル『リア充チェッカー』が頼んでもいないのに仕事を開始する。
【ミャミャ(猫獣人・冒険者)】
【最終性交時間: 12分03秒前(相手:宿屋のコック)】
「お前が朝っぱらから何してんだああああああ! しかも相手がコックってなんだよおおおおお!」
俺の魂からの絶叫が、静まり返ったロビーに木霊した。
ミャミャは「ひぃっ!」と飛び上がると、信じられないものを見る目で俺を指さす。
「にゃああああああ! な、なんでそれを知ってるのにゃあああああ! さっきのヤバいのと覗きしてたのにゃあああああ!」
「してねえよ! あんなおっさんと覗いたら興奮どころじゃなくなるだろうがああああ!」
「にゃあああああああああああああああ!」
「わああああああああああああああああ!」
「「ゼエ……ゼエ……」」
俺とミャミャの、朝っぱらからの不毛な大声の応酬。
数分後、ようやく互いの息が整った頃、ミャミャはまだ震えを隠せない声で囁いた。
「さっきのは……ヤバいにゃ。今まで16年生きてて、見ただけで殺されるって本気で思ったのは初めてにゃ」
(こいつ、16歳だったのかよ。俺やリイナやアンナと同い年かよ。年中発情してるビッチ猫が!)
内心で悪態をつきながらも、俺は頷く。
「……確かに、威圧感は凄かったな」
「威圧感なんてもんじゃにゃいにゃ! 魔族なんかと比べものにならないほど怖かったにゃ! あんな全身、真っ黒いオーラに包まれた存在に、よく平然と向き合っていられたにゃ。さすがは勇者ってだけはあるにゃ……」
ミャミャが俺を尊敬の眼差しで見上げてくる。
「おっ⁉ その眼差し、俺に惚れたか? ハハハ、どうだ、さすが勇者俺だろ」
「は? 何言ってるのにゃ? ブサメンに惚れるわけないにゃ」
「そうだよな! 知ってたよちくしょう!」
まあ、ミャミャの言う通り、俺が平然としていられたのは、この『リア充絶対殺すマン』のスキルのおかげだろう。
亡き妻を想い続けて22年。おっさんは1週間以前の対象だから、俺の能力値はわずかに上回る程度にしか補正されない。
ミャミャのような恐怖を感じなかったのは、このスキルが精神的な部分にも作用しているからだろう。
「……なんか、ヤバい話してたにゃ?」
「し、してないって。ただの世間話だよ」
「ブサメンは嘘をつくのが下手なのにゃ。王女様たちに言いつけるのにゃ。ブサメンがヤバい奴と密会してたって」
このビッチ猫娘、なんて的確に俺の弱点を突いてくるんだ!
仕方ない。俺は観念し、八百長や魔王軍といった核心部分は隠しつつ、事の経緯をざっくばらんに話して聞かせた。
昔とんでもなく世話になったおっさんに「赤髪の少女を殺せ」と脅迫されていること、断れば仲間の身が危ないこと。
「……典型的なヤクザの手口にゃ。無償で親切にして、断り辛くしてから怒涛の借り返せの日々にゃ」
「わかってるよちくしょう!」
「で、受けるのにゃ?」
「受けるわけねえだろ! どんな手を使っても、出し抜いてやる! だが……具体的な手がまだ思い浮かばん!」
「そもそも、何であんなヤバい奴が回りくどいことするのか意味不明にゃ。女の子1人始末するぐらい、自分でやればいいのににゃ」
ミャミャが何気なく言った言葉に、俺の思考の歯車が回り出す。
確かにそうだ。グリーンウェルの実力なら、カレンとかいう少女を殺すことなど造作もないはず。
なぜ、わざわざ俺にやらせようとする? 俺を試しているのか? それとも、俺を汚れ仕事に引きずり込むことで、精神的に支配しようとしてるのか?
俺が深く考え込んでいると、そこに新たな人影が現れた。
色っぽい浴衣姿のエルフの美少女、シルフィだ。
「ミャミャ、それにセイヤ、こんな朝早くからここにいたのか」
【シルフィ(エルフ・冒険者)】
【最終性交時間: 12分35秒前(相手:宿屋の従業員)】
「……このビッチめ。このビッチめ!」
「はあ⁉ 何をいきなりキレているんだ! まだ昨日のことを根に持ってるのか⁉」
「宿屋の従業員としやがってえええええ! リイナたちを誘ってねえだろうなああああ!」
「な⁉ 何で相手まで⁉」
「俺の質問に正直に答えろ! 俺たちと合流し、身の安全とリュカ救出の目処が立ったからって、性欲発散しやがって! 発散するなら、頼った相手である俺を誘え!」
「「好みじゃない(にゃ)」」
そんな2人の真顔の一言で、膝から崩れ落ちていると、シルフィがそっぽを向いて答える。
「リイナ王女たちを誘うわけないだろ! ……イケメンは1人なんだからな」
「そういう理由かよ!」
そんな真面目な話をしていると、俺たちの騒ぎを聞きつけ、アンナとレイラもロビーに姿を現した。
うん、2人とも表示は【無】だ。よかったぜ……。シルフィとミャミャに釘を差してやる。イケメン集団とヤるからといって、俺のパーティメンバー誘うなよ、と。
「朝から元気ですね。皆さん、何を話していたんですか?」
いつものにこやかスマイルのアンナ。
「セイヤさん、また女の子を無理やり襲ってたんですか?」
いつもより眠そうなレイラの声。
「襲ってねえよ! あれ? ところでリイナは?」
俺の問いに、アンナが小首を傾げる。
「一緒じゃなかったんですね? 私が起きた時には、もう部屋にはいませんでしたよ? てっきり一緒だと思ってました」
「温泉にでも行ったんじゃないですか? それとも厨房につまみ食いか……」
いや、レイラじゃないんだから。
「厨房にさっきまでいたけど、来なかったにゃ」
「私もさっきまで温泉にいたが来なかったぞ」
ミャミャとシルフィ、お前らさっきそこで……! クッソ、相手の男が羨ましい!
そこへ、当のリイナ本人が何事もなかったかのように階段を降りてきた。
表示は【無】。よし。ふう……安心したあ。
ちょっぴり、女性連続失踪事件の被害者になったんじゃないかと、考えちゃったよ。
「みんな、ここにいたのか。朝早いのだな。セイヤ! 昨日別れてからどこをほっつき歩いていたのだ! 勇者の自覚を持て!」
おっ? これって俺を心配してくれてたのか?
本当は部屋に来るのを待ってたりして。
今晩、お邪魔します。
「もう、リイナ、どこに行ってたのー?」
アンナがリイナに抱きつく。
「私はさっきまで部屋で寝ていたが? どうかしたのか?」
あれ? このやり取り、王都旅立ち前夜でも見たような……?
既視感に首を傾げていると、隣にいたミャミャが俺の浴衣の袖を掴み、震える声で囁いた。
「にゃ……にゃあ……。さっきの男の気配が……リイナ様から、濃厚にするのにゃ……」
俺は絶句し、ゆっくりと周囲を見渡した。
静かなロビー。仲間たちの無邪気な笑顔。
だが俺の目には見えない何かが、この空間を支配し始めているのを感じていた。