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夕刻が迫り、孤児院の窓から差し込む西日が、床に長い影を落としていた。プラナの心にも、焦りの影が色濃く差していた。昼過ぎから数時間、孤児院を探り回ったが、結局、ウォーザルの不正を示す決定的な証拠は何一つ見つけられなかった。院長のタウルスは常に柔和な笑顔を浮かべ、完璧に偽装されたであろう帳簿と、どこまでも模範的な施設運営を見せるばかり。核心に迫ろうとする彼女の質問は、巧みな言い訳と聖句の引用によってことごとく逸らされ、彼の厚い仮面を剥がすことはできなかった。
(このままでは駄目だ…レザインさんとの約束の時間も近づいているのに…何か、何か手がかりだけでも…!)
プラナは内心で歯噛みした。彼女の焦りを見透かしたかのように、タウルス院長が、まるで救いの手を差し伸べるかのように近づいてきた。その顔には、これまで以上に親密で、信頼を誘うような笑みが浮かんでいた。
「聖女プラナ様、熱心なご調査、誠にご苦労様です。ですが、あまり根を詰められますとお体に障りますぞ。何か、お探しのものでも見つかりませんでしたか?」
「いえ、私は大丈夫です。ですが…やはり、何か腑に落ちない点が多々ありまして…」
プラナは正直に答えるしかなかった。
「ふむ…」
タウルスは顎に手を当て、わざとらしく思案する仕草を見せた。
「実は…聖女様のように真摯に子供たちのことを案じてくださる方にだけ、お見せしようかどうか迷っているものがございましてな」
「…迷っているもの、ですか?」
プラナは警戒しつつも、期待を抑えきれずに聞き返した。
「ええ。この孤児院の、極めて個人的な…そう、先代の院長が遺した古い記録でございます。公にはできない、少々デリケートな内容も含まれておりまして。ウォーザル大司教猊下からも、管理は厳重にと申し付かっております」
彼は声を潜め、秘密を打ち明けるかのような口調で続けた。
「ですが、聖女様ほどのお方ならば…あるいは、この記録の中に、何か重要な真実が、あるいは疑念を解く鍵が見つかるやもしれませぬ。」
(過去の記録…重要な真実…? それとも、やはり罠…?)
プラナの心臓がどきりと高鳴った。怪しい。あまりにも都合の良い話だ。罠の可能性が高い。だが、このまま手ぶらでは帰れない。もし本当にそこに手掛かりがあるなら…? 彼女は意を決した。
「…ぜひ、拝見させていただけますでしょうか。必ずや、他言はいたしません」
「おお、さようですか! きっと聖女様のお役に立てるかと存じます。さ、こちらへどうぞ」
タウルスは嬉しそうに頷き、プラナを促した。
院長に導かれ、プラナは孤児院の奥、普段は使われていないような薄暗い廊下を進んだ。突き当たりにあるのは、壁の一部に見える巧妙な隠し扉だった。院長が壁の特定の石に触れると、音もなく扉が開き、ひんやりとした黴臭い空気が流れ出してきた。地下へと続く、狭く急な石の階段が現れる。
「さあ、聖女様、どうぞ。足元にお気をつけて」
院長は先に降りるよう促した。プラナは階段の入り口を見て眉をひそめた。この狭さでは、マルトルルのような全身鎧の騎士が通ることは物理的に不可能だ。院長はそれを知っていて、ここに案内したのだ。
(やはり罠…? でも、ここまで来て引き返すわけには…!)
焦りが彼女の判断を鈍らせる。
「マルトルル、申し訳ありませんが、ここで待っていてください。すぐに戻ります」
プラナは背後の騎士に声をかけた。マルトルル(鎧)は無言で頷き、その場に留まった。プラナは一抹の不安を覚えつつも、階段を下り始めた。
階段を下りきると、そこは狭い石造りの小部屋だった。書庫というよりは、物置に近い。壁には埃をかぶった棚がいくつかあるだけで、中央には小さな石の台座が置かれている。そして、台座の上には、禍々しい文様が刻まれた黒い革装丁の古びた本が一冊、置かれていた。
「あの、院長…資料というのは…?」
「これです、聖女様」
タウルスは台座の本を指さした。
「先代が遺した、この孤児院の“本当の”記録。どうぞ、お手にとってご覧ください」
彼の笑顔はまだ崩れていないが、どこか期待するような色が浮かんでいる。プラナは警戒しながらも、その異様な雰囲気を放つ本へと手を伸ばした。証拠を掴みたい一心だった。
プラナの指先が、黒い革装丁に触れた瞬間、ぞわりと全身の産毛が逆立つような悪寒が走った。同時に、本から直接、あるいは本を媒介として床全体からか、目に見えない冷たい鎖のようなものが彼女の体に絡みつき、体内の神聖な力を急速に吸い上げていく感覚。**胸元の聖印との温かい繋がりが、ぶつりと断ち切られる。**まるで生命力の源泉を塞がれたかのように、全身から力が抜け、立っていることすらできなくなる。
「きゃあっ…!?」
プラナは短い悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。取り落とした本は、鈍い音を立てて床に転がり、禍々しい紫色の微光を放った。
「う…体が…力が、入らない…!?」
神聖魔法が、全く使えない。聖印を握りしめても、祈りを捧げても、何の反応もなかった。完全に無力化されてしまったのだ。彼女は必死に床に手をつき、睨みつけるように院長を見上げ、何か罵りの言葉を発しようとしたが、喉が渇き、声も上手く出せない。わずかに身じろぎするのが精一杯だった。
「おやおや、聖女様、どうかなさいましたかな?」
タウルスは、わざとらしく心配そうな声を出しながら、ゆっくりとプラナに近づいてきた。しかし、その目に浮かんでいるのは、心配の色ではなく、獲物が罠にかかったのを確認したかのような、冷たい満足感だった。彼はプラナの目の前で足を止めると、床に転がった本を拾い上げ、その埃を払いながら言った。
「ふむ、どうやらこの**『冒涜の古文書』**の呪いが、お気に召さなかったようですな。無理もない。これは、いにしえの堕落した司祭が、神の力を憎むあまりに書き記した冒涜の文章が呪物化したもの、でしてな。触れた聖職者の魂と神との繋がりを断ち切り、その力を一時的に完全に霧散させるのです。ええ、あなたのような強力な聖女様には、特に効果的でしょうとも」
彼はそこで初めて、人の良さそうな仮面をかなぐり捨て、歪んだ愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「くくく…あははは! ついに捕らえたぞ、愚かな聖女め!」
「あなた…! なんて卑劣な…!」
プラナは絞り出すような声で罵った。
「卑劣? 人聞きの悪い。これはウォーザル様に逆らう愚か者への、当然の報いですよ」
タウルスは勝ち誇ったように言った。
「お前のその生意気な調査も、これで終わりだ。まあ、心配なさるな。お前にはこれから“素晴らしい”第二の人生が待っている。若く美しい聖女の“商品価値”は、闇市では計り知れんからな。高値で売って、ウォーザル様への忠誠を示すとしよう。くくく…!」
「人でなし…! 神が決して、あなたを…!」
「神だと? ふん、神など、利用するだけよ。それに、お前を助けに来る者などおらん。上の騎士殿はここには入れんしな」
タウルスが嘲笑と共に手を叩くと、プラナが入ってきた階段とは反対側の壁が、音もなく開き、そこから屈強な、しかし明らかに柄の悪い男たちが二人、下卑た笑いを浮かべながら現れた。
「さあ、聖女様を丁重に“梱包”して差し上げろ。抵抗できんように、これを付けてやれ」
院長が男たちに手渡したのは、鈍い光沢を放つ一対の手錠だった。それは通常の鉄製のものとは異なり、魔法封じの石でできており、表面には冒涜の古文書の表紙と同じような紋様が刻まれている。おそらく、物理的な拘束に加え、万が一にも聖なる力が戻るのを防ぐための、冒涜の古文書の力を応用した魔法封じの品だろう。
男たちがプラナに近づき、その腕を乱暴に掴む。プラナは最後の力を振り絞って抵抗しようともがいたが、呪いと手錠によって完全に力を封じられ、なすすべもなかった。冷たく重い金属の手錠が、彼女の手首に固く嵌められた。
(レザインさん…マルトルル…!)
彼女は心の中で叫んだが、その想いは暗い地下室の闇に呑まれるばかりだった。希望は完全に断ち切られ、屈辱と恐怖に満ちた未来だけが、彼女を待ち受けているように思えた。男たちに引きずられるようにして、プラナは隠し通路の奥へと連れ去られていった。




