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死霊術師と聖女  作者: よん


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10/27

3:1

 あの古い礼拝堂での、異端審問官との壮絶な遭遇から数日が過ぎていた。神聖魔法を吸収し、異形とも言える力で審問官たちを退けたマルトルル(鎧)だったが、その直後、まるで蓄積したエネルギーを処理するかのように数時間にわたって完全に動きを止めてしまった。やはりあの現象は、彼にとっても未知の負荷を伴うのかもしれない。動かない鋼鉄の騎士を前に、レザインとプラナは言いようのない不安を感じながら夜を明かした。


 幸い、マルトルル(鎧)は夜明けと共に再び動き出したが、礼拝堂の片隅で火を囲みながら、レザインは厳しい表情でプラナに語りかけた。


「…プラナ、状況はかなりまずいことになったぞ。審問官が出てきたということは、ウォーザルは本気であんたを“異端”として処理するつもりだ」


  「はい…分かっています」


 プラナは蒼白な顔で頷いた。


「まさか、審問官まで動かすとは…」


「だが、奴らも無傷では済まなかった。それどころか、マルトルルの異常さを目の当たりにして、這々の体で逃げ帰った。あの様子だと、奴らが次の手を打ってくるまでには、少し時間が稼げるはずだ」


 レザインは焚き火の炎を見つめながら推測を述べた。


「あれほど規格外の存在マルトルルを確実に仕留めるとなれば、審問官以上の戦力か、あるいは特殊な準備が必要になる。そのための戦力の動員には時間がかかるはずだ」


  「時間が…稼げる…?」


 プラナの目にわずかに希望の色が宿る。


「ああ、だが、長くはないだろうな。だからこそ、俺たちは急ぐ必要がある」


 レザインはプラナの目を真っ直ぐに見据えた。


「このまま森を抜けてエイティを目指すのは時間がかかりすぎるし、俺たちの体力も限界に近い。…危険は承知の上で、街道に戻るぞ」


  「街道へ…!? ですが、人目があります! マルトルルのことも…!」


 プラナは不安げにマルトルル(鎧)を見やった。彼は入り口近くで微動だにせず外を警戒している。


「分かっている。だが、街道の方がはるかに早い。審問官どもが態勢を立て直す前に、エイティに着いて、あんたの言う“証拠”とやらを見つけ出す。それが一番確実だ。マルトルルのことは…あんたが上手く説明しろ。『口のきけない、忠実な騎士』で通すんだ」


 プラナは唇を噛み、逡巡した。街道に戻るリスクは大きい。しかし、レザインの言う通り、このまま森を進み続けて追いつかれるよりは、賭けてみる価値があるのかもしれない。そして、自分たちの体力も、もう限界に近いのは事実だった。


  「……わかりました。レザインさんの判断を信じます。街道へ戻りましょう」


 プラナは覚悟を決めたように、強く頷いた。


 街道に出てからの旅は、予想外に順調だった。最大の懸念であったマルトルル(鎧)が、驚くほど自然に「寡黙な護衛騎士」を演じきったのだ。プラナが、彼が過去の戦闘で喉を負傷し声が出せないこと、そして主である自分プラナ以外には心を開かない朴訥な騎士であることを周囲に説明すると、道中で出会う商人や旅人、あるいは宿の主人までもが、特に疑う様子もなくそれを受け入れた。聖騎士の鎧というのは、それ自体が威圧感と共に一種の信頼を纏うものなのかもしれない。時折、鎧の関節が軋む音が響いたり、その微動だにしない佇まいに訝しげな視線を送る者もいたが、聖騎士の鎧と司祭服のプラナが時折見せる人々への親切な態度が、そうした疑念を霧散させた。お陰で一行は夜も街道沿いの宿で十分な休息を取ることができ、他の旅人と乗り合い馬車に同乗することさえできた。


 そして今日、一行はついに目的地の港町エイティに到着した。**街道を使ったことで森での逃避行に比べれば、精神的な消耗は遥かに軽減されていた。追手の気配は感じられなかったが、それは嵐の前の静けさかもしれない。だが、目的地に辿り着いたという達成感と、これから始まる調査への緊張感が、彼らの表情に僅かな活気を与えていた。


 エイティは、諸外国への玄関口であり、独特の活気と、そして同じくらい濃い影を併せ持つ場所だった。海に面した広大な港には、北方エンフィリア工廠国で最近発明されたという蒸気動力船の姿が見えると思えば、遥か東方、黄天統域の風水ジャンクも見える。異国訛りの言葉を話す船乗りや、裕福そうな貿易商、屈強な荷運び人足たちが忙しく行き交っている。潮の香りと魚の匂い、そして遠い異国から運ばれてきた香辛料の刺激的な香りが混じり合い、むせ返るような熱気を生み出していた。荷揚げされる商品の種類も豊富で、街全体が富と交易によって成り立っていることは明らかだった。


 だが、その目まぐるしいほどの表面的な活気の裏には、深く澱んだ、無視できないほどの暗い空気が港全体に粘りつくように漂っていた。壮麗な商家や巨大な倉庫群が陽の光を浴びて輝く一方で、その一歩裏手の路地に入れば、今にも崩れそうな煤けた家々が互いを支え合うように密集し、痩せて汚れきった衣服を纏った人々が、生気の感じられない虚ろな目で往来を眺めている。


 裕福そうな貿易商人たちの顔には、富に裏打ちされた傲慢な色が浮かび、大声で下僕に指示を飛ばす。一方で、港で汗まみれになって荷役作業に従事する労働者たちの目には、人間をすり潰すような過酷な労働による深い疲労と、そして何者かの意思に決して逆らえないという、諦観にも似た感情が色濃く宿っていた。彼らの周りには、常に屈強な体躯に、威圧的な刺青を入れた男たちが、監視するように、あるいは暴力で彼らを支配するように、鋭い視線を光らせているのが見え隠れする。かつて労働力を集めていた手配師たちが徒党を組み、今ではマフィアとしてこの港を取り仕切っているのだ。


(…なるほどな。この街の富は、権力者とマフィアの連中によって吸い上げられているわけか)


レザインは内心で吐き捨てた。この街に漂う淀んだ空気は、単なる貧富の差が生み出すものではない。彼の死霊術師としての鋭敏な感覚は、この活気の裏で人知れず消えていく命の気配や、まるで物のように扱われ、絶望の中で魂をすり減らしていく者たちの嘆きを、微かにだが捉えていた。


 プラナが問題視している孤児院を隠れ蓑にした人身売買はありえない話ではなさそうだとレザインは直感的に確信し始めていた。


「ここが…エイティ…」


プラナが、街の様子に圧倒されたように、それでいて強い決意を秘めた声で呟いた。その瞳は街に潜むであろう悪の気配を探るように鋭く細められていた。隣に立つマルトルル(鎧)は、寡黙な騎士として、周囲の喧騒にも動じることなく、ただ静かにプラナを守るように佇んでいる。


(大丈夫…街道での旅の間、マルトルルは私の指示によく従ってくれた。今回もきっと…)


街道での経験が、プラナにマルトルル(鎧)を伴うことへの僅かな自信を与えていた。


「ああ。見た目は活気があるが…どうにもきな臭い場所だな」


 レザインは壁に寄りかかり、街の空気を読み取るように周囲を観察しながら応じた。


「富と貧困、光と影が極端すぎる。こういう場所は、大概、裏で何か良からぬことが行われているものだ。」


「はい…ウォーザルの不正の核心は、この街にあるはずです。特に…彼が熱心に支援しているという孤児院」


 プラナは拳を握りしめた。


「私はまず、そこへ向かいます。子供たちの無事を確認し、そして…何か証拠が見つかるかもしれません」


「孤児院か…」


 レザインは頷いた。


「だが、あんたと、そいつだけで乗り込むのは危険すぎる。相手はいきなり聖女様が現れれば警戒するはずだ。正面から行って、そう簡単に尻尾を掴ませるとは思えん」


「それは…承知しています。ですが、他に方法が…」


「手分けしよう」


 レザインは提案した。


「あんたは表から、聖女として孤児院の様子を探れ。その間、俺は別の角度から情報を集める」


「別の角度…?」


「ああ。こういう街には、必ず“裏”がある。噂話が集まる酒場、情報屋、そして…」


 レザインは少し声を潜めた。


「この街で不審な死を遂げた者たちの“声”を聞くこともできるかもしれん」


 プラナは一瞬、彼の言葉に含まれた不穏な響きに顔を顰めたが、すぐに彼の提案の有効性を理解したようだった。二手に分かれれば、より多くの情報を、より安全に集められる可能性が高い。


「…わかりました。レザインさんの言う通りにします。私はマルトルルと共に孤児院へ。あなたは…お気をつけください」


 彼女の声には、まだ警戒心が残っていたが、以前よりは幾分か和らいでいるようにレザインには感じられた。


「あんたもな」


 レザインは頷いた。


「日没までにそれぞれ情報を集めよう。その後、港の西の外れにある、一番大きな廃倉庫で落ち合う。時間厳守だ」


  「はい、分かりました。日没後、港西の廃倉庫ですね」


 プラナはしっかりと頷いた。具体的な約束事が、わずかながら彼女の不安を和らげたのかもしれない。


 レザインは背嚢を背負い直し、人混みの中へと歩き出した。彼の目的地は、まずこの街の裏社会に通じる情報が集まりそうな場所、人知れず死者の声に耳を傾けられる場所だ。この港町エイティに渦巻く悪意と秘密。死霊術師としての彼の探求心が、再び疼き始めていた。


 プラナは、レザインの後ろ姿をしばし見送った後、隣に立つ鋼鉄の騎士へと向き直った。


「行きましょう、マルトルル。私たちのやるべきことを」


 彼女は自らを奮い立たせるように言うと、マルトルル(鎧)を伴い、孤児院があるという地区へと、意を決した足取りで歩き始めた。活気と欺瞞に満ちた港町で、彼らの危険な調査が、今、始まろうとしていた。



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