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暗殺者の襲撃から逃れ、さらに数日。レザイン、プラナ、そして寡黙な騎士マルトルルの三人は、既に人の気配がほとんどない奥へと続く道に入っていた。レザインの脇腹の傷はプラナの優れた神聖魔法によって完治していたが、毒の影響による倦怠感はまだ完全には抜けきっていない。プラナも連日の逃避行と精神的な消耗で疲労の色が濃く、マルトルル(鎧)だけが、その鋼鉄の体躯に疲労の色を見せることなく、状況に応じて二人を先導したり、後衛を務めたりしていた。
その日、彼らが偶然見つけたのは、森の奥深くに打ち捨てられた古い礼拝堂だった。苔むした石造りの小さな建物で、屋根は半ば崩れ、壁には蔦が絡みついている。しかし、内部は不思議なほど清浄な空気に満ちており、祭壇の奥からは微かに清らかな水の流れる音さえ聞こえていた。かつては修道士が祈りを捧げた聖域だったのかもしれない。ここは主要街道から外れ、いつしか誰も寄り付かなくなったようだ。
「ここで少し休みましょう」
プラナが安堵の息をつき、崩れた壁に腰を下ろした。
「この場所なら…少しは追手の目も届かないかもしれません」
レザインも同意し、周囲を警戒しながら礼拝堂の内部を検分する。マルトルル(鎧)は、入り口近くに静かに佇み、外の気配を窺っているようだった。束の間の休息。だが、レザインの内心には、言いようのない胸騒ぎが燻っていた。あの暗殺者たちが持ち帰ったであろう情報――アンデッドの存在。それは、ウォーザルにとって、そして教会にとって、看過できない「異端」の証拠となるはずだ。次に来る追手は、アンデッド対策をしてくるだろう。
その予感は、的中した。
レザインは壁にもたれて回復に努め、プラナは祭壇の近くで静かに祈りを捧げていた。マルトルル(鎧)は、プラナの傍で微動だにせず立っていたが、不意にその鋼鉄の兜を、礼拝堂の崩れた入り口の方へと鋭く向けた。その動きには、明確な警戒の意思が感じられた。
「…どうした、マルトルル?」
レザインが低く声をかける。 プラナも祈りを中断し、不安げにマルトルル(鎧)を見た。 マルトルル(鎧)は応えない。ただ、その佇まいからは、明らかな脅威の接近を告げるような、張り詰めた空気が放たれていた。
「…来たか」
レザインは剣の柄を握りしめ、立ち上がった。
マルトルルがプラナをかばうように前に出ると、礼拝堂の崩れた入り口から、陽光を背にして数人の人影が現れた。先頭に立つのは、厳格な顔つきの中年男性。その身を包むのは、通常の神官服とは異なる、銀と黒を基調とした機能的かつ荘重な装束。胸元には、髑髏を砕く錫杖を象った印が鈍く輝いていた。男の手には儀礼用にも見えるが、同時に武器としての威圧感を放つ白銀の錫杖が握られている。彼の後ろには、同様の装束を纏い、同じ印を身に着けた者がさらに四人控えていた。彼ら全員から放たれるのは、鍛え上げられた戦士の気配と、揺るぎない信仰心、そして異端に対する絶対的な拒絶の意思だった。
「あ…!」
プラナが息を呑んだ。
「あの印は…! 異端審問官…!」
「審問官?」
レザインは眉をひそめた。
「教会の…始末屋かなにかか?」
「始末屋などというものではありません!」
プラナは小声ながら強い口調でレザインに説明した。
「教会内で異端の教えや存在を調査し、裁定する特別な権限を持つ方々です! その審問は厳格で…一度異端と見なせば裁判なしで処断する、容赦のない方々なのです! まさか、ウォーザルが彼らを動かすなんて…!」
彼女の声は恐怖に震えていた。
先頭の男――審問官長――が、錫杖の石突を一度、礼拝堂の石床に軽く打ち付けた。硬質な音が響き、場の空気が凍り付くように張り詰める。
「聖女プラナ」
審問官長の声は冷たく、硬質だった。
「そして、その傍らにいる異端の術者よ。貴殿らにかけられた異端の嫌疑について、これより審問…いや、その必要もあるまい。既に答えは出ておる」
彼はレザインを一瞥し、次いでマルトルル(鎧)へと侮蔑と嫌悪に満ちた視線を向けた。
「…報告にあった通りだな。不浄なるアンデッドを従え、聖職者にあるまじき異端の術者と行動を共にするとは。聖女の名が泣くぞ」
「ち、違います! レザインさんは…!」
プラナが反論しようとするが、審問官長は冷たく言い放った。
「黙れ、堕ちた聖女よ。言い訳は神の前でするがいい。まずは、その穢れたる存在をあるべき虚無へと還す!」
審問官長はマルトルル(鎧)を指さし、錫杖を高く掲げた。
「全隊、執行! 神の御名において命ず! 不浄なる“例外”よ、その存在を解き放ち、世界の礎へと還れ! 世界洗浄!!」
審問官長の錫杖から、そして四人の審問官たちの聖印から、純粋な神聖エネルギーの奔流が放たれた。それは単なる浄化の光ではない。この世界の法則に組み込まれた、異常存在を強制的に分解し、その構成要素を世界の“リソース”へと還元する、根源的な力の顕現。白い光の濁流が、空間そのものを洗い流すかのように、マルトルル(鎧)へと殺到する。
「させるか!」
レザインは咄嗟に前に飛び出し、右腕の焦点具に魔力を注ぎ込んだ。
「乱れよ、聖なる流れ!」
彼の足元から黒い靄のようなものが広がり、神聖な力の流れを阻害し、乱すことを目的としたジャミング系の防御術を展開する。
(だが、これほどの純粋な神聖力の奔流の前では、効果は薄い…!)
案の定、レザインが展開したジャミングの靄は、「世界洗浄」の光の奔流に触れた瞬間、まるで陽光に晒された影のように掻き消えた。そして、圧倒的な還元力の奔流が、マルトルル(鎧)へと直撃した!
しかし、予想された破壊も消滅も起こらなかった。マルトルル(鎧)は、その凄まじい力の奔流を受けても、全く変化を見せず、ただ静かに佇んでいた。鎧に傷一つつくこともなく、その存在が揺らぐ気配もない。まるで、春のそよ風を受けたかのように、完全に無反応だったのだ。
「なっ…!?」
審問官長が絶句した。
「“世界洗浄”が…効かぬだと!?」
「ば、馬鹿な! あの力は、いかなる不浄も還元するはず…!」
他の審問官たちも、目の前の信じられない光景に激しく動揺している。彼らの絶対的な自信が、根底から揺らいでいた。 レザインもプラナも、その光景に息を呑んだ。効かない? あの圧倒的な力が? レザインは瞬時に思考を巡らせた。
(影響を受けていないのか? なぜだ? アンデッドなら、浄化されるか、少なくとも苦悶するはず…!)
「…怯むな! 相手がどのような邪法を使おうと、神の御前では無力! 破邪の力で打ち砕け!」
審問官長は自らの動揺を叱咤で打ち消し、錫杖を再びマルトルル(鎧)へと向けた。彼の鋭い号令一下、他の四人の審問官たちは、明らかに動揺の色を残しながらも、即座に反応する。彼らは素早く短い言葉を交わし、あるいは目線だけで合図し、訓練された動きで半円状の陣形を組んだ。先ほどの失敗から学び、今度はより直接的かつ多様な攻撃で対象を完全に破壊するつもりだろう。
「邪を打ち砕け!聖槌!」
「貫け!浄槍!」
「縛めよ!破鎖!」
四人の審問官から、そして審問官長の錫杖から、それぞれ異なる性質を持つ、しかし等しく強力な破邪の神聖力が迸った。一人の審問官の手のひらからは、巨大な光り輝く拳が形成され、唸りを上げてマルトルル(鎧)へと迫る。別の者からは、鋭い穂先を持つ純白の光の槍が、空間を切り裂くように放たれた。さらに別の二人は、マルトルル(鎧)の動きを封じようと、実体を持つかのように見える光の鎖を幾重にも投げかける。
そして審問官長は錫杖を構え、叫んだ。
「喰らえ!神拳!」
そして審問官長の錫杖からは、それら全てを凌駕するほどの凝縮された光の塊――神の拳そのもの――が、圧倒的な質量と破壊力を伴って叩きつけられようとしていた。**複数の方向から、異なる性質の攻撃が、寸分の隙もなくマルトルル(鎧)へと殺到する!
その瞬間、先ほどとは全く異なる反応が起こった。マルトルル(鎧)は、それらの神聖な攻撃の直撃を受けても吹き飛ばされることなく、それどころか、まるでご馳走を前にしたかのように、その全てのエネルギーを、自らの鎧へと吸収し始めたのだ! 光の拳も、聖槍も、破邪の鎖も、鎧に触れた瞬間、その形を失い、純粋なエネルギーとなって鎧の表面へと吸い込まれていく。先ほどは素通りした力が、今度はまるで渇いた大地が水を吸い込むように、あるいは飢えた獣が餌を貪るように、彼の内に取り込まれていく。鎧の表面には黄金色の紋様が奔流のように走り、その輝きは急速に増していく。兜の奥の赤い光も、歓喜するかのように力強く脈打ち、明らかに活性化している。
「な…なんだと!?」
「こ、今度は吸収しているだと!?」
「力が…増している…!?」
審問官たちの驚愕は、先ほど以上のものだった。レザインもまた、目の前の現象に瞠目した。
(神聖な攻撃エネルギーを…力に変えているだと!? まるで燃料補給のようだ…! そうか、こいつを動かす核…あの“意志”が、聖なる力と極めて親和性が高いからか? だから浄化や還元の力は効かず、攻撃的な聖なる力は逆に吸収してしまうのか!?)
彼の探求心が、畏怖と共に激しく脈打つ。プラナもまた、マルトルル(鎧)のその姿に、もはや恐怖ではなく、何か神聖なものを見るかのような、畏敬の念を覚えていた。
「ええい、ままよ!」
魔法が通用しないと悟ったのか、あるいはプライドを傷つけられた怒りか、審問官長が破れかぶれになったように叫び、手に持った白銀の錫杖を棍棒のように振りかぶり、マルトルル(鎧)へと直接殴りかかってきた!
だが、それはあまりにも無謀な行為だった。神聖なエネルギーを吸収し、完全に活性化したマルトルル(鎧)の反応速度は、もはや人間のそれを遥かに超えていた。彼は迫りくる錫杖を鋼鉄の左腕で軽々と受け止め、右腕のガントレットを音もなく分離し、前腕から射出した。射出された鋼鉄の拳は審問官長の鳩尾を正確に打ち抜き、彼を「く」の字に折り曲げながら後方へと吹き飛ばす。
さらに、マルトルル(鎧)本体がふわりと床から浮き上がった。脚がないわけではないが、まるで重力など意に介さないかのような、不気味な浮遊。そして、先ほど分離・射出された右のガントレットと、今度は左のガントレットも同じく分離し、それぞれが独立した意志を持つかのように礼拝堂内を自在に飛び回り始めたのだ!
「なっ…腕が…!?」
「空中を飛んでいるだと!?」
審問官たちは、理解不能な光景に完全に度肝を抜かれていた。二つのガントレットは、彼らの周りを高速で旋回しながら、その五指の先端それぞれから、赤く輝く細い熱線を断続的に発射する。それは精密な射撃というより、威嚇と牽制を兼ねた弾幕に近い。審問官たちは悲鳴を上げながらそれを避けようとするが、狭い礼拝堂の中で逃げ場は少ない。熱線が壁や床を掠め、石を溶かし、焦げ臭い匂いを漂わせる。
「うわぁっ!」
「ぐはっ…!」
避けきれなかった熱線が装束を焼き、皮膚を焦がす。あるいは、飛び回るガントレット本体による直接的な打撃が、彼らの骨を砕き、意識を刈り取っていく。それはもはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。**マルトルル(鎧)本体は礼拝堂の中央で静かに浮遊したまま、分離した両腕がまるで狩りを楽しむかのように、審問官たちを翻弄し、確実に無力化していく。その光景は、悪夢に出てくる異形の殺戮機械を想起させた。
「ひぃぃぃ!」
「た、助けゴフッ」
「だ、駄目だ、撤退! 撤退だ!」
生き残った審問官は、魔法も効かず、物理的にも全く歯が立たないという現実に、完全に心を折られたようだ。彼らは重傷を負った仲間を文字通り引きずるようにして、逃走を図る。壁の崩れた出口から、這々の体で礼拝堂の外へと転がり出ていった。その背中には、もはや教会の権威も、異端を裁く者の威厳も、微塵も残されてはいなかった。
やがて、飛び回っていた二つのガントレットは、まるで役目を終えたかのようにマルトルル(鎧)本体の元へと滑るように戻り、カシャン、という音と共に再び両腕へと装着された。浮遊していた体も静かに床へと降り立つ。 嵐が過ぎ去った礼拝堂には、再び静寂が戻った。ただ、祭壇の前に佇む鋼鉄の騎士が、吸収した神聖な力によって内側から淡い黄金色のオーラのようなものを放っていること、そしてその異様なまでに神々しい光景を前に、言葉もなく立ち尽くす聖女と死霊術師がいることだけが、先ほどまでの激しい戦闘の結末を物語っていた。