人格の形成
起き上がるとその男は真っ先に冷蔵庫に向かった。そして、手掴みでタッパーに入った料理を食べだした。満腹になったのかベッドに戻ってくる。
私はカーテンから出てその男に声をかけた。男は岡田だと名乗った。どうやらこの男は史郎と私の会話を聞けることが出来るらしい。多重人格者にしては珍しい。
私は何日間か通い、史郎と岡田と会話をした。史郎の不足している部分を岡田が補ってやっていると、岡田は自慢げに話していたが、食事の取り方は独特で、気持ち悪いことこの上ない。時々会話にも支障を来すので、箸を使ったらどうかと助言程度に言うと、ヨーロッパ貴族は素手だった事やインド人や東南アジアやアフリカ圏でも素手文化は残っている。それを否定することは彼らを否定することだと言い、素手での食事にこだわるのだった。特にこれと言って深い理由は無かった。
ただ、史郎が少し潔癖すぎる部分がある。それを岡田が解放していると思えば理解が出来た。
その時ふとした考えが頭を駆け巡った。
もしも、人格を分け与えることができたら...
分け与えるというと語弊がある。
あくまでも一から人格を作り出さねばならないが...
私は自身の体験から二重人格になったわけだが、それはストレス回避から生まれるものだ。その人格は、今までとは全く違う環境に慣れるために生まれるものである。
つまり人格とは外的ストレス要因から生まれる事が言える。
もしも、同じような状況下・環境下でストレス負荷をかけた場合、赤の他人にも同じような人格が芽生えはしないだろうか?
クローンとまではいかないが、同じような理念をもった人格が生まれる可能性はないか?
人格がそれを信じるのではなく、例えば、道徳を信じるもの、宗教を信じるもの、社会通念上の常識といわれる曖昧なものを信じるものといったように、信じるものに人格を合わせているとしたら、ある一定の理念を信じる人格が生まれても不思議ではない。
私は、遠藤平吉を他人の人格に誕生させることをここで思いつく。その実験台は、まずはこの佐々木史郎である。