第2話 追い打ち
全力で校舎を駆け抜けた俺が息も絶え絶えにたどり着いたのは、新校舎の巨大な影に隠れるようにしてひっそりと佇む、旧体育館裏の体育倉庫だった。
もはやほとんど使われておらず、存在すら忘れ去られているかのような場所だ。
傾いた西日が錆びて赤茶けた分厚い鉄の扉と、無数のひびが入ったコンクリートの壁を、乾いた血痕のような不気味な色に染め上げていた。
周囲には手入れもされずに雑草が生い茂り、空気の抜けたボールや、カビの生えた古いマットがまるで墓標のように打ち捨てられている。
空気は湿っぽく、カビと土、そして錆びた鉄の匂いが混じり合って、俺の鼻をついた。
遠くからはまだ、活気のある運動部の掛け声が聞こえてくるが、そんな声もここではどこか空虚に響き、俺の絶対的な孤独感を際立たせる効果音にしかならなかった。
俺は体育倉庫の冷たい壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。
ぜえぜえと肩で息を繰り返し、心臓が肋骨を内側から突き破るのではないかと思うほど、激しく高鳴っていた。
「はぁ……はぁ……。成瀬さんは……もうダメだ……汚れてる……」
脳裏に焼き付いて離れない、あの官能的な表情と、生々しい音。
それを振り払うように、俺は乱暴に頭を振る。汗なのか涙なのか分からない液体が泥のついた頬を伝った。
「でも……俺にはまだ、愛崎さんがいる……」
そうだ。まだ、終わっていない。俺は自分に言い聞かせた。
クラスで二番目に可愛いと言われる少女、愛崎咲耶がいるんだから。
腰まで届く艶やかな黒髪ロングに、儚げな白い肌。
物静かで、いつも窓際で1人、静かに文庫本を読んでいる彼女の姿は俺にとって最後の希望であり、心の最後の拠り所だった。
成瀬のような太陽の輝きはないが、奥ゆかしさと控えめさこそが本物の清純の証なのだと、俺は固く信じていた。
「そうだ、愛崎さんだけは……彼女だけは絶対に、裏切らない……」
そう自分に言い聞かせ、砕け散った心を、愛崎咲耶という最後の光で必死に繋ぎ止めようとする。
俺はゆっくりと立ち上がり、制服のズボンについた土埃を払い、今度こそ本当に帰路につこうとした瞬間だった。
静まり返っていたはずの体育倉庫の中から、奇妙な音が聞こえてきたのは。
それは熟れすぎた果実を啜るような、粘着質で湿り気を帯びた不快な水音。
その音に混じって、か細くて甘ったるい声が俺の鼓膜を震わせた。
「んむ……っ……隼人くんの……おっきくて、おいしい……」
その声に俺の全身の血が凍りついた。愛崎咲耶の声だ。
間違いない。あの、いつもは小さな声で囁くように話す、彼女の声だ。
胃の腑を巨大な手に鷲掴みにされるような、強烈な悪寒が背筋を駆け上った。
またしても、だ。見てはいけないと、脳が悲鳴を上げている。
逃げろ、と全身の細胞が叫んでいる。
けれど俺の身体はまるで呪いにかかったかのように、抗えない力に引かれるように、埃まみれの窓へと引き寄せられてしまう。
震える指でガラスにこびりついた長年の汚れを拭い、中の薄暗がりに、ゆっくりと目を凝らした。
倉庫の中、高く積み上げられた古いマットの上でバスケットボール部のレギュラーで、紅林と人気を二分するイケメン、庄司隼人が跳び箱に腰掛けていた。
奴の下半身に制服姿の愛崎咲耶が跪いていた。
倉庫の薄暗がりの中、2人の間には濃密で背徳的な空気が流れている。愛崎は顔を俯けており表情は窺えないが、その肩は小さく、小刻みに震えていた。
隼人の骨張った手が愛崎の美しい黒髪を鷲掴みにしている。
自身の欲望のままに、奴の手が動くたびに、愛崎の肩がびくりと跳ねた。
「んぐっ……ごふっ……! んんっ……!」
咲耶の喉から、苦しげなくぐもった音が漏れる。
時折、むせ返るように動きが止まるがすぐにまた隼人の手によって再開させられる。
けれど、彼女の瞳は苦痛に歪んではいなかった。
それどころか、快感でトロンと蕩け、潤んだ瞳で隼人の顔をうっとりと見上げている。
その姿は俺が抱いていた清楚で物静かな文学少女というイメージとはかけ離れていた。
それは雄の精気を貪ることに至上の喜びを見出す、淫らな雌そのものだった。
退くな、我が魂! この眼に焼き付けろ、この魂に刻み込め! これこそが世界の真実! この絶望を見届けることこそ、神に与えられし我が宿命!
単純に今見なければ、愛崎さんがしているところを一生見れないんだぞ、俺!
(ちくしょう! 暗くてまた……よく見えない……! でも、愛崎さんまで……!)
教室の時と同じだ。肝心な部分は愛崎さんの後頭部で巧みに隠されている。
ただ、それが俺の想像力をさらに掻き立て、嫉妬と絶望の炎を、地獄の業火のように燃え上がらせた。
俺は再び、血の涙を流していた。
しばらく呆然と見ていると、やがて隼人の腰が痙攣し、愛崎さんが奴の太股をパンパンと叩いていく。
彼女は口から奴のがなくなったのか、うっとりと息を吐きながら、甘えきった声で言った。
「……ふぅ。すごい……紅林君のより、全然大きい……濃かった」
(紅林……? あの野郎! 愛崎さんともヤッてたのかよ!)
俺の思考が停止する中、隼人が呆れたように満足げに鼻で笑った。
「はっ、そりゃどうも。愛崎も成瀬より上手かったぜ。つーかお前、経験人数何人だよ」
(はあああああああああああああ? 愛崎も⁉ 成瀬より⁉ なんじゃそりゃああああああ⁉)
奴の問いに、咲耶は小悪魔のようにくすくすと笑う。
「えー? 覚えてないし。……それより、隼人くんの、本当にすごかった。量も凄かったよ」
咲耶が上目遣いに、甘えきった声でねだる声色も、表情も、俺が一度も見たことのないものだった。
「次は私に直接して……? 隼人くんの熱いの、ぜんぶ……私の中に注ぎ込んでほしいな……」
彼女の言葉が最後の引き金となった。
俺の心を繋ぎとめていた、最後の、蜘蛛の糸よりも細い希望が無慈悲に、プツリと断ち切られた。
「う……ああ……っ」
俺の口から、声にならない呻きが漏れる。
俺はもはや自分の身体を制御できなかった。
衝撃のあまり、その場に崩れ落ちそうになり、咄嗟に掴んだ窓枠を、ガタン! と大きく揺らしてしまった。
「誰だ⁉」
倉庫の中から、庄司の鋭い声が響く。
奴の声に、俺はもう何も考えられなかった。
ただ、本能が命じるままに、その場から逃げ出した。
背後で、愛崎の「あ、待って!」という焦ったような声が聞こえた気がしたが、もはや俺の耳には届いていなかった。
ただひたすらに、走る。走る。走る。
信じていた世界が完全に崩壊した音を聞きながら。
自分の純情が無価値なゴミ屑となって風に散っていくのを感じながら。
俺はあてどなく、夕闇に沈んでいく街へと向かって、走り続けた。