2:2
夜明け前の森は、深い静寂と湿った土の匂いに満ちていた。昨夜の血腥い街道からは数刻かけて離れ、今は古びた狩猟小屋と思われる廃屋に身を潜めている。壁の隙間からは冷たい風が吹き込み、屋根の抜け落ちた部分からは、白み始めた空が覗いていた。
レザインは壁に背を預け、革の手袋を外した手で無意識に篭手の内側を撫でながら、短い休息を取っていた。小屋の隅でパチパチと爆ぜる小さな焚き火が、唯一の光源であり、暖かさの源だ。その揺らめく炎の向こうに、鋼鉄の鎧――アンデッドと化したマルトルル――が、墓石のように静かに佇立している。時折、兜の奥の赤い光が、まるで呼吸するかのように微かに明滅するのが見えた。
反対側の隅では、銀髪の少女プラナが、膝を抱えてうずくまっていた。彼女の白い司祭服は見る影もなく汚れ、顔色は依然として蒼白い。焚き火の光が、彼女の長い睫毛の先に残る涙の粒をきらりと照らした。マルトルルを失った悲しみ、目の前で行われた冒涜的な秘術への恐怖と嫌悪、そして現状への絶望感。それらが彼女の小さな肩に重くのしかかっているのが、そのうなだれた姿から痛いほど伝わってくる。レザインへ向けられる視線は、未だ鋭い警戒と不信に満ちていた。
重苦しい沈黙が、焚き火の薪が崩れる音だけを伴奏にして続いていた。レザインが保存食の硬いパンを無言で齧っていると、不意にプラナが顔を上げた。そのアイスブルーの瞳には、涙の跡は痛々しいものの、混乱の中にも強い光が戻っていた。彼女は震える唇を一度引き結ぶと、意を決したようにレザインに向かって口を開いた。
「あの…私はプラナ、と申します。中央教会よりこの西管区へ遣わされました。あなたは…?」
突然の自己紹介に、レザインはパンを齧る手を止め、少し眉を上げたが、すぐに無表情に戻って短く応じた。
「レザインだ。訳あって、しがない傭兵さ。……ま、死霊術は世間受けが悪いからな。」
彼は肩をすくめ、言葉を濁した。
「それで、プラナ。昨夜のあれは、どういうことなんだ? あんたほどの聖職者が、なぜあんな連中に命を狙われる?」
プラナは一瞬言葉に詰まり、視線を足元の枯れ草へと落とした。レザインへの不信感は消えていないだろう。それでも、彼女は意を決したように顔を上げ、静かに語り始めた。
「…ウォーザル。西管区を統べる大司教の名をご存知ですか?」
「名前くらいはな。敬虔で有能な方だと聞いているが…」
レザインはわざと探るような言い方をした。 プラナは皮肉げに唇の端を歪めた。
「表向きは、そうでしょう。ですが…私は、聖職者としてこの地に赴任し、日々の務めを果たす中で、彼の行いに看過できない疑念を抱きました。彼が熱心に後援している孤児院があるのですが…」
彼女の声が僅かに震える。
「記録を調べると、そこに入った子供の数と、成長して出て行ったとされる子供の数に、どうしても説明のつかない大きな隔たりがあるのです。他にも、不自然な金の流れや、院の周辺での黒い噂…私は、何か恐ろしいことが行われているのではないかと感じ、いてもたってもいられず…私の独断で調査を…その実態を確かめようと、動き始めた矢先でした。昨夜の襲撃は…おそらく、私の動きを察知したウォーザルが放ったものかと…」
彼女の告白からは、確証はないながらも強い義憤と、子供たちへの案じる気持ちが伝わってきた。
(なるほど。教会の正式な調査ではなく、この娘個人の正義感からの行動か。だから護衛もあの若い騎士一人だったわけだ。無謀だが…その心意気は大したもんだ)
レザインは内心で評価を修正した。
「それで、あんたはどうしたい? 尻尾を掴んで、その大司教とやらを引きずり下ろしたいのか?」
「いいえ…! 私怨ではありません。ただ、真実を明らかにしたいのです。もし本当に子供たちが危険な目に遭っているのなら、一刻も早く助け出さなければ…!」
プラナは司祭服を強く握りしめた。
「そのための証拠が、彼が管轄する港町…エイティにあるはずなのです。西管区の行政府があるコーンシェルからは、乗り合い馬車を使っても七日はかかる道のりですが…私とマルトルルは、追っ手を撒くため別々に出立し、最初の宿場町で合流しましたが……それでも既に気づかれていたようです…」
「エイティまで、か。たしかに遠いな。昨夜の様子だと、道中も刺客が差し向けられる可能性が高いだろう。護衛が必要だな」
「…はい。それで…」
プラナは顔を上げ、懇願するようにレザインを見つめた。
「不躾なお願いであることは承知の上で…レザインさんに、どうか、力を貸していただけないかと…」
「見返りは?」
レザインは即座に返した。感傷に浸る余裕はない。
「え…?」
プラナは虚を突かれたように目を見開いた。
「私が持ち合わせている金銭は僅かです。ですが…」
「金はいいや」
レザインは首を横に振った。
「一つ。俺の素性…俺があの術を使うことを、誰にも口外しない。あんたの教会にもだ。誓えるか?」
プラナは息を呑み、しばらく逡巡した後、覚悟を決めたようにこくりと頷いた。
「…誓います」
「よし。もう一つ」
レザインは視線を、隅に立つ鋼鉄の鎧へと向けた。
「そいつを、しばらく観察させてもらう。俺の探求のために、な」
「マルトルルを…観察…?」
プラナの声が震え、顔から再び血の気が引いた。彼女は恐る恐る、アンデッドと化した騎士を見やる。その表情には、苦悩と嫌悪が深く刻まれていた。
「私は…どうすればいいのでしょう。彼は…もうマルトルルではないのでしょう? 教会の教えでは、アンデッドは浄化し、魂を安らかに“還す”べきだと…それが、彼のためにも…」
彼女の指が、自身の胸元で握りしめられた聖印を固く掴む。
「こいつはマルトルルて名前だったのか…嬢ちゃん、一つ言っておくことがある」
レザインは焚き火の揺らめきを見つめながら、静かに、だがはっきりと言った。
「マルトルルは、俺の制御下にはいない」
「えっ…? 制御下に、ない…?」
プラナは信じられないといった表情でレザインを見た。
「ああ。普通、俺が作り出す類のものは、術者の命令に従う。だが、こいつは違う。俺の言葉には何の反応も示さない。ただ…」
レザインは顎でプラナを示した。
「あんたを守ろうとしているように見える。おそらく、あの術の最中に感じた妙な力の介入…あれが原因で、俺の意図した術式とは異なる、未知の法則で動いているようだ」
彼は昨夜の儀式中の、あの奇妙な手応えを思い返していた。死者の強い意志と、外部からの不可解な力。それらが彼の死霊術と混ざり合い、この制御不能な守護者を生み出した。
「俺は、こいつがどういう存在なのか、知りたいんだ。あの時、俺の術に何が干渉したのかもな。あんたにも聞きたい。あの儀式の最中、何か特別な光景を見たとか、声を聞いたとか、あるいは…何か温かいような、あるいは逆にぞっとするような、妙な気配を感じたりはしなかったか?」
プラナはレザインの真剣な問いかけに、必死に記憶を探るように眉根を寄せた。
「…はっきりとは…でも、あの時の光は…あなたの術の光は黒く禍々しかったはずなのに、その中に…金色のような、とても清らかな光の線が混じって、螺旋を描いていたような気が…。でも、恐ろしくて、すぐに目を伏せてしまって…気配は…ただ、とても強い何かの意志を感じたような…」
彼女の声は後半、自信なさげに小さくなった。
「清らかな光の線、か…」
レザインは興味深げに呟いた。
(やはり、何かがあったんだ。神の介入か? それとも…)
彼は再びマルトルル(鎧)を見た。
「いずれにせよ、こいつはただのアンデッドじゃない可能性が高い。もしかしたら、本当にあんたの信仰する神か何かが関わっているのかもしれない。だがな、プラナ。それは同時に、こいつが俺たちの理解を超えた、いつ暴走してもおかしくない危険な存在である可能性も意味する」
彼はプラナに向き直り、その不安と期待が入り混じった瞳を見据えた。
「俺が同行するのは、あんたの護衛という名目もあるが、それ以上にこいつの監視と、この謎を探るためだ。あんたも、こいつがそばにいるのは心強い反面、恐ろしくもあるだろう。それでも、行くか? エイティへ」
レザインの言葉は、プラナの心をさらに揺さぶった。アンデッドが制御不能である事実、未知の力が関与している可能性、そしてそれがもたらすかもしれない危険。彼女はしばらくの間、言葉もなくレザインとマルトルル(鎧)を交互に見つめていた。恐怖、不信、そして僅かな希望。それらが彼女の中で激しくせめぎ合っている。やがて、彼女は覚悟を決めたように、一度だけ強く頷いた。
「…わかりました。レザインさん、どうか、よろしくお願いします。そして…マルトルルのことを…お願いします」
その声はまだ震えていたが、そこには明確な意志があった。
「よし、決まりだな」
レザインは頷いた。
「だが、一つ問題がある。こいつをこのまま連れて歩くのはまずい。誰が見ても普通の騎士には見えんからな」
彼はマルトルル(鎧)を示した。兜の奥の赤い光が不気味に揺れている。
「俺には命令できん。嬢ちゃん、あんたに頼むしかない。こいつに指示を出して、人前では普通の騎士のように振る舞うよう、あるいは少なくとも、その不気味な光を消し、目立たぬようにじっとしているよう、伝えてみてくれないか?」
「わ、私が…マルトルルに…命令を…?」
プラナの顔が再び蒼白になった。アンデッドに指示を出す。それは、彼女の信仰と倫理観に真っ向から反する行為だ。まるで自分が異端の術師になったかのような、強い嫌悪感が込み上げてくる。しかし、レザインの言う通り、このままでは旅などできない。彼女は震える手で胸の聖印を握りしめ、意を決すると、恐る恐るマルトルル(鎧)に向かって心の中で念じた。
(マルトルル…お願い…その赤い光を…今は、隠して…静かにしていて…)
すると、驚いたことに、兜の奥で揺らめいていた赤い光が、すうっと弱まり、やがて完全に消えた。鎧は微動だにせず、まるで本当にただの置物のように気配を消した。
プラナは息を呑んだ。本当に、自分の意志が通じた…? レザインもその様子を興味深げに観察していた。
「…ほう。やはり、あんたの意志には反応するらしいな。これはますます面白いことになってきた」
(さて、と。これで一応の準備はできたわけだ。制御不能のアンデッド騎士と、それに命令できる(らしい)聖職者の娘、そして悪徳大司教の陰謀。…まったく、どうしてこう面倒なことばかり起こるのか)
レザインは内心でため息をつきながらも、口元には抑えきれない好奇心の笑みが浮かんでいた。この奇妙で危険な旅が、彼の探求心を満たしてくれることは間違いなさそうだった。三者の歪で不安定な協力関係は、こうして静かに始まった。