4:1
薄暗く、悪臭の漂う奴隷収容施設跡地には、戦闘の生々しい爪痕と、解放されたばかりの子供たちの怯えた囁き声だけが残っていた。気を失った警備員たちが床に転がり、破壊された檻や散乱した物品が、ここが地獄の一端であったことを物語っている。
レザインは壁にもたれ、戦闘と治療による消耗を感じつつ、プラナが大事そうに書類の束を背負っているのを不思議そうに見ていた。プラナは今、檻から出された子供たちを安心させようと、一人一人に優しく声をかけている。その姿は確かに聖女そのものだったが、彼女自身の顔にも深い疲労が刻まれていた。
彼の傍らには、使役している子供たちのゴーストたちが、やや落ち着きを取り戻した様子で漂っていた。案内役を務めた女の子のゴーストが、レザインの袖を引くような仕草を見せる。
(…そうだな、お前たちをこのままにはしておけない)
彼は、女の子のゴーストに意識を向け、念話で問いかけた。
(おい、嬢ちゃん。お前たちがいた孤児院に、信じられる大人はいたか? お前たちに優しくしてくれた人間だ)
ゴーストは、記憶を探るように揺らめき、やがて若いシスターのイメージを送ってきた。他の職員とは違う、温かい眼差し。
(…シスター・リリア…か。他の子たちも、彼女のことだけは怖がらなかった、と…)
これは使えるかもしれない。レザインはプラナへと歩み寄った。
「プラナ、少しいいか」
プラナが顔を上げる。
「この子たちをどうするかだが……話だと、孤児院にシスター・リリアという、ウォーザルとは繋がっていない可能性が高い職員がいるらしい。一時的に、彼女にこの子たちを託せないか?」
「シスター・リリア…! ええ、私も覚えています。あの方なら…でも、危険なのでは……」
「ここにいるよりは安全だ。それに、俺たちだけじゃこの子たちを守りきれない」
レザインは断言した。
「俺も一緒に行く。移動を手伝うし、万が一の時は対処する」
プラナは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「…ありがとうございます。そうですね、それが最善かもしれません。行きましょう」
一行は、まだ怯えながらもプラナを信頼した様子の子供たちを促し、マルトルル(鎧)を先頭に、レザインが殿を務める形で、収容施設跡地を後にした。背後には、レザインにしか見えない子供たちのゴーストたちが、不安げに、しかし彼から離れまいとするかのように追従していた。
夜明け前――最も暗く冷え込む時間帯。一行はエイティの裏通りを、息を潜めながら孤児院へと向かっていた。人けのない石畳を、小さな足音と、マルトルル(鎧)の鎧が擦れる音だけが響く。
「レザインさん」
道中、プラナが小声で話しかけてきた。
「あなたは…その後、何があってあの地下に?」
「ああ」
レザインは頷いた。
「町で、孤児院から奴隷として売られそうになり、その途中で殺された思念に出会ってな。その子をゴーストになるよう…お願いして、あの収容施設にたどり着いた。ゴーストたちの話や、俺が読み取った残留思念からして、相当数の子供たちが、孤児院からあの収容所に連れてこられ、そこからどこかのオークション会場で“商品”として取引されていたようだ。売られた後はすぐに船でどこかへ運ばれるらしい」
「そんな……やはり…!」
プラナは唇を噛み締めた。
「私は、調査をしているときにタウルス院長に騙され、マルトルルと引き離され、神聖魔法を封じられて、あのオークション会場で商品として売られそうになっていました」
「は!?」
レザインは驚愕した。
「オークション会場に引きずり出されたとき、マルトルルが助けに来てくれました。そのときに会場で証拠を見つけました。金庫室があって……」
彼女はオークション会場での出来事――マルトルルの活躍、自身の力の回復、そして院長タウルスが逃げ込もうとした金庫室で発見した書類について手短に説明した。
「リスト、裏帳簿、ウォーザル猊下からの指示、顧客名簿……内容は、恐ろしく、そして許しがたいものでした」
「そうか、その背負っている書類が証拠だな。で、その院長とやらはどうなった?」
「…マルトルルが金庫室に突入した際に、壁に叩きつけられて……気を失っていたようですが、その後は……」
プラナは言い淀んだ。混乱の中で、タウルスの生死までは確認できなかったのだ。
「ふん、まあいい。証拠が手に入ったなら上出来だ」
レザインは言った。
「問題は、この後どうするか、だ。この街で告発できると思うか?」
「…正直、難しいかもしれません」
プラナは顔を曇らせた。
「ですが、諦めたくはありません。まずは、この街で信頼できる方を探してみます」
やがて一行は孤児院の裏手にたどり着いた。レザインとマルトルル(鎧)が見張りに立ち、プラナが以前リリアの部屋だとあたりをつけた窓へと近づく。幸い、窓にはまだ灯りが点っていた。プラナが合図のように軽く窓を叩くと、すぐに内側から窓が開き、シスター・リリアが心配そうに顔を覗かせた。
「どなた……? こんな時間に……」
「リリア様、私です、プラナです。そして……」
プラナは背後のレザインに合図し、彼も窓辺に近づいた。
「こちらは協力者のレザインさんです。そして……」
子供たちも近づく。
リリアは驚きの声を上げた。
「あなたたちは……!?」
リリアは、孤児院からいなくなったはずの子供たちの姿を認め、驚きの声を上げた。子供たちはリリアの顔を見て、安堵したように駆け寄る。
--------------------------------------------------------------------------------------------
リリアは突然現れた見慣れぬ男に一瞬警戒の色を見せたが、プラナと子供たちの様子がただ事ではないと悟り、すぐに全員を部屋へと招き入れた。
「聖女様、一体何が……?」
リリアの声は不安に震えていた。プラナは、リリアの心遣いに感謝しつつ、手短に、そして切実に事情を説明した。ウォーザルの悪事の疑いが確信に変わったこと、地下の収容施設で子供たちが囚われていたこと、救出してきたこと、そして彼らを安全な場所へ匿ってほしいこと。
リリアは、プラナの話を聞くうちに顔面蒼白になった。以前からこの孤児院の異変を薄々感じていたものの、院長タウルスは巧みな話術で子供たちが消える際にも他の職員たちに表向きの理由を説明し、その裏でこれほど恐ろしい事態が進行しているとは把握できていなかったのだ。
「なんと……恐ろしいことが……。聖女様、よくぞご無事で……そして、子供たちを……!」
彼女は胸の前で十字を切り、それから強い決意を瞳に宿して言った。
「もちろんです! 子供たちは私がお預かりします。ですが……聖女様、この孤児院も、もはや安全とは言えません。院長や他の職員たちの目もあります。子供たちを確実に守るためには……」
プラナはリリアの懸念を理解し、表情を曇らせた。
「……そうですね。ですが、他に頼れる場所が……」
そのとき、リリアはプラナの手をそっと握り、落ち着いた声で言った。
「聖女様、ご心配には及びません。私には……いいえ、私のつてで、子供たちを守る力があります」
「え……?」
プラナは驚いてリリアを見た。リリアは静かに頷いた。
「私は……主人はエイティで海上保険業を営む商家の者でした。夫を亡くした後に出家しましたが、商会は今は娘婿が継いで立派に経営しています」
彼女の声には誇りと、どこか複雑な響きがあった。
「エイティの港は、ご存知の通り、富と危険の集まる場所。マフィアの横暴や役人の腐敗も日常茶飯事です。私の家――『ソル・マリノ保険組合』は、そうした外圧から自らを守り、顧客の安全を保障するために、独自の調査部門と、いざという時のための実力者たちを抱えています。表には出せませんが、マフィアとも渡り合える力を持っています」
「そ、そんな組織が……!」
プラナは息を呑んだ。
「ええ」
リリアは頷く。
「聖女様がお持ちのその証拠(ウォーザルの不正を示す書類)…そして、子供たちの存在は、我々が動くための大義名分となります。娘婿に連絡を取り、すぐに信頼できる調査員と戦闘員を向かわせましょう。彼らが孤児院を、あるいはより安全な隠れ家を守ります」
「なんと……ありがとうございます、リリア様……!」
リリアはすぐに行動に移った。羊皮紙に特殊なインクで短い手紙――おそらく暗号化された指示――を書き上げ、それを封緘し、
「この手紙を港の第三桟橋にある組合事務所まで届けてください。事情が伝わるはずです」
「俺が届けよう」
レザインが手紙を受け取り、重みを確かめるように頷いた。彼はゴーストたちに目立たぬよう後を追うように指示し、音もなく窓から夜の闇へ消えていった。
リリアは彼を見送り、プラナに微笑んだ。
「これで手配は済みました。夜明けを待たず、信頼できる者たちがこちらへ向かいます。子供たちは、ひとまず私や信頼できるシスターたちの部屋で保護しましょう」
子供たちの安全が、思いのほか強力に確保されたことに、プラナは心から安堵と感謝を覚えた。
しばらくして、レザインと『ソル・マリノ保険組合』の者たちと思しき屈強な男女が数名、音もなく孤児院の裏手に現れた。彼らはリリアと短く言葉を交わすと、迅速かつ無駄のない動きで周囲の警護を固め、子供たちを安全な場所へ移す準備を始めた。その手際の良さは、明らかに場慣れした者たちのものだった。
「聖女様、レザイン様も、どうぞ奥の部屋でお休みください」
リリアは、警護の者たちが配置につくのを確認すると、疲労困憊のプラナと(程なく戻ってきたレザイン、そして微動だにしないマルトルル)に優しく声をかけた。
「あなた方も、休まなければ戦えません。本格的な調査は、明日、体勢を整えてからにしましょう」
プラナはリリアの言葉に深く頷いた。レザインも異論はない様子だった。こうして一行は、予想外の協力者の下で、次なる戦いに備え、束の間の休息を得ることとなった。
翌朝――。休息したことで幾分か体力を回復したプラナとレザインは、リリアの部屋で作戦を練っていた。
「レザインさん、ありがとうございます。あなたとリリア様のおかげで、子供たちは安全です」
「ああ。だが、問題はこれからだ」
レザインは頷いた。
「ウォーザルの悪事は暴かねばならん」
「はい。まずは、この街で告発できないか探ってみます。リリア様……」
「……申し訳ありません……」
リリアは悲しげに話した。
「我々の力も万能ではありません。ウォーザル大司教と正面から戦うとなれば、この街の支配層、あるいはマフィア全体を敵に回すことにもなりかねません。子供たちを守り、悪事の調査を進めることはできますが、街全体を巻き込む告発や、大司教を直接断罪するほどの力は今の我々にはありません。協力してくれるかもしれない方を紹介はできますが、それでも……」
「それだけでも、十分すぎるほどです……。教会関係者の有力者にも当たってみます」
「……そうだな。やってみる価値はあるかもしれん」
レザインは同意した。
(まあ、期待は薄いがな)
内心ではそう思いつつも、彼女の意志を尊重した。
「俺は街の中心部へ行く。役所やマフィアの息がかかっていそうな場所の残留思念を探る。何か掴めるかもしれん」
「わかりました。では、今日の夕刻、孤児院近くのあの古い時計台の下で落ち合いましょう」
プラナは新たな待ち合わせ場所を提案した。昨夜までに使っていた廃倉庫は、もう安全とは言い難いのだ。
「了解だ」
二人は頷き合い、それぞれの調査へと向かう決意を新たにした。プラナはマルトルル(鎧)を伴い、リリアに紹介された人物を訪ねて教会地区へ。レザインはゴーストたちを(人目につかぬよう注意しながら)連れ、街の中心部へ。強力な協力者を得たとはいえ、敵の巨大さを改めて実感しつつ、彼らは慎重に、だが確実に、事態を動かしていくのだった。




