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夜。教会地下にある、存在を知る者の少ない隠し部屋の一つ。ウォーザルは冷たい石壁に囲まれ、苛立たしげに部屋の中を歩き回っていた。昼間に従者を通じて“古物商”へ出した「清掃」依頼。その結果報告が、指定した時刻を過ぎてもまだ届かない。最初の報告では、護衛の騎士は始末したとのことだった。ならば残るは聖女と、どこからか湧いて出た黒服の男だけのはず。ギルドの手練れにかかれば、造作もないはずだ。だというのに、この遅延は何だ? あの忌々しい聖女プラナの妙な運の強さが、またしても作用しているとでもいうのか?
不意に、壁の一部が音もなくスライドし、黒ずくめの旅装束の人影が一つ、静かに入ってきた。隠しきれない疲労と…そして、何か信じられないものを見たかのような、強い困惑と不満の色が浮かんでいた。男はウォーザルに対して深々と頭を下げるようなことはせず、ただ無言で対峙した。その態度自体が、ウォーザルの神経を逆撫でする。
「…遅かったではないか。結果はどうだ? “清掃”は完了したのか?」
ウォーザルは尊大な口調を保とうとしながらも、焦りを隠しきれずに問い詰めた。 暗殺者は静かに首を横に振った。
「依頼は失敗いたしました、大司教猊下。目標の排除は不可能と判断し、撤退しました」
「不可能だと!? ふざけるな! 聖女と、どこぞの男一人だろうが! なぜ仕損じる!」
「情報が…違いすぎました」
暗殺者の声は低く、硬かった。明らかにウォーザルに対する非難が込められている。
「まず、同行者の黒服の男。あれは確かに手練れの剣士でしたが、我々の毒で戦闘不能には追い込みました。問題は…もう一方の護衛です」
「護衛だと? 死んだ騎士のことか?」
「左様。死んだはずの騎士が、そこにいました。 しかも…」
暗殺者は忌々しげに言葉を続けた。
「あれは、生きた人間ではなかった。戦闘中、我々の対装甲爆弾で兜が吹き飛びましたが、その下にあったのは…禍々しい赤い光を宿した、アンデッドでした」
「アンデッドだと!?」
ウォーザルの顔色が変わった。驚愕と、生理的な嫌悪感が彼の表情を歪める。
「馬鹿な…! 死んだ騎士がアンデッドになって現れたというのか!? そんなことが…!」
「我々も信じられませんでしたが、事実にございます。しかも、ただのアンデッドではない。その耐久力は異常でした。我々の刃も、特殊な暗器も、ほとんど通用しない。さらに…」
暗殺者は一度言葉を切り、まるで悪夢でも語るかのように続けた。
「戦闘の最中、あのアンデッドは腕のガントレットを射出し、仲間の一人を戦闘不能に追い込みました。そして…吹き飛んだ兜とガントレットが、まるで生きているかのように、勝手に元の場所へと戻り、再装着されたのです!」
「…腕が、飛んで…戻るだと…?」
ウォーザルは言葉を失い、呆然と暗殺者を見返した。理解を超えた現象に、彼の思考は完全に停止していた。
「はい。あのような存在は、我々も見たことがありません。あれは、我々が請け負うべき“生きている標的”では断じてありませぬ。死んでいるものを殺すのは、我々の仕事の範疇外です。 しかも、事前にそのような異常な存在であるとの情報は一切なかった。今回の依頼は、これにて手を引かせていただきます。報酬は、実働分のみ頂戴いたします」
暗殺者は一方的にそう告げると、ウォーザルの返事を待たずに再び壁の中へと姿を消した。後には、彼の言葉がもたらした衝撃と、ギルドに見限られたという事実に打ちのめされたウォーザルだけが残された。
「くそっ! くそぉっ! アンデッドだと? 腕が飛ぶだと!? ふざけるな! そんなものが…そんなものが許されるものか!」
ウォーザルは壁を何度も拳で殴りつけた。痛みも感じないほど、怒りと混乱と、そして得体の知れないものへの恐怖が彼を支配していた。死んだ騎士がアンデッドとして蘇り、異常な力で暗殺者を退けた? そんなことが現実にあり得るのか?
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その時、部屋の隅の闇から、音もなくドウブが姿を現した。彼はウォーザルが暗殺者と密会することも事前に察知し、その一部始終を壁の隠し通路から監視していたのだ。
「…随分と、お取り込み中のご様子ですね、大司教猊下」
ドウブの声は、相変わらず平坦で感情が読み取れない。
「ドウブ…! 見ていたのか!」
ウォーザルは驚きと不快感を露わにした。
「ええ、成り行きを少々」
ドウブはしれっと答えた。
(アンデッド、腕の射出、パーツの自動帰還…実に興味深い報告だ。報告書に書き記すべき情報が増えた。それにしてもこの大司教、動揺しすぎだな。器が知れる)
「成り行きだと!? 私がどれだけ…!」
ウォーザルは言葉を続けようとして、しかし自分の無様な姿をこの若造に見られていることに気づき、一瞬言葉を飲み込んだ。
「猊下のお気持ち、お察しいたします」
ドウブは僅かに同情を示すかのような素振りを見せたが、その目は冷ややかに状況を分析していた。
「しかし、報告が事実であるとすれば、事態は我々の想像以上に厄介です。異常な能力を持つアンデッドが、聖女と共にいる。これは放置すれば、どのような災厄を招くか分かりませぬ。教会の権威にも関わる一大事です」
「分かっておるわ! だが、ギルドの連中まで手を引いたのだぞ! どうしろというのだ!」
「だからこそ、猊下」
ドウブは静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。
「このような異端の産物、あるいは神の摂理に反する存在に対処するため、教会には専門の部署がございます。ここは速やかに異端審問局に連絡を取り、審問官の派遣を要請し、あのアンデッドの完全なる浄化と、その出現原因の調査を委ねるのが、最も確実かつ正当な道かと存じますが」
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ドウブの進言は、またしても正論だった。そして、忌々しいことに、現状ではそれ以外に有効な手立てが思いつかなかった。アンデッド、それもあのような異常な存在となれば、もはや彼の手に負えるものではない。審問官を呼ぶことは、中央に、そして「あのお方」にこの失態を知られるリスクを伴う。だが、このまま放置して事態が悪化すれば、それこそ取り返しがつかないことになるかもしれない。
(くそ…! この私が…この小僧の、そして教会の“犬”どもに頼らねばならんとは…! だが…やるしかないのか…!)
ウォーザルは唇を噛み締め、内心の屈辱と焦りを押し殺した。そして、不本意極まりないという表情を隠さずに、ドウブに向かって吐き捨てるように言った。
「……分かった。貴様の言う通りにしよう。異端審問官を呼ぶ。奴らならば、あの忌まわしいアンデッドを浄化できるだろう。…そして、もしそれを操る者がいるならば、それもろともな!」
彼は最後に、あの黒服の男――レザインの存在を思い出し、付け加えた。アンデッドがいるなら、術者がいるはずだ。そいつも異端として裁かねばならない。 彼は震える手で、引き出しの奥に隠していた異端審問局との連絡に使う特殊な水晶を取り出した。
彼は水晶に魔力を込め、特定の相手へと意識を繋いだ。
「…西管区大司教ウォーザルである。緊急事態だ。我が管区内にて、死者がアンデッドとして復活し、異常な能力を発揮しているとの報告を受けた。聖女プラナが、このアンデッドと行動を共にし、何らかの関与をしている疑いがある。直ちに、異端審問官の派遣を要請する。目的は、当該アンデッドの確保および浄化、並びに事態の真相究明。これは、神の御名において、断じて放置できぬ事態である!」
水晶が淡い光を発し、彼の要請が受理されたことを示す。ウォーザルは荒い息をつきながら、水晶を元の場所へと隠した。これで、教会の「掃除屋」が動く。彼らが来れば、あのアンデッドも、それを操る術師も、そしてあの忌々しい聖女も、全て片が付くはずだ。彼はそう信じようとしたが、心の奥底には、ギルドに見限られた屈辱と、事態が自分の制御下から離れていくことへの言いようのない焦りと恐怖が、黒く渦巻いていた。