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初投稿になります。執筆にあたってAIの支援を受けています。
月は雲に隠れ、星々の瞬きすら疎らな夜半。ヴェリタス聖統帝国の辺境に位置するこの古い墓地は、都市の喧騒はおろか、人の気配そのものにまで見捨てられたかのように、深閑とした闇に沈んでいた。
この国で「死」は終わりではなく、魂が神の御許へと還るための神聖な旅立ちと信じられている。すべての魂はその生涯を終えて天上へ召され、神の前で善悪を計られ、時には祝福された再生を約束されるという――。
だからこそ、魂の旅路に干渉する死霊術は、最大級の禁忌であった。
魂の流れを乱す者は神への冒涜者として、最も重い異端と見なされ、社会の最下層に追いやられる。
そして、レザインはまさにその道を選んだ者だった。
土と苔と古い石の匂いが混じり合い、ひやりとした夜気とともに肺腑を満たす。風化した墓石群は、それぞれの時代を生きた者たちの最後の記録のように、しかし今はただ無言のまま、闇にその輪郭を溶け込ませていた。傾いたもの、苔に覆われたもの、あるいは角がまだ残る比較的新しいもの。それらが作り出すのは、無秩序な静寂が支配する、忘れられた領域だった。
このような場所に好んで足を踏み入れる者は、まともな者はほとんどいない。とりわけ、唯一神への絶対的な信仰が社会の隅々にまで浸透し、死者の安寧を何よりも重んじるこのヴェリタスにおいては。墓荒らしは論外としても、単に死者の眠りを妨げるような行為ですら、異端の所業として厳しく断罪されるのが常であった。死は神聖にして不可侵。それが、この国の揺るがぬ理だった。
だからこそ、レザインはこの場所を必要としていた。人目を憚る必要のない、彼の孤独な探求のための聖域として。この場所で、彼は色褪せた灰色のロングスリーブシャツの上に、使い込まれた革の鎧を纏い、最低限の生活用品を詰めた背嚢を背負っている。その背中では、無造作に束ねられた艶のない黒髪が、夜風に揺れていた。彼は一つの古びた墓石の前に屈み込み、その石面に刻まれた文字を追っていた。手にした携帯用ランタンの弱々しい光が、真剣な横顔を照らす。年の割には影を帯びた理知的な瞳が、観察するように細められている。
「エリアス・ベルクール、享年四十五。愛する妻と息子を残し、主の御許へ…か」
呟きは夜のしじまに吸い込まれ、誰に届くこともない。ありふれた墓碑銘。だが、レザインが求めているのは、石に刻まれた言葉ではない。彼は腰に下げた革のポーチを探り、小さな金属製の物体――モノクル型の焦点具――を取り出した。これを使うことで、通常は視認できない魂の残滓や魔力の流れを読み取ることができる。
モノクルを右目に装着し、再び墓石へと視線を向けた。モノクル越しに見る世界は変容する。闇は深さを増し、しかし同時に、様々な色合いを持つ微かな光の粒子が漂っているのが見えた。生命が遺した痕跡、感情の残滓、そして、死者の魂が最後に放った想いの欠片。それらが、墓石や周囲の土に、まるで染みのように付着している。
レザインは革の手袋に覆われた左手の指先で、ゆっくりと石の表面をなぞる。冷たい石の感触と共に、モノクルを通して視覚化された残留思念のパターンを読み取った。
41 62 6E 6F 72 6D 61 6C 20 73 65 6C 66 2D 72 65 6E 65 77 61 6C 20 70 72 6F 63 65 73 73 2C 20 61 70 6F 70 74 6F 74 69 63 20 66 61 69 6C 75 72 65 2C
右腕を覆う硬質な革の篭手、その内側に隠されたブレスレット型の術行使焦点具の存在を意識の片隅で感じながら、彼は全神経を指先と右目に集中させる。
(…なるほど。これは…病死だな。比較的穏やかな死だ。魂が肉体から離れる際の抵抗は少ない。残留思念のパターンにも強い怨念や後悔は見られない。むしろ…安堵に近い感情か? 家族への想いは強いが、それ以上に、何かから解放されたような…)
かつて師は言った。死霊術とは、単に死者を冒涜する術ではない、と。それは死と魂の理を探る道であり、生命の根源に触れるための学問なのだ、と。世界には我々の知り得ぬ法則があり、死はその一部に過ぎない。正しく理解し、敬意を払えば、死者の魂も、その痕跡も、我々に多くのことを教えてくれる。師と別れて以来、レザインはその言葉を胸に刻み、独り探求を続けてきた。だが、ヴェリタスでは、その探求すら禁忌とされている。神の領域への不遜な侵犯だと。
(馬鹿馬鹿しい。知識を、真理を恐れるなど…)
内心で毒づきながらも、レザインは己の立場をわきまえていた。この国で死霊術師として生きることは、常に死と隣り合わせだ。発覚すれば即座に異端として断罪される。だからこそ、この力も、探求心すらも、ひた隠しにして生きるしかない。師から受け継いだ知識への誇りとは裏腹に、常に息を潜め、孤独の中に身を置くしかない。それが、この力を選んだ者の宿命なのかもしれない。
(エリアス・ベルクール…お前は、何から解放されたと感じた? このヴェリタスの厳格な信仰か、それとも別の何かか…?)
モノクルを通して見える残留思念の光は淡く、しかし複雑な色合いを帯びている。家族への愛情を示す温かい光、生前の社会的地位を示すらしい硬質な光、そして、死の間際に感じた安堵を示すような、静かで透明な光。それらが混じり合い、彼という人間の生きた証を形作っていた。レザインは、まるで難解な古文書を解読するように、そのパターンを慎重に読み解いていく。死者の記憶の断片に触れることは、時に危険を伴う。強い感情に引きずられ、精神を汚染されることもあるからだ。だが、知的好奇心は、そのリスクをも上回る。
ふと、彼は顔を上げた。モノクルを外し、慎重に腰のポーチへとしまう。ランタンの灯りを少し離れた地面に置いた。夜空を見上げても、月も星も見えない。ただ、どこまでも深い闇が広がっているだけだ。この闇のように、世界の真理もまた、容易には見通せない。だが、探求を続ければ、いつかその一端に触れることができるかもしれない。そう信じている。
そんな思索に耽り、静寂に耳を澄ませていた、その時だった。
微かに、しかし確実に、異質な音が夜のしじまを破った。ヒュッ、と空気を切り裂く音。それに続く、硬質な金属同士が激しく打ち合わされる音。そして、遠吠えのような、人の苦痛に満ちた叫び声。
レザインは瞬時に身構える。音は、そう遠くない。墓地に隣接する街道の方角からだ。それも、単なる物盗りの仕業とは思えない、激しい戦闘の気配。
彼はランタンの灯を足で蹴って土に埋め、周囲の闇に完全に溶け込む。腰の長剣の柄に、音もなく手が伸びる。篭手の内側のブレスレット型焦点具が、彼の決意に応えるように、微かに熱を帯びているように感じられた。
危険か、好機か、あるいは単なる厄介事か。判断は後だ。今は、何が起きているのかを確かめる必要がある。彼は身を低くし、音のする街道へ向かい、墓石の影から影へと狩人のように静かに、しかし迅速に移動を開始した。
彼の孤独な探求は、予期せぬ形で中断された。夜の闇の向こうで待つものが何であれ、それは彼の日常を大きく揺るがすことになるだろう。その確かな予感が、冷たい夜気の中でレザインの五感をさらに研ぎ澄ませていた。