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第1話 崩れ落ちる理想

 夏の残り香が気怠く空気に溶けている。西に傾いた太陽が県立高校1年B組の教室を、まるで熟した蜂蜜のように、とろりとした黄金色に染め上げていた。

 窓ガラスに反射した光が天井で複雑に揺らめき、自分だけが水底に取り残されたかのような、静かで息苦しい錯覚を覚えた。


 放課後の喧騒はとうに過ぎ去り、校舎は深い静寂に包まれていた。

 今はただ、遠くの音楽室から聞こえる吹奏楽部のアルトサックスの下手くそだが懸命なロングトーンや、グラウンドから響くサッカー部がボールを蹴る乾いた音だけが、気怠い沈黙を周期的に破っていた。


 空気にはチョークの粉と埃の匂い、誰かが使った制汗スプレーの、微かに甘いシトラスの香りが混じり合っている。


 俺、大石星翼(おおいしせいや)は昇降口でローファーに履き替えたところで、ふと、自分の間抜けさに気づいた。

 机の引き出しに、読みかけのラノベを忘れてきたのだ。

 昨日発売されたばかりの、敬愛する作家の最新刊。

 続きを読むのを楽しみにしていたというのに。


「……フッ、これも運命の悪戯か。我が渇望する知識を、この手にできぬとは」


 独り言を呟きながら、俺は小さく苦笑する。

 踵を返し、誰もいないはずの校舎へと引き返していく。

 夕暮れの廊下はひどく静かで、自分の足音だけがやけに大きく響いた。

 軋む床板を歩き、自分の教室の前へ。

 引き戸に貼られた1年B組のプレートが西日で金色に燃えるように光っていた。


 俺が引き戸の取っ手に手をかけ、ガラッと音を立てようとしたが……。


 教室の中から、声が聞こえた。


 押し殺したような、それでいて芯まで甘く蕩けきったような、女の声が聞こえてくる。

 俺の動きが石になったかのようにピタリと止まる。


「……ん……っ……りゅ、やくん……だめ……っ、誰か、来ちゃうってば……!」


 声の主は成瀬遥(なるせはるか)だとすぐにわかった。

 クラスで一番の人気者で誰にでも分け隔てなく、太陽のように笑いかける少女だからだ。

 彼女は俺が密かに想いを寄せる、憧れの少女でもあった。


 彼女の声は俺が知る普段の陽気さとかけ離れていた。

 熱っぽく、湿り気を帯び、聞いているだけでこちらの脳髄まで痺れさせるような、媚薬のような響きを持っていた。


 俺の心臓がドクン、と大きく嫌な音を立てて脈打つ。

 全身の血が急速に冷えていくのを感じた。


 見てはいけない。聞いてもいけない。今すぐ踵を返して、何も見なかったことにして、この場を立ち去るべきだ。

 理性が警鐘を鳴らすが俺の身体は動かない。

 それどころか、背徳感という名の悪魔に背中を押されるように、俺は息を殺し、震える指で扉を数ミリだけ、音を立てないようにゆっくりと開けた。


 そこから覗き見た光景に、俺は呼吸を忘れた。


 黄金色の光が聖なる光のように降り注ぐ教室の中央、横向きに置かれていたのは紛れもなく俺自身の机だ。


 その机に、成瀬遥が両手をつき、ブレザー越しにでも分かるしなやかな背中を、美しい弧を描くように反らせている。

 彼女の後ろには1年ながらサッカー部のレギュラーでクラス一のイケメン、紅林竜也(くればやしりゅうや)が仁王立ちになっていた。

 紅林の制服のズボンは無造作に膝まで下ろされ、露わになった逞しい腰がリズミカルに前後していた。


 パンッ……! パンッ……! パンッ……!


 静まり返った教室に、肉と肉がぶつかり合う、生々しく湿った音が響き渡る。

 その音は俺の鼓膜を直接揺さぶり、脳の奥を不快に痺れさせた。


 俺は成瀬遥の顔を見た。

 いつもはクラス全員を照らす太陽のような笑顔が今は見たこともない表情に歪んでいた。

 快感と、ほんのわずかな苦悶の二つが溶け合って、彼女の顔を扇情的に彩っている。

 潤んだ瞳は虚ろに宙を彷徨い、焦点が合っていない。

 半開きの唇からはか細くて熱い喘ぎ声が絶え間なく漏れ出ていた。


「ぁ……んっ……もっと、おく……っ、りゅうや、くんの……すごいぃ……っ」


 頬は上気し、汗で濡れた黒髪が額やこめかみに張り付いている。

 彼女の表情は俺が今まで夢にまで見たどんな笑顔よりも、遥かに官能的で、俺の純粋な恋心を薄いガラス細工のように、粉々に打ち砕いた。


(成瀬さんが……あんな顔を……俺以外の男に……俺の、机で……)


 絶望が冷たい水のように俺の全身を満たしていく。

 ブレザーのスカートが壁となり、肝心な結合部分は見えないがそれが逆に、俺の脳内で最も残酷な想像を掻き立てた。

 紅林のモノが成瀬の奥でどのように蠢いているのか。

 成瀬の体はそれをどう受け止め、悦んでいるのか。

 見えないことが見えること以上に、俺を奈落の底へと突き落とした。


 全身の震えが止まらない。立っていることすらままならず、無意識に壁に寄りかかったその時だ。

 壁に立てかけていた俺の通学鞄がバランスを崩し、ガタン! と大きな音を立てて床に倒れた。


「誰だ⁉」


 その瞬間、紅林の腰がピタリと止まった。

 行為を中断し、鋭く、殺意にも似た光を宿した視線が扉の隙間にいる俺を正確に射抜く。


 しかし、成瀬は気づかない。


 紅林の動きが止まったことに、むしろ不満を感じたかのように、彼女は恍惚とした表情のまま、甘くねっとりとした声でねだった。


「ん……? りゅうやくん、どうしたの……? 早く……もっと、して……? わたし、もう……へんになっちゃいそう……」


 成瀬の瞳はまだ快感の海に溺れたままだった。

 紅林の視線の先に誰かがいることにも、教室の外で物音がしたことにも、全く気づいていない。


 俺は紅林の殺気と、遥の無邪気なまでの無関心に、同時に心を貫かれた。


(見られた!)

(殺される!)

(成瀬さんは……俺のことなんて、見てすらいない……!)


 金縛りが解けたかのように、俺の時間は再び動き出した。

 恐怖と絶望が俺の全身を支配する。


「や、やばい……!」


 我に返った俺は踵を返し、廊下を全力で駆け出した。

 これ以上、この場所にいてはならない。

 これ以上、あの2人を見ていては自分の心が完全に壊れてしまう。


 背後から紅林の声は聞こえなかった。


 聞こえてきたのは紅林が再び腰を激しく動かし始めたことを示す、生々しい肉の打撃音と、呼応するかのような成瀬の、これまでで一番甲高く、甘く蕩けた喘ぎ声だった。


「ぁあああんっ!……それぇ……っ! もっと、はげしく……! イッちゃうううううううう」


 彼女の声が逃げる俺の背中に突き刺さる、最後の槍となった。

 俺は涙で滲む視界の中を、ただ無我夢中で、自分の魂が砕け散る音を聞きながら、走り続けた。


 自分の存在が彼女たちの世界には最初から存在しなかったのだという、残酷な真実を噛み締めながら。

 

初日は6話まで公開!

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