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第3話 神との面談

 夜になり街灯が頼りなくアスファルトを照らし、光に引き寄せられた無数の羽虫が狂ったように乱舞している。

 夏の生ぬるい夜風が、俺の汗ばんだ額を気味悪く撫でていく。


 俺はあてもなく走っていた。

 見慣れたはずの住宅街が出口のない巨大な迷宮のように感じられる。

 心臓は肋骨を内側から叩き壊すかのように激しく脈打ち、肺は灼けるように痛い。

 それでも、足を止めることなどできなかった。

 一度でも立ち止まってしまえば、脳裏に焼き付いたあの二つの光景が、より鮮明に俺の精神を蝕み、発狂してしまいそうだったからだ。


 成瀬遥の蕩けきった顔。愛崎咲耶の淫らな姿。紅林の逞しい腰の動き。隼人の骨張った指。

 断片的な映像が悪夢のように、繰り返し、繰り返し、俺の頭の中を駆け巡る。


 パンッ……! パンッ……! パンッ……!


 じゅぼ……じゅぼ……っ……ごぷ……


 あの音、あの声、あの表情。全てが俺の鼓膜と網膜にこびりついて離れない。


「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょうッ!」


 俺は声にならない声で叫びながら、夜道をひた走る。


「なんでだよ……なんでなんだよ……! みんな嘘つきだ! 清純なんて、純愛なんて、どこにもないじゃないか!」


 信じていたものが全て、汚らわしい偽りだったという絶望。

 自分だけがこの世界の汚い秘密を知ってしまい、取り残されたかのような絶対的な孤独感。

 そんな彼女たちをいとも容易く手に入れ、貪った男たちへの殺意にも似た真っ黒な憎悪。


 様々な感情が巨大な坩堝となり、俺の思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。


 感情の奔流に身を任せるあまり、俺は周囲への注意を完全に失っていた。

 もはや正常な思考などできなかった。そうだ、もういい。こんな世界、こんな人間社会に未練などない。


「誰でもいい! この腐った世界を変革する力を俺にくれッ!」


 見通しの悪い交差点に差し掛かったところで、信号が血のように赤い色に変わっていることに、全く気づかなかった。


 視界の端で、巨大なヘッドライトの光が急速に迫ってくる。


 キィィィィィィィッ!!


 鼓膜を突き破るような金属的な急ブレーキの音。

 大型トラックの運転手が驚愕に目を見開く顔。

 直後、俺の全身を叩きつける、鉄塊の圧倒的な衝撃。


 俺の身体は紙人形のように軽々と宙を舞い、濡れたアスファルトに叩きつけられた。痛みを感じる間もなかった。

 意識が急速に薄れていく。

 遠のく意識の中で、俺は最後に、自分が流した血溜まりに映る、歪んだ月を見た。


(ああ……これで、終わりか……)


 不思議なことに、俺は安堵していた。

 もう、あの光景を見なくて済む。もう、苦しまなくていいのだと。


 俺の意識は深い闇へと沈んでいった。


 次に目を開けると、そこはどこまでも続く雲海の上だった。

 下も上も右も左も、ただただ白い雲が広がっている。

 空気は暖かくも冷たくもなく、音も匂いもない、現実感の欠如した非現実的な空間。


 そんな広大な空間の中心に、ポツンと一つだけ、使い古されたオフィスチェアが置かれていた。

 そしてそこには、くたびれたサラリーマンのような中年の男が缶コーヒーを啜り、一服しながら気怠そうに座っている。

 よれよれのスーツに、無精髭。疲労と諦観が入り混じったような気の抜けた目で、威厳というものが欠片も感じられない男だった。


「……ん? ああ、起きたか。どうも、大石星翼くん。俺は、まあ、神ってやつ」


 男は気怠そうに名乗ると、缶コーヒーを一口啜り、紫煙を燻らして俺に問う。


「さあ、選べ。異世界へ行くか、それとも魂ごと消滅するか。……俺も暇じゃないんでね、返事は3秒以内だ」


 男の言葉と態度のギャップに俺が混乱していると、神は面倒くさそうに続けた。


「いやー、すまんすまん。ちょっとしたおふざけ。君、こういうの好きでしょ? いや~ホント、ごめん。こっちの管理システムのバグでさ、君、本当はまだ死ぬ予定じゃなかったんだわ。完全に俺のミス。というわけで、お詫びと言っちゃなんだが……」


 神はそこで言葉を区切り、初めて少しだけ真剣な顔つきになる。


「異世界レンデモールってとこがさ、今、魔王軍のせいでマジでヤバいんだわ。人類滅亡寸前。で、そこの勇者として転生して、世界を救ってくんない? もちろん、特典能力も一つだけ付けてあげるからさ。どう? 悪くない話でしょ?」


 男の口調は面倒な仕事をクラスの陰キャに押し付けるクラス委員のように、あまりにも軽く、無責任だった。


 俺の脳裏に、死ぬ直前の、あのどうしようもない絶望が鮮やかに蘇る。

 成瀬遥の喘ぎ声、愛崎咲耶の蕩けた瞳、そして彼女たちを蹂躙した男たちの顔。


 世界の危機? 魔王?

 そんなものは今の俺にとってはどうでもよかった。

 俺の心を支配しているのはただ一つ。この世界そのものへの強烈な憎悪だけだった。


「……特典能力……?」


 俺は虚ろな目で神を見つめ、掠れた声で呟いて続ける。


「いいだろう……。だが、忘れるな。他者を傷つける者は、いずれ自分も傷つくことになる。その覚悟なき者に、力を持つ資格はない!」


「……ん?」


 神が意外そうな顔で聞き返す。俺は言葉を続けた。


「俺は世界を……この穢れた世界を壊し、純粋な世界を創る! そのための絶対的な力を、俺にくれッ!」


 それは勇者の願いとは到底思えない願いだ。


 神は俺の瞳の奥にある、深く、どす黒い闇と絶望を数秒間じっと見つめ、フッと息を吐くと、面白そうに、楽しそうに、ニヤリと口角を吊り上げた。


「へぇ……なるほどねぇ。君、面白いよ。いいじゃないか、その願い。実に人間らしくて、俺は好きだぜ」


 神はオフィスチェアから立ち上がると、俺の肩をポンと親しげに叩いた。


「よかろう、その願い、聞き届けた。君に授ける特典能力は『リア充絶対殺すマン』だ。……ただし、言っておくがその力はかなり厄介で、理不尽な縛りがあるからな。ま、それも含めて楽しんでくれたまえよ」


 神が指をパチンと鳴らす。

 その瞬間、俺の足元の雲が抜け、俺の身体は再び暗闇へと引きずり込まれていった。


「ま、頑張って世界を救ってくれや、勇者様」


 遠のく意識の中で、俺は最後に、神の嘲笑うかのような声を聞いた気がした。


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