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あの街道での襲撃から数日が過ぎていた。一行はウォーザルの追跡を警戒し、主要街道を避け、森や丘陵を縫うように徒歩での移動を続けていた。人里には必要最低限の食料と水を補給するために、日が落ちてから短時間立ち寄るのみ。プラナの指示により、マルトルル(鎧)は兜の奥の赤い光を消し、寡黙な護衛騎士を装ってはいたが、全身を覆う鋼鉄の鎧と、そのただならぬ威容は、どうしても人目を引いてしまう。…隠密行動が必須だった。
その日も、日が西に傾き、森の奥に夕闇が忍び寄る頃、三人は小さな川辺近くの開けた場所で野営の準備を始めていた。レザインが焚き火用の枯れ枝を集め、プラナが水筒に川の水を汲んでいる。マルトルル(鎧)は、いつものようにプラナの傍らに立ち、周囲を警戒するように微動だにせず佇んでいた。森は不気味なほど静まり返り、鳥の声すら聞こえない。
レザインが枯れ枝の束を抱え、プラナの元へ戻ろうとした、その時だった。不意に、**マルトルル(鎧)が動いた。何の前触れもなく、彼はプラナの前に立ちはだかるように一歩踏み出し、分厚い鋼鉄の腕を掲げた。
「マルトルル…?」
プラナが訝しげに声をかける。 レザインも異変を感じ取り、枯れ枝を放り出して剣の柄に手をかけた。
次の瞬間、ヒュンッ、という鋭い風切り音と共に、茂みの中から数本の黒い矢のようなものがプラナを目掛けて飛来した。マルトルル(鎧)はそれを予測していたかのように、掲げた腕――そのガントレット部分――で正確に弾き落とす。カキン!という硬質な音が響き、矢はあらぬ方向へと跳ね返った。それは通常の矢ではなく、先端に毒が塗られた細長い針のようだった。
「来たか!」
レザインが叫ぶのと同時に、周囲の茂みから音もなく四つの人影が躍り出た。夜陰に溶け込む黒装束、統制の取れた無駄のない動き。先日遭遇した連中とは明らかに練度が違う。暗殺者ギルドの手練れ、それも戦闘に特化したチームだろう。
暗殺者たちは即座に行動を開始した。言葉を交わすことなく、二手に分かれる。ツーマンセル。一組はマルトルル(鎧)を、もう一組はレザインを、それぞれ足止めし、あるいは排除することを狙っているようだ。プラナ自身への直接攻撃よりも、まず護衛を無力化する算段か。
レザインは向かってくる二人組と対峙する。連携を取りながら繰り出される短剣と細剣の攻撃は速く、的確だ。レザインは剣技を駆使し、回避と防御に集中するが、相手の連携は巧みで、なかなか反撃の糸口を掴めない。
(くそ、手強い…!)
一方、マルトルル(鎧)も二人組の暗殺者を相手にしていた。暗殺者たちは騎士の異常な頑丈さを知ってか、力押しではなく、鎧の隙間を狙った刺突や、関節を狙った打撃を繰り出してくる。しかし、マルトルル(鎧)は驚くほど的確かつ素早い動きでそれらを捌き、あるいは分厚い鎧で受け止めていた。その動きは、レザインが知るどのアンデッドとも異なり、まるで熟練の戦士が自らの意志で戦っているかのようだ。
(馬鹿な…! 指示なしでなぜこれほど動ける!? )
その時、マルトルル(鎧)と対峙していた暗殺者の一人が、素早く懐から奇妙な形状の金属球を取り出し、騎士の胸部装甲へと投げつけた。金属球は装甲に張り付くと同時に、カチリ、と小さな音を立てる。 金属球に仕込まれていた導火線に火花が走り、次の瞬間、轟音と共に炸裂した。対装甲用の粘着爆弾だ! 衝撃と熱波が周囲に広がる。マルトルル(鎧)の巨体が大きく揺らぎ、胸部装甲が黒く焼け焦げ、僅かに凹んでいる。そして、その衝撃で頭部を守っていた兜は爆風で遠くへ飛ばされ、地面に激突した。 兜の下から現れたのは、空虚な闇の中心で禍々しく輝く、あの赤い光。アンデッドの証が、はっきりと晒された。
「……アンデッド!」
暗殺者の一人がつぶやく。 プラナは息を呑み、レザインも爆発音とマルトルル(鎧)の異様な姿に一瞬気を取られた。
その隙を、もう一人の暗殺者は見逃さなかった。レザインと対峙していた暗殺者が、素早く間合いを詰め、毒蛇のようにしなる短剣を彼の脇腹へと突き立てた。
「ぐぅっ…!」
鎧の隙間を縫って突き刺さった刃が、肉を深く抉る。激痛と共に、急速な痺れと高熱がレザインの全身を襲った。強烈な神経毒だ! レザインは膝から崩れ落ち、視界が急速に白んでいく。
(まずい…毒が…回る…!)
止めを刺そうと、暗殺者が毒の短剣を振り上げる。レザインはもはや抵抗できない。
だが、その瞬間、信じられない光景が起こった。
プラナを庇うように立っていたマルトルル(鎧)の右腕のガントレット部分が、轟音と共に前腕から分離し、まるで砲弾のように射出されたのだ! 鋼鉄の拳は、レザインに止めを刺そうとしていた暗殺者の胸部を直撃し、骨を砕く鈍い音と共に彼を森の奥へと吹き飛ばした。ロケットパンチ――そんな馬鹿げた現象が、現実に起こっていた。
さらに驚くべきことに、吹き飛ばした勢いで回転しながら宙を舞っていたガントレットと、先ほど爆弾で吹き飛ばされた兜が再度空中へと動き、まるで磁石に引かれるように空中で軌道を変え、マルトルル(鎧)の腕と首元へと吸い寄せられるように、カシャン、という音と共に元の位置へと寸分の狂いもなく装着されたのだ。
「な…なんだ、あれは!?」 「腕が…飛んだぞ!?」 「兜も…戻った…!?」
残った三人の暗殺者は、目の前で起こった物理法則を無視したかのような現象に完全に度肝を抜かれ、恐怖に顔を引き攣らせていた。アンデッドであることだけでも異常なのに、パーツを射出し、それが自動で戻るなど、彼らの理解を遥かに超えていた。 彼らは互いに目を見合わせると、もはや任務続行は不可能と判断したのだろう。煙玉を使い、今度こそ全速力で森の闇へと逃げ去っていった。アンデッドの情報と、あの理解不能な現象を持ち帰ることを優先したのかもしれない。
レザインは霞む意識の中で、その一部始終を見ていた。
(…腕が…飛んで…戻った…? 冗談だろ…?)
毒による激痛と痺れの中で、彼の思考は混乱していた。体の自由が急速に奪われていく。
「…しくじった……毒、が…」
レザインは呻き、崩その場に意識を失いそうになりながら倒れ込んだ。
「レザインさん!」
プラナが悲鳴に近い声を上げて駆け寄り、彼の体を支える。レザインの顔色は悪く、呼吸も浅くなっている。
「毒…! 大丈夫ですか!?」
プラナはレザインの言葉を待たず、即座に行動に移った。彼女は震える手で胸元の銀の聖印を強く握りしめると、目を閉じ、澄んだ声で祈りの言葉を紡ぎ始めた。彼女の体から、温かく清らかな光が溢れ出す。その光はレザインの脇腹の傷口へと集中し、まるで太陽のような輝きを放った。
レザインは、自身の体内を蝕んでいたはずの毒が、その光に触れた途端、急速に浄化され、霧散していくのを感じた。同時に、深く抉られた傷口も、肉が盛り上がり、瞬く間に塞がっていく。尋常ではないほどの治癒速度と浄化の力だった。
(なんだ…この治癒力は…!? ただの神聖魔法じゃないぞ…! これほどの即効性と威力…並の司祭や神官ではありえない…! こいつ、一体…?)
レザインは驚愕と、そして毒から解放された安堵感の入り混じる、朦朧とした意識の中で、目の前で祈りを続けるプラナを見つめた。
やがて光が収まると、レザインの脇腹の傷は完全に塞がり、毒の気配も消え失せていた。消耗はしているが、命に別状はない。プラナは額に汗を滲ませ、はぁ、と安堵の息をついた。
「…助かった…礼を言う、プラナ…しかし、あんたのその魔法は…?」
レザインは明らかに訝る視線を向けた。彼の訝しむような視線を受けて、プラナははっとしたように顔を赤らめた。
「あ…あの…申し遅れました…」
彼女は視線を泳がせ、ややあって、恥ずかしそうに、しかしはっきりと告げた。
「わ、私は…中央教会より、正式に聖女として認定されております…。ですので、神聖魔法の治癒の力は…少しだけ、得意でして…」
「……聖女、だと…?」
レザインは思わず聞き返した。聖女――教会が認定する、特別な奇跡の力を持ち、篤い信仰を集める存在。辺境の一介の聖職者だと思っていた娘が、まさかその聖女だったとは。彼は驚きに目を見開いた。なるほど、道理であのウォーザルとかいう大司教が執拗に命を狙うわけだ。そして、あの尋常ならざる神聖魔法の力も納得がいく。だが、同時に、新たな面倒事の予感も強く感じていた。
彼は体を起こすと、改めてマルトルル(鎧)を見た。兜もガントレットも元通りに装着され、静かに佇んでいる。そして、レザインは再び目を疑った。先ほどの戦闘で、粘着爆弾によって黒く焼け焦げ、凹んでいたはずの胸部装甲が、他の無数の傷跡と共に、まるで何事もなかったかのように、完全に修復されていたのだ。
(…傷が治ってるだけじゃない…パーツまで戻った…だと…? 自己修復に、遠隔操作、パーツの自動帰還…? こいつは…一体…)
頑丈さだけではない。自律戦闘能力。そして、この異常なまでの回復力。もはや、彼が知るアンデッドの範疇を完全に逸脱している。ワーグ型? いや、違う。これは、何か全く別の、未知の存在だ。術の最中に感じた、あの異質な力の介入。そして、この娘が「聖女」であるという事実。それが、この異様な存在を生み出したのか? レザインの探求心は、今や純粋な好奇心だけでなく、得体の知れないものへの畏怖と、そしてこの存在を解き明かさねばならないという強い衝動に駆られていた。同時に、こんな規格外の存在と、そして「聖女」を連れて、これから悪徳大司教と対峙しなければならないという現実に、深い溜息をつかずにはいられなかった。