降りしきる酸性雨
廃色の空が広がるこの世界では、誰もが酸性雨の脅威に怯えて暮らしていた。
大気汚染が深刻化して久しく、もはや青空など誰も見たことがない。
降り落ちる雨は皮膚を焼き、金属を腐食させるほどに強力だ。
だからこそ、建物の外壁や屋根は常に新素材で再塗装され、雨漏りなどあろうものなら大惨事に直結する。
その新素材もまた恒久的ではなく、雨と化学反応を起こしては徐々に薄れてゆく。
多くの人間は常に酸素ボンベを持ち歩くようになった。
汚染された大気は喉を焼き、肺をむしばむほど有害であり、町を歩くときには小さな供給マスクを口に当てるのが当たり前になった。
最初の頃は「そこまでやる必要があるのか」と嘲笑する者もいたが、周囲で呼吸困難に陥る例が続出すると、揶揄はぴたりと止んだ。
医療機関も悲鳴を上げるほどの患者を受け入れ続け、酸素ボンベを手に入れるために列をなす光景が日常化している。
ボンベの残量を気にしながら街を行き交う姿は、この世界の生々しい現実そのものだった。
街角には重々しく鈍い光を放つ建造物が立ち並ぶ。
いずれも強酸を弾く特殊コーティングが施されているが、それが施されているのは表向きだけで、中に入ってみれば壁が侵食され始めている場所も多い。
元々はガラス張りのビルが林立していたはずのビジネス街は、今や曇りきった素材で覆われ、ぼろぼろと崩れかけた窓枠が内部の暗闇をちらつかせていた。
昼間だというのに光は弱々しく、空を見上げても、ただ煙のような濁りに覆われた廃色の雲がわずかに形を変えるだけだ。
かつて存在した外生の植物は、そのほとんどが酸性雨に耐え切れず死滅してしまい、今では街路に枯死した枝や腐食した茎の残骸が僅かに残るだけになっている。
かつては騒がしかった街路も、今は雨を避けるために行き交う人影がまばらになっている。
居住区にあるアパートは、屋根全体が傘のように反り返った構造を持つものが多い。
それでも酸性雨の日ともなると、住人は壁の内側を何度も点検し、漏水の兆候がないか必死に確認しなければならない。
もし壁のひび割れを見落として強酸の水滴が入り込めば、内部の配線や装置が一瞬にして壊されることになる。
微かな染みでも見つかれば大騒ぎで、それを補修する業者は街でも限られた数しかいない。
その結果、修理の順番待ちを余儀なくされ、順番が来る前に取り返しのつかない被害を受ける家も少なくなかった。
そんなある日のこと、レインコート――通称「酸性雨防御カッパ」をまとった少年が、人気のない路地裏をせわしなく走っていた。
少年の名はセイといった。
フードの奥からは、まだ幼さの残る顔が覗き、目元には微かに焦りが見える。
背負っている酸素ボンベは少し古い型で、重そうに揺れていた。
彼は何度もゲージを確認しながら路地を曲がる。
冷たい雨粒が建物の上からしたたり落ち、路地の隅ではシューッという音を立てて蒸発している。
この音を聞くといつも、セイは震えそうになる自分を押し殺して走り続けるしかなかった。
酸性雨の降る日に外を出歩くなんて、正気の沙汰ではないと大人たちは口を揃えて言う。
しかしセイにとっては、どうしても今日、外出しなければならない理由があった。
それは決して他人に明かせるような理由ではなく、彼自身もまた何かに追われているような雰囲気を漂わせていた。
路地の行き止まりに差しかかったとき、セイははやる息を整えながら壁際の扉をノックした。
扉には「私有地につき立ち入り禁止」と書かれた看板がかかっている。
低い声が聞こえ、「何者だ」と尋ねられる。
セイは強酸で溶けかけた外壁を見やりながら小さく答えた。
「セイです。ボンベを見てもらいたくて」
ガチャリという音とともに、扉がわずかに開く。
現れたのは、体格の良い男だった。
厳つい眼差しをセイに向け、手にはくたびれた酸性雨防御カッパを握っている。
「ここへ来るとは、いい度胸だ。雨の中だってのに」
そう呟くと、男は扉をさらに開いてセイを中へ招き入れる。
そこは物置のように雑多な部品が散乱する小さな工房だった。
壁には数々の酸素ボンベが吊され、部屋の中央には解体された呼吸マスクの残骸が転がっている。
男は黙ったまま棚から工具を取り出し、セイの背負う古いボンベに視線を落とす。
「型がかなり古いな。町の補給スタンドじゃもう扱ってないはずだ」
そう言うと、彼は手際よくボンベの具合を確かめ始める。
セイは呼吸マスクを外さないまま、部屋を見渡して男の様子をうかがった。
一方の男は言葉少なに作業を進めている。
「これを直して使えるようにするには、代替パーツが要る。だが今じゃこの型に合うパーツなんて探すのも一苦労だ」
男は渋い表情を浮かべ、床に投げ捨てられた様々な破片を指先で探る。
「まあ、少しはストックがあったはずだ。辛うじて動くようにしてやるが、ただじゃない」
セイはポケットから小さな布袋を取り出した。
袋の口から見えるのは、酸化を防ぐ特殊加工がされた古い金属コインだった。
この世界では、もはや信用できるのは紙幣でもデジタル通貨でもなく、酸に比較的強いこのコインだとされている。
「これで足りますか」
そう言って、セイはコイン数枚を手のひらに乗せる。
男はそのコインをじっと見つめる。
「まあ、悪くない。いいだろう」
そう言い放ち、工具を握り直す。
作業が始まると、男の表情はわずかに真剣味を増した。
セイは壁際に寄りかかりながら、外で聞こえる酸性雨の音に耳を澄ます。
シューッという音がまた遠くから響く。
どこかの建物の排水溝が、強酸性の水を通しきれずに蒸発させているのだろう。
セイは思わず口元を押さえた。
雨音を聞くだけでも、自分の身体まで侵食されていくような錯覚を覚える。
今まで幾度も酸性雨の恐怖を目にしてきたが、慣れるものではなかった。
やがて男が立ち上がり、セイに修理したボンベを手渡す。
「少しでも長く使えるように調整した。雑に扱えばすぐに壊れるだろうが、当分はしのげるはずだ」
セイは何度も頭を下げると、ボンベを背負い直す。
「ありがとう」
そう呟いたセイに、男はつかみどころのない視線を向けた。
外に出た途端、雨粒がカッパの表面を激しく叩く。
腐食を防ぐ薬品が練り込まれたカッパでなければ、肌を焼かれてひとたまりもないはずだ。
街のあちこちには、雨にやられた車や看板の残骸が放置されている。
セイはできるだけそれを見ないようにして足早に歩く。
自分の歩く足音と、雨が地面を蝕む音とが混ざり合い、不快なリズムを刻む。
かつて人々は、この世界の変容に抗おうと必死だったという。
しかし酸性雨や汚染された空気は、一度狂い始めた自然のバランスを容赦なく蝕み続ける。
いくら最新技術を駆使しても、空気は濁り、雨はさらなる毒性を帯びていった。
今となっては、わずかな希望を見出すにも危険を覚悟で動かざるを得ない。
だからこそ、人々は今日も酸素ボンベを手放すことなく、雨を耐え忍ぶための装備を身にまとう。
通りの先には、見るからに頑丈そうな巨大ドームがそびえている。
政府によって建造されたそのドームは、外界の酸性雨を完全に遮断し、安全な空気を循環させると宣伝されていた。
しかし、その内部へ立ち入るには非常に高額な入場料と厳しい審査が必要で、セイのような街の片隅で生きる人間には縁のない場所だった。
そこに入ることができるのは、選ばれた企業関係者や富裕層ばかりで、その外見だけはまるで理想郷のように語られる。
セイはその白々しい光景から目をそらし、雨粒の中を歩き続ける。
やがて雑居ビル群の一角に到着すると、セイは傷んだ金属扉をそっと開け、建物の中へと滑り込む。
暗い廊下を抜けて階段を上がっていくと、小さな部屋が見えてきた。
そこがセイの住処だった。
扉を開けると、古びた壁や天井には何重にも施した塗料の跡が残っている。
この狭い空間が、雨を凌ぎ、生き延びるための最後の砦なのだ。
ボンベを壁際に置き、汚れたカッパを脱いだセイは、頭上に侵入したかすかな酸性のしずくを、手袋越しにぬぐい取る。
外の音はなおも絶えず、建物の外壁を打ち付ける不気味な雨音が耳につく。
セイは一度深呼吸をして、部屋の小さな窓の向こうを見つめる。
酸性雨に洗われ続ける街の姿が、歪んだガラス越しにぼんやりと映っていた。
希望とは呼べないそれらの景色に囲まれても、彼はなお何かを探し求めるかのように視線を巡らせる。
かつてどこかで聞いた、「雨が優しく大地を潤す日常」という言葉が脳裏をかすめる。
それは現実にはありえない夢物語になってしまったのだろうか。
セイは黙り込んだまま、ゆっくりとその窓を閉める。
重い空気の中に、微かな金属の錆びた匂いと、化学薬品の混ざった雨の臭気が漂っていた。
雨はやむことを知らず、この世界を容赦なく蝕み続ける。
それでも人々は生きている。
酸素ボンベを背負い、強酸に耐えうるコートを羽織り、脆い希望を繋ぎ止めるために歩き続ける。
どれほど絶望的な環境であっても、完全に押し潰されるわけにはいかない。
セイは唇を引き結び、部屋の壁に備え付けた酸素メーターを確かめる。
そして、また次の朝を迎えるためにわずかに休息を取ろうと小さなランプを消した。
廃色の空の下、止むことを知らない酸性雨の音は、セイの眠りの背後でいつまでも囁き続ける。
それはこの世界の心臓のように、重く不気味な鼓動を刻んでいた。