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レザインの剣は、大剣を振りかぶったまま呆然とゴーストを見上げていたリーダー格の男へと、夜陰を切り裂いて閃いた。男はようやく背後からの殺気に気づき、獣のような咆哮と共に、振り向きざま大剣を薙ぎ払う。だが、レザインの狙いは男自身ではなかった。彼の剣は精密な軌道を描き、男が握る大剣の柄頭を強かに打ち据える。
「なっ…!?」
衝撃と痺れに男の手から大剣が滑り落ち、鈍い音を立てて地面に転がる。武器を失った男が驚愕に目を見開いた瞬間、彼の眼前に、背後からまとわりついていたゴーストが生々しい幻影を焼き付けた。それは、かつて彼自身が行った光景――抵抗する術を失い、命乞いをする相手から容赦なく武器を奪い、嘲笑いながら命を奪った、忌まわしい記憶。そして今、その無慈悲な加害者であった過去の自分の姿が、眼前の剣を持つレザインと重なり、武器を失い立ち尽くす無力な自分が、かつての犠牲者と全く同じ立場にあることを、彼は鮮烈に悟らされた。
「あ……あぁ……」
男は悟った。命乞いなど、意味がないのだと。懇願も、抵抗も、全てが無駄なのだと。かつて自分が、足元で震える者たちの命乞いを鼻で笑い、嬲り殺しにしてきたように、今度は自分が、同じように無慈悲に殺される番なのだ。彼がこれまで奪ってきた無数の命の重みが、彼が踏みにじってきた懇願の声が、今、絶対的な絶望となって彼の全身を貫き、抵抗する気力はおろか、声を上げることさえ不可能にした。彼は金縛りにあったかのように完全に動きを止め、ただ呆然と、眼前の死神を見つめることしかできなかった。
レザインは、男が晒したその完全な無防備さを見逃さなかった。彼は表情一つ変えず、冷静に、そして流れるような動きで男の懐へと踏み込む。一切の躊躇なく、鎧の隙間、防御の薄い首筋へと、鋭く研ぎ澄まされた剣の切っ先を正確に突き立て、返り血を避け、素早く身をひるがえす。
「ぐ…ぁ……」
骨を断つ鈍い感触と共に、短い呻きが男の口から漏れる。その巨体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
リーダー格が倒れたこと、そして依然として周囲を漂い、不可解な現象を引き起こすゴーストたちの存在が、残りの賊たちの心を完全に折った。「お、頭がやられた!」「もう駄目だ、逃げろぉ!」「化け物だ!」などと恐慌状態の叫びを残し、彼らは武器を放り出して蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げ去っていった。中には、ゴーストが見せる幻覚に囚われたまま泡を吹き、気絶した者もいた。
戦闘の興奮が冷めやらぬ中、レザインはまだ周囲を不気味に漂っているゴーストたちへと意識を向けた。彼らに植え付けた偽りの怒りは、もはや不要だ。彼は右手の篭手の内側、焦点具に軽く意識を注ぎ、ゴーストたちに向けて静かに告げた。
「役目は終わった。…還れ、安息の場所へ」
その言葉が引き金となったかのように、ゴーストたちの禍々しい揺らめきがふっと収まった。植え付けられた憎悪の色が消え、一瞬、彼らが本来持っていたであろう、淡く穏やかな光、あるいは単なる人型の靄のような姿に戻る。そして、まるでつきものが落ちかのように、あるいは為すべきことを終えた満足感に満たされるかのように、その半透明の体は静かに光の粒子へと変わり、夜の闇に溶けるようにして、跡形もなく消え去っていった。強制的な消滅ではなく、あたかも魂が本来あるべき流れへと還っていくかのような、穏やかな霧散だった。
ゴーストたちが完全に消え去ると、街道には完全な静寂が戻った。残されたのは、打ち捨てられた武器、倒れた賊たちのうめき声と亡骸、そして松明がパチパチと爆ぜる音、それから――銀髪の少女の、絶望的な嗚咽だけだった。 レザインは剣の血糊を払い、周囲に敵意がないことを確認すると、鋼鉄の鎧の傍らに崩れ落ちているプラナを見た。
彼女は既に息絶えた騎士、マルトルルの亡骸に取り縋り、肩を震わせている。レザインは念のため、マルトルルの兜を外し、首筋に指を当てる。やはり生命の反応は完全に途絶えていた。流れ出た血は熱を失い、その顔は若々しいながらも死の静謐を湛えている。
「……脈がない。死んでいる」
レザインは事実だけを淡々と告げた。かけるべき慰めの言葉など、彼は持ち合わせていない。その短い言葉に、プラナは顔を上げ、涙に濡れた瞳でレザインを見、そして再びマルトルルの亡骸に顔を伏せて声を上げて泣き始めた。白い司祭服が、流れ出た血と土埃で、じわじわと染まっていく。それに気づかないほどプラナは、深い悲嘆に沈み込んでいた。
その時、レザインは再びマルトルルの亡骸から放たれる強い波動を感じ取った。死者の魂が最後に放つ、燃えるような想いの残滓。通常ならば、魂は肉体という枷を離れた後、世界を巡る大いなる流れへと還り、その存在を形作っていた力は霧散して大地や空気へと還元されていく。それが自然の摂理、適切なる“力の回収”のはずだ。しかし、この若い騎士の残留思念は、その流れに抗うかのように尋常ではない強さで未だこの場に、そして彼が纏っていた鎧に、異常なほど強く結びついている。
(なんだ、この強さは……? これほどまでに…)
レザインはその残留思念に意識を慎重に同調させる。流れ込んできたのは、後悔や無念といった負の感情だけではない。それらを凌駕するほどの、ただ一つの強烈な願い――プラナを、あの銀髪の少女を守りたい、という純粋で、絶対的な意志。死してなお、その想いだけが現し世に留まろうと足掻いている。
(これほどの残留意志……! まずい、このままでは魂が正しく“還れ”ず、不完全に“残って”しまう…! いわゆる悪霊憑き、あるいは最悪の場合、肉体なきゾンビのような存在になりかねないぞ!)
レザインは内心で強く焦った。放置すれば、この強い意志は歪み、制御不能な存在となる可能性がある。それは、彼が探求する死霊術の理にも反する、忌むべき“エラー”だ。
死霊術師としての探求心が刺激されないわけではない。これほど純粋で強力な残留思念は稀有なサンプルだ。だが、それ以上に、レザインはそのあまりに一途な意志そのものに心を揺さぶられていた。死をも超えて守りたいと願う、その熱量に。そして、このまま放置した場合の危険性。
(…応えるべきか? こいつの願いに。そして、この危険な力を、俺が管理すべきか?)
ちらり、とプラナに視線を送る。彼女はまだ悲嘆に暮れているが、先ほどの戦闘でレザインがゴーストを呼び出したのを、おそらくは目撃しているだろう。今ここで、さらに本格的な死霊術――死者をアンデッドとして蘇らせるという術を行使すれば、どうなるか。この聖職者らしい娘は、間違いなく彼を異端として恐れ、拒絶するだろう。決定的な亀裂。面倒事はごめんだ。
だが、マルトルルの残留思念は、まるでレザインに語りかけるように、その意志の強さを訴えかけてくる。プラナを守りたい、と。その声なき声と、放置した場合の危険性が、レザインの葛藤を打ち破った。損得勘定やリスク計算ではない。この熱い意志に応え、そしてこの力を正しく(?)導く。それが、死霊術師である彼にできる、唯一のことなのかもしれない。
レザインは静かにマルトルルの亡骸の前に膝をつき、その冷たくなった頬にそっと触れた。
「…どうしても彼女を守りたいのだな……わかった。その想い、確かに受け取った。」
彼はプラナの存在を意識から外し、術に集中する。マルトルルの兜を再び装着させると、その鎧に両手をかざした。右腕の篭手の内側、ブレスレット型焦点具が彼の魔力に呼応して微かな熱を帯びる。古の言語で紡がれる呪文が、低い声で夜の空気に響き渡った。レザインの指先から、仄暗く、しかし強力な術式が溢れ出し、マルトルルの亡骸と鎧全体を包み込んでいく。彼の魂の残滓――あの強烈な守護の意志を核として、冷たい鋼鉄の鎧を新たな器へと変える秘術。
(…ここまでは、定石通りだ。死者の魂の核を特定し、器となる物質(この場合は鎧)に定着させる。問題は、この残留意志の異常なまでの強度と純粋さだ。通常のアンデッド生成ならば、もっと淀んだ、負の感情を触媒にする方が御しやすい。だが、こいつの意志は…まるで炎だ。純粋な守護の意志。これを核にすれば、どんな存在が生まれる? 俺の制御下に置けるのか?)
その過程で、レザインは明確な違和感を覚えた。普段の死霊術――死者の魂を縛り付け、時には歪め、己の意のままに従わせる冷たい術式とは明らかに異なる手応え。彼の術式に、外部から、まるで清流が流れ込むかのように、温かくも冷たくもない、ただ純粋で強力な「別の力」が干渉し、術の構造そのものを補強し、書き換えていく。
(なんだ、これは!? 俺の術じゃない…何かが、俺の術に“混ぜ込まれて”いる…! この感覚…まるで、世界そのものがこの死者の願いに応え、俺の術を触媒にして何かを成そうとしているような…? 神の介入? いや、もっと根源的な、世界の法則そのものが持つ、自己修復、あるいは“例外処理”のようなものか? 馬鹿な、死霊術は世界の理に反する禁忌のはず…! それが、こんな…祝福されているとでもいうような形で変容するなど…!)
背筋にぞくりと、畏怖に近い悪寒が走る。彼の知識体系、死霊術の常識が根底から覆されるような感覚。だが、儀式は既に最終段階に入りつつあった。今、彼にできるのは、この予期せぬ力の奔流を見極め、可能な限り制御し、術を完成させることだけだ。彼は全ての驚愕と疑念を一旦脇に置き、魂なき器に疑似的な生命を固定する最後の工程に全神経を注いだ。
プラナが息を呑み、恐怖と不信に彩られた瞳でレザインを見つめているのが視界の端に入った。だが、彼は構わずに術を続けた。マナが渦を巻き、変容した術式によって残留思念と鎧が不可逆に、そしておそらくは彼が意図した形とは異なる形で結びつけられていく。
やがて呪文が終わり、禍々しいとも神聖ともつかない、複雑な色合いの魔力の光が急速に鎧の内側へと収束していく。その瞬間、マルトルルの亡骸が、まるで役目を終えたかのように急速に形を失い始めた。肉体が砂のようにさらさらと崩れ、風に舞い上がり、跡形もなく消え去っていく。全ての生命力が、魂の残滓と共に、鋼鉄の鎧へと完全に移行したかのようだった。
肉体が完全に消滅した直後、ギシリ、と鎧の関節が軋む音と共に、鋼鉄の腕がゆっくりと持ち上がった。そして、兜のバイザーの奥、深淵のような暗闇の中に、ぞっとするほど冷たく、非人間的な赤い光が一対、ぼんやりと灯った。
マルトルルの鎧は、軋む音を立てながら、完全に立ち上がった。生前の騎士が持っていたであろう、若々しい気配や人間味は完全に消え失せている。そこにいるのは、ただ主を守るという純粋化された目的意識だけを宿した、魂なき守護者。ワーグ型(死者の意志が無生物――この場合は鎧――に憑依するタイプの)アンデッド、鎧憑依の誕生だった。その鋼鉄の体躯は、依然としてプラナを守るべき対象として認識しているかのように、静かに彼女の方を向いていた。
プラナは腰が抜けたように座り込み、目の前の光景を信じられないといった表情で見上げていた。顔は蒼白を通り越して土気色になり、唇はわなわなと震えている。宗教的な教えに基づくアンデッドへの絶対的な嫌悪と、生理的な恐怖がありありと浮かんでいた。しかし同時に、目の前に立つそれが、数分前まで命を懸けて自分を守ってくれた騎士、「マルトルルだったもの」であるという事実から目を逸らすこともできない。そのアンビバレントな感情が、彼女を混乱の極みに突き落とし、身動き一つ取れなくさせていた。そして、その視線は、この冒涜的な奇跡を引き起こした張本人であるレザインへと向けられ、燃えるような不信と糾弾の色を帯びていた。
レザインは、不気味に佇立する鎧と、震えるプラナを見比べた。マルトルルの意志には、結果的に応えられた。術も、予期せぬ形で成功した。だが、やはり、とてつもなく厄介な状況を生み出してしまった。彼は内心で深くため息をつき、努めて落ち着いた、それでいてどこか相手を諭すような声色でプラナに語りかけた。
「……驚かせてすまない。だが、見ての通り、彼はまだ君を守ろうとしている。これは…彼の、死してなお消えなかった強い意志が生んだ、奇跡のようなものだと思ってほしい。少なくとも、今は」
それは言い訳か、あるいは不器用な説明か、それとも単なる時間稼ぎか。レザイン自身にも判然としなかった。ただ、この混乱しきった聖職者の娘を前にして、何か言葉を発しなければならないと感じたのだ。たとえそれが、気休めにしかならないとしても。
静まり返った血腥い街道に、魂なく佇む鋼鉄の騎士と、恐怖と悲嘆に震える聖職者の娘、そして禁忌の術を行使し、その不可解な結果を前に困惑を隠せない死霊術師。三者の奇妙で、歪で、そして危険な均衡の上に、彼らの先の見えない旅が、今まさに始まろうとしていた。
サモン ヘッドレス ナイトのはずが・・・なんか書き換えられました。当初案ではデュラハンになるだったのですが、さまよう鎧に。