第一章 8 「母親」
抱き抱えられたアスランはそのまま抵抗できずにそれを受け入れていた。
その時、またもガチャッという音と共にその部屋の扉は開かれる。
「ダイツ!子供を拾ったって本当なの?」
突如として女性の、それもかなり高い声がアスランの耳にもはっきりと届いた。
その声の元を辿るとそこには淡いピンクの髪と灼熱の炎のように真っ赤な瞳を宿した可憐な女がいた。
その女はアスランに…否、アスランを抱える男に近づいてくる。
誰なんだ?こいつは…
こいつ、とは言い方が少し悪くはあるが自身を抱き抱え、優しい瞳でこちらを覗いてくれる男に対しての態度、そして女性の言う子供、その正体であろう自身のことを怒りながら話して登場したことに警戒の音が鳴る。
「その子なの?」
「ああ、ごめんチサ…」
チサ、と呼ばれたその女はアスランの方を向くとギョッと驚愕の表情を見せた。
「なんなの…この子…」
見つめ合うアスランもまた、そのチサの様子に違和感を覚えつつその表情を覗き込む。
まるで何か怯えているような、しかし信じられないと言った様子で目を丸くしているのが感じ取れる。
「ダイツ!何を考えてるの?」
そう言いながらチサはダイツと呼ぶ男の方を向くと睨むようにして、
「なんでっ、よりにもよってこんな…黒の髪…それに黒い瞳…間違いないでしょ?」
その特徴と当てはまるその場にいる者なんて1人しかいない。
故にアスランも察しがついた。
なるほどなるほど、この世界では黒髪黒目はなにか悪い意味合いみたいなのがあるってことか、
出会った時はこの男さえ同じような特徴を指摘していたのだ。
間違いなくそうなのだろう。
黒の髪に黒の目、なんて前世では普通で、むしろそれ以外の方が物珍しいといった感じではあった。
もちろん、最近では髪染めなんかや目の色を変える技術なんかもあるわけなので誰もがその色をしている、という訳では無いが地毛だったり元の瞳の色だったりと言った話であれば黒髪黒目がアスランの地元では当たり前であった。
「その子…どうして捨てないの?」
「そりゃあ、可哀想だから」
「可哀想?そんな理由で?そんな理由でこの子を…魔人を育てるって言うの!?」
揉め合う2人、それも自身のせいであるということにアスランは耐え難い胸の痛みを感じる。
「ねぇ、この子と私なら、どっちが大切なの?」
「そりゃあもちろんチサだよ!」
「なら捨ててきてよ!そんな子…魔人なんて私…」
チサの悲痛な叫びがアスランの耳にもダイツの耳にも届く。
こんなことになってまで、アスランはここにいたいとは思わない、命の恩人が大切な人を失うかもしれないのならアスランは喜んで自身を外に捨ててくれと懇願しただろう。
だが、今のアスランに決定権は一切なかった。
そっと男に抱き寄せられたアスランはその太い傷のある左目を瞑ってウインクをする男を見た。
大丈夫だと言わんばかりに笑いながらぽんと頭を叩く男を…
「けど、俺はアスランを捨てたくない。」
「アスラン?名前までつけたの?私との子供のことは考えないくせにっ!なんでっ、なんで…なんでいつもそうなの?」
泣き崩れ、倒れ込むチサへとダイツは腰を下ろした。
そうして降りれるほどの高さにまで腰が下ろされると、アスランもひょいとその場に着地し、そしてチサの方へと駆け寄った。
「何よ…魔人のくせに…何よ、何も分かってない癖に…」
アスランは赤ん坊なのだ、もう朝宮 康では無い、1人の赤ん坊…アスラン・フォルトなのだ。
だからアスランにできることは限られていて、それでも何も出来ない訳では無い。
「なんでっ、なんでなの…ダイツ…教えてよ…どうして…」
「俺は『英雄』だ。だから、どんな子だろうと見捨てられない…例え俺が赤ん坊嫌いでも俺はこの子を見捨てられやしなかった。」
「なんでっ、なんでっ『英雄』なら、『英雄』なら私のこともちゃんと…」
「わかってる、それは本当にすまないと思ってるしこれからも沢山迷惑はかけると思う。たった1人の惚れた女も泣かせて何が『英雄』だっ、ってなるのも重々承知だ。けど、俺にはこの子を見捨てることは出来ない。」
そうして男は赤ん坊、アスランを抱き抱えて立ち上がり、そっとチサのことを見下ろした。
「それに、こいつだって森の中で1人だったんだ。孤独だったんだよ、まるで昔のチサみたいに」
「あなたが私を拾ってくれたのは知ってるけど…それでも…」
またそっと腰を落とすと今度はその場に座り込み、そっと優しくその女を抱きしめた。
淡いピンクの髪がくしゃっとなりながらもチサは「私は…」と続ける。
「私は、あなたとの子供が欲しかったの…」
「作ろう…多分今の俺なら赤ん坊の面倒、少しは見るのも嫌じゃないから、」
そんな抱きしめ合う2人に挟まれたアスランはそっと呟くのだった。
「いあ、」
本当はチサと、そう呼ぶつもりだったのが、けれどそれで良かったのだろう。
「あなたは…いいえ、あなたも…私と同じなら…」
「――」
「もし、そうなら…」
アスランはチサの過去など知らない。知らないがそれでもわかることはある。
チサは変わらず声を震わせ、それでもアスランの頬に手を当てる。
「ふっ…赤ん坊嫌いなあなたがなんで捨てたくないのか、わかった気がする。」
「それは『英雄』としての責務であって…」
「いいえ、この子が特別だから…魔人にもいい人はいるしスイルスさんのことだってある、言ってしまえば教育次第…だからでしょう?」
「今スイルスは他の子で手一杯だからな、」
アスランの知らない人の名の事は置いておき、アスランはその女の胸の中に入り込んだ。
「もう…アスランは甘えん坊さんなんだから、 」
「いあ、あいう、」
俺はこの2人に感謝しなきゃな、
アスランの思いと同時にチサもまたあることを決意した。
「ダイツ、」
「どうした?」
「覚悟、決めたよ」
アスランの方を向き、涙を拭ったあとでそっと立ち上がりアスランを抱える。
「あなたがこの子、アスランの父になるって言うのなら、私もこの子の…アスランの母親になる。私もこの子も似たような目をしているから、だから私がこの子を見捨てることは出来ない。」
そうして今、アスランの異世界生活は幕を切ったのであった…