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執務室の重厚な扉を控えめにノックすると、ややあって室内から「入れ」という、予想通り不機嫌さを隠さない声が聞こえた。ドウブは完璧な無表情を仮面のように貼り付け、音もなく豪奢な絨毯の上に足を踏み入れた。(相変わらず、悪趣味なまでに飾り立てた部屋だ。まるで成り上がりの商人の執務室だな。これがヴェリタス聖統帝国の大司教のセンスとは…嘆かわしい)内心の嘲笑を悟られぬよう細心の注意を払いながら、彼は部屋の主、ウォーザル大司教へと視線を向けた。
巨大な黒檀の机の後ろ、重々しい革張りの椅子に、その豊満すぎる身体を沈めている。金糸刺繍の純白の祭服が、腹の贅肉で張り詰めそうになっているのが滑稽だ。指にはこれ見よがしに嵌められた宝石付きの指輪がきらめき、その指が苛立たしげに机を叩いている。眉間に刻まれた深い皺と引き結ばれた口元が、彼の機嫌の悪さを雄弁に物語っていた。ドウブはウォーザルの机の前で恭しく一礼した。ドウブにとって真の主はウォーザルではない――『あのお方』である。その命令は、この男を監視し、その一挙手一投足を報告すること。この男の愚かさや弱みを観察するのは、ドウブにとって退屈な任務の中の数少ない愉しみでもあった。
「…ご報告いたします、大司教猊下」
ドウブの声は、凪いだ水面のように平坦だった。感情の欠片も乗せないことが、彼が長年培ってきた処世術だ。
「……遅かったな。結果はどうだ?」
ウォーザルは椅子に座ったまま、値踏みするような冷たい視線をドウブに向けた。
「は。手配された者たちによりますと、護衛の任にあった騎士マルトルルは、予定通り処理されました。しかし…」
「しかし、何だ? 言葉を濁すな」
ウォーザルの声に、隠しきれない苛立ちが滲む。指の動きが止まった。
「…目標である聖女プラナは、取り逃がした、とのことでございます」
ドウブは表情一つ変えずに、事実だけを端的に告げた。
「……なにぃ?」
ウォーザルは椅子から半身を乗り出した。その顔がみるみる赤黒く上気していくのが見て取れる。
「逃がしただと? あの聖女をか! 護衛は死んだのだろう!? なぜだ!」
(なぜ? それはお前の手配した連中が無能だからだろうが。それを見抜けなかったお前の無能さも加味してな)
「戦闘の混乱の中、見失った、と。詳細を確認中ですが、どうやら現場には別の何者かが介入した形跡がある、とのことです」
ドウブは冷静に付け加えた。これは予想外の情報だった。あのお方にも報告する必要があるだろう。
「何者だと!? どこのどいつだ!」
ウォーザルの金切り声が響く。
「現時点では不明です。襲撃者の一部がその人物と交戦したようですが、相手の手際が良く、深追いはできなかった模様。黒っぽい服装の男であった、という証言のみ得られております」
「く…黒い服の男だと…? くだらん!」
ウォーザルは机を拳で力任せに叩いた。指輪が硬い木材を打ち、甲高い音を立てる。
「言い訳にしか聞こえんな! 要するに、役立たずどもがしくじったということではないか! あの聖女一人を取り逃がすとは!」
(だから、お前の人選ミスだと何度言えば…いや、言う必要はないか。この男の失敗は、そのままあのお方への報告材料になるのだから)
「…面目次第もございません」
ドウブは再び抑揚のない声で謝罪の言葉を述べた。その完璧な無表情の下で、彼は冷静にウォーザルの反応を分析し、記憶していた。この男の動揺、怒り、そして浅はかな思考。全てが、後の報告書を豊かにする。
ウォーザルは大きく息を吐き、椅子に背を預けると天井を仰いだ。しばらくの間、荒い呼吸だけが部屋に響く。やがて彼は、憎々しげに呟いた。
「あの聖女め…面倒なことを…!」
(お前が雑な手出しをするからだろうに)
ドウブは心の中で即座にツッコミを入れた。 ウォーザルは再びドウブに視線を戻すと、今度は有無を言わせぬ権威的な口調で命じた。
「次の手を打つ。今度はもっと確実にな」
ウォーザルは机の上の銀の呼び鈴を鋭く鳴らした。しばしして別の従者が音もなく現れると、ドウブを顎で示し、
「下がっていろ」
と命じた。ドウブが壁際まで静かに後退したのを確認してから、ウォーザルは呼び出した従者に低い声で命じる。
「“古物商”に急ぎの報せだ。『先日依頼した“品物”の件、至急“清掃”が必要となった。“付属品”もまとめてだ。費用は問わん、確実にな』…そう伝えろ」
(“古物商”――この地域で活動する暗殺者ギルドの、表向きの顔だ。“清掃”に“付属品”か…これは聖女プラナと、あの黒い服の男のことだろう。費用は問わん、とは随分と思い切ったものだ)
ドウブは壁際でそのやり取りを冷静に観察し、符丁の意味とウォーザルの意図を正確に読み取っていた。
従者は無言で深く一礼し、足早に退出した。これで暗殺者ギルドへの依頼は確実に行われるだろう。
(さて、これもご報告せねばな。聖女に嗅ぎつけられたうえに排除失敗と…面白いことになってきた)
ドウブの唇の端が、ほんの僅かに、誰にも気づかれぬ程度に持ち上がった。