一(にのまえ)の殺人計画
少しずつではあるが、3人の遠藤平吉は各々の中で育っていった。
一番最初に遠藤平吉としての人格が顕著に現れたのは、佐々木史郎だった。
考え方、行動、カリスマ性等。まるで私を見ているかのように、その人格は遠藤平吉そのものだった。
私は一に対する想いを史郎の持つ遠藤平吉に伝えた。すると、史郎の遠藤平吉は、一の殺人計画を立てるようになった。それは、最終的に、私の持つ家路写楽の人格によって、史郎の持つ遠藤平吉を捕まえることが絶対的条件としていた。
私はその計画に不備があることを伝えた。それは、史郎の持つあと2つの人格がふとした瞬間に現れないかということと、もし、私の持つ家路写楽がそこに気づいた場合、この話が遠藤平吉を通して他の人格に伝わっていないかという危惧だ。
史郎の持つ遠藤平吉は、少なからず影響はあるが、むしろそれは好都合だと言う。多重人格者であれば減刑に処されることも分かっている上に、家路写楽はそこまで追求するだろうが、必要最低限だけ話した後で自供する事で、それ以上家路に深掘りさせないことが重要だと言った。
警察は事件解決こそが最優先で、動機と自供をしさえすれば、それ以上深掘りはしないだろうという考えだった。確かにそこまで深掘りする必要はない。今の警察組織でそこまで追求する奴は誰1人いないだろう。いるとすれば家路写楽だろうが、家路の人格を持っているのは私だ。
私はもう1つの懸念を話した。
それは、聴取の際、家路がそれ以上に追求することがあった場合、強制的に私が人格を入れ換える必要がある。そして、史郎の中の遠藤平吉も、それ以上の事を話さない為にはどうするかという懸念だ。
この懸念がもっとも最たる懸念であり苦慮した事だった。
そして2人は、2人だけの共通のキーワードによって人格を入れ換える事を思いついた。
それは
終わりだ
という共通のキーワードだ。
これを言った事で、聴取は終わり。これ以上話すことはなく自供しろということだ。自供後は誰が出てきても、多重人格者であることを露呈させることが出きればそれこそ佐々木側に有利に働く。
しかし、あまりにも単純なキーワードの為に、知られてしまう場合がある。口の動きだけで知られる場合だってある。
我々はその言葉に更に保険をかけることにした。それは
モナ・リザ
という言葉だ。
この言葉だけは、佐々木史郎の人格者全員への共通認識にさせることが重要だった。
人格がもし入れ替わった状態で、遠藤平吉が出てこなかった場合にも、この言葉が出ることで自供するスイッチの役目を果たさせる。
史郎が付き合っていた彼女の名前が、理沙だったことも都合が良かった。
モナ・リザという単体では美術品の言葉に過ぎない単語を
理沙を思い出せ
という言葉に変換させる作業を史郎の中の遠藤平吉は少しずつ進めることにした。
理沙に自身が多重人格者であることを理解してもらい、その上で、理沙を自身の持てる心の全てを使って愛させた。理沙は心底多重人格者の史郎を愛すようになった。そしてそれは、史郎を基本とした全ての人格者が理沙を愛すには充分だった。
こうして、一の殺人計画は着々と進んでいくことになる。