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2022GW覆面企画

身を焼くほどの恋、それは文字通りの。-SIDE/ ディーネ-

作者: 雫川サラ

 よく知っていたはずの幼馴染が、ある日を境に、まるで知らない生き物みたいになってしまった。

 そんな経験をしたことは、ないだろうか。



 ディーネは、この海のセイレーンの一族の中では最年少だった。年が近い幼馴染のレトとは、ほとんどきょうだいのように、いつも一緒に行動していた。


 セイレーン族は長命な代わりに、繁殖があまり頻繁に行われない。そのため、世代交代も緩やかだ。ディーネもそろそろ大人の仲間入りをする年齢になっていたが、まだまだ周りからは子供扱いをされていた。そのせいもあり、ディーネ自身、どこか子供気分が抜けきらずにいた。


 ディーネの1日は、きれいな貝殻を探したり、魚の群れと追いかけっこしたり、面白い形の岩を探したりしてあっという間に過ぎていった。そして何か見つけては、レトに見せよう、レトに教えなくっちゃ、と幼馴染を捕まえに行くのだ。

 レトは、ディーネの話をいつもニコニコしながら聞いてくれた。どんなに些細なことでも、つまらない顔ひとつせず、一緒に驚いたり、喜んだりしてくれた。だからディーネは、いつも何をするのでも、レトの存在が常に心の中にあったし、それが当たり前だった。それがどんなに幸せなことだったか分かるには、ディーネはまだあまりに子供だったし、あまりに無邪気に世界を信じていた。


 その頃のディーネにはまだ、恋というものがあまりわかっていなかった。年ごろの姉たちから恋の素晴らしさを聞かされてはいたけれど、まだはっきりとした感情を経験したことはない。

 それでも、つがいになるならレトとだろうな、という漠然とした思いはあった。何せ、レトのことは自分が一番よく知っているし、ちょっと危なっかしいところのある彼の面倒を見られるのは自分しかいないと思っていたから。


 お転婆で能天気と言われることの多いディーネとは正反対に、レトはどちらかといえば大人しく、そしてとても優しい性格のセイレーンだった。どこかいつも夢を見ているような、感受性の強いレトのことをディーネは放っておけなくて、向こうの方が年上なのに、どこか弟のように感じることもしばしばだった。

 そんなレトが、あんな激しい感情を秘めていたなんて。あの日まで、ディーネは想像すらしていなかった。


 あの船が来た日を、ディーネは生涯忘れないだろう。


 珍しく、船の往来がない日が続いていた。いつもなら、この時期は暖かくなってきた海へ漁に出る船や、雪解けを迎えた地域からの貨物を積んだ商船などが行き交う忙しい時期のはずだった。


 お腹を空かせたセイレーンたちは、魚や貝などで食べつなぎつつ、船が通りかかるのを今か今かと待ち望んでいた。それはディーネも同じだった。毎日の遊びも十分に食べることができていて初めて楽しめるのであって、お腹が空いていてはどうにも気が紛れない。

 とりあえず、すぐ捕まえられて味もまあ悪くないニシンを食べて空腹をやり過ごしていたが、いい加減飽きてきていた。早く人間が食べたかった。


 そんなときでも、レトはいつもと変わらずニコニコしていたのを、ディーネは覚えている。自分だって空腹だろうに、できるだけ皆の邪魔をしないようにしているのだろうと薄々見当はついていて、相変わらずだなあと思ったことも。

 あの頃は、レトの何もかもを分かった気になっていた。今思えば、それは彼のほんの一部でしかなかったのに。


 「船だ!」「大きいぞ!」


 近くから上がった仲間たちの歓声に、ディーネの血が一気に沸き立った。


 ——人間……! やっと食べられる!


 はやる気持ちをおさえて、仲間たちに合流した。あのとき、レトがどうしていたか、ディーネはよく思い出せない。とにかく目の前のご馳走のことで、頭がいっぱいだった。


 おかしいと思ったのは、歌い始めてしばらくたった頃。いつもよく聞こえていた、レトの綺麗なテノールが聞こえないことにディーネは気づいた。振り向いてみれば、レトは歌いもせず、船に釘付けになっていた。


 ディーネは激しい違和感と胸騒ぎを覚えた。セイレーンが人間を前にして歌わない、それは生命の摂理に反する異常事態だった。

 レトが、興奮に目を輝かせ夢中で歌を紡ぐ他のセイレーンたちとは違う、何か別の生き物に見えた。


 考えても仕方のないことと分かっているが、あのとき、目の前のご馳走は一旦諦めてでもレトに話しかけていれば、結末は違ったのだろうか、と今でもディーネはたまに思う。


「これで、よかったのよ」


 もう幼馴染のいない海に向かって、ディーネはぽつり、と声に漏らす。


 そのあと、皆がご馳走によってたかって大騒ぎしている間に、レトは姿を消した。そして丸一日が経ち、さすがに長老たちが心配し始めた頃、またいきなりふらりと帰ってきた。

 怪我などをしている様子もなく、特に変わったところはないように見えたから、年嵩の連中から一言二言お叱りがあっただけでレトは放免された。

 全ては元通りの日常に戻ったように思われた。ディーネも、レトに何かあったというのは自分の考え過ぎだったかもしれないと一度は思った。


 だが、ディーネの胸騒ぎは思い過ごしではなかったことが、すぐに分かった。

 レトは岩場の窪んだところに一日中うずくまり、ろくに食事も摂らず、人間には見向きもしないどころか苦痛の表情を浮かべた。いつも柔らかく澄んでいた瞳は、壊れたように涙を流すだけになった。

 あの日の何かがレトを変えたのは明らかだった。


 レトはどうなってしまったのか、ディーネは一生懸命考えようとした。考えるのは苦手だったけれど、どうでもいいやと忘れられるようなことではなかった。ついこの前まで自分の隣で穏やかに笑っていたレトが、いきなり自分の知らないところへ行ってしまったような、恐ろしい心地がした。

 どう接すればいいのか、どんな言葉をかけるべきなのか。ディーネは考え、分からなくて苛立ち、投げ出してはまた不安に駆られて考え込むことを繰り返した。けれど、捕まえようとすると手の中からするりと逃げる魚のように、肝心のところでうまく頭がまとまらなかった。

 大人たちは、レトについて誰も触れなかった。触れるのを避けている、という方が正しかったかもしれない。それにレトが気づいていないわけがない、とディーネは思っていた。そんな扱いを受けているレトの心中を思うと焦りは増し、思考は空回りした。


 そんな中、ディーネに精霊の祠の掃除当番が回ってきた。何もこんな時に当たらなくても、と思ったが、ディーネの一族にとっては重要な務めだ。ため息をつきながら、仕方なく祠に行き、掃除に取り掛かった。その時、ディーネの頭の中を、何かが稲妻のように駆け抜けた。


 ——私は、最初から全部、分かっていたんだ……


 レトの身に起きたことを、ディーネは最初から、心の奥底では分かっていた。ただ、「それ」を認めてしまったら、これまで自分が生きてきた世界がすべて崩れてしまう気がして、恐ろしかった。だからずっと、「それ」から目を逸らし続けていた。いくら考えても分からなかったのは、考えるのが得意ではないからではなく、答えに辿り着くのを無意識に避けていたからなのだと、ディーネは唐突に悟った。


 そうして、ディーネは頭の中の霧が晴れるように、散らばっていた考えが一つに収束していくのを感じた。そうなれば、ぐずぐずしてはいられない。心の中に、まだ消化しきれていない感情がどろりと横たわっているのを感じていたけれど、それに向き合うのは多分、もっと後でいい。ディーネは自分を励ますように一つ、頷いた。


 掃除完了の報告もそこそこに、ディーネは伯母のもとへ急いだ。伯母は訝しげな顔をしながらも、ディーネの真剣な顔に何か思うところがあったのか、すんなり頼みを聞いてくれた。

 ディーネは渡された袋を握りしめ、レトの元へと飛んでいった。魚群や海藻が邪魔で、体当たりで薙ぎ倒しながら泳ぐ。きっと後で怒られるが、構っていられなかった。

 いつもの場所にレトの姿を見つけて、ディーネはほっとしたのと同時に、愕然とした。ひと目で分かるほどに痩せ衰えたレトの瞳は昏く、何も映していないように見えた。


「うそ……」


 ディーネは小さく呟き、慌てて岩礁によじ登った。


「レト! レト!!」


 呼びかけても応答がない。ディーネはゾッとした。もし、このままレトを失ってしまったら。そう思うと、手が震えた。いつもだったら、こんな時は肩を掴んで力いっぱい揺さぶるところだけれど、目の前のレトは、そんなことをしたら壊れてしまいそうで。迷った挙句、ディーネはそっとレトの肩に触れた。


「レトッ……! もう、いい加減にしなさいよ!!」


 レトの真っ赤に泣き腫らした目が、ようやく焦点を結んだ。ぎこちなく笑みを浮かべるその表情に、ディーネの方まで泣きたくなった。でも、ここで自分が泣いても仕方がない。ぐっと堪えて、言葉を探した。


「レト、あんたこのまま死ぬ気じゃないでしょうね?」


 ——ああ、どうして私はこんな時までこういう荒っぽい言葉しか出てこないんだろう。


 ディーネの言葉に、レトが黙ったまま目を伏せる。そういう反応をさせた自分に、また苛立ちが募った。


 伯母からもらってきた強壮剤をレトが素直に飲んでくれて、ディーネは少しだけ安心した。何を言っても反応がなかったら、どうしようかと思ったのだ。身内贔屓ではないが、伯母の薬はよく効く。魚の腹のように真っ白だったレトの頬に、少しだけ赤みが差すのを見て、ディーネはまた涙が出そうになった。


 ディーネがたどり着いた答えは、悲しいほどに真実だった。もしかしたら、自分がとんでもない勘違いをしているだけかもしれないという最後のわずかな希望も、レトのあまりに分かりやすい反応にあっさりと打ち砕かれた。それでも、ディーネは自分で不思議なほど、なんでもないように振る舞うことができた。むしろ、レトの方が赤くなったり青くなったりと忙しかった。

 それは例えるなら、自分の外側に「いつものディーネ」を貼り付けてそれを演じているような、奇妙な感覚だった。まるで、自分の中と外が繋がっていないような。

 自分がどんな状態にいるのか、よく分からないまま、言葉だけはつるつると滑り出た。よくまあ、これだけしゃべれるものだとディーネは頭の片隅で思った。


「私、レトを精霊のところへ連れて行きたいの」


 ディーネの言葉に、レトがクラゲにぶつかられたような間抜け面になった。その表情に、ディーネは初めて心の底から、レトが好きだと思った。いや、おそらく、ずっと、ずっと好きだったのだ。そして同時に、この思いはもう叶わないと、分かっていた。ディーネの胸の奥に、ツキンと痛みが走った。


 何に代えても守りたいと思う、この気持ち。もう一度笑いかけてほしい、もっともっとたくさんのことを積み重ね、共有したいと、心の奥が強く求める感覚。姉たちが言っていたことが、ようやく分かった。今までバラバラだった心と身体がいきなり繋がったようになって、ディーネの目は涙でいっぱいになった。

 それを見て、なぜかレトも苦しそうな表情をした。以前はレトの思っていることなんて手に取るように分かったのに、まるで幕で隔てられてしまったみたいに、何も感じ取れなかった。ディーネに分かっていたのは、とにかくレトのためにできることをするしかないという、ただそれだけだった。


 そのあとのことを思い出すと、ディーネは今でも胸が苦しくなる。自分ができる最善を、尽くしたつもりだった。それなのに。


 レトは、幸せだっただろうか。

 精霊の言葉のあまりの衝撃に、頭が真っ白になってしまったディーネとは対照的に、ディーネの目に映るレトの横顔は不思議なほど落ち着いていた。幼馴染はこんなに怖いほど綺麗な顔をしていただろうか、と場違いなことをぼんやり思ったのを覚えている。


 あれから、もうどのくらい経っただろうか。セイレーンの時間の概念は曖昧だ。それでもレトが恋をした人間の寿命は、もうだいぶ前に尽きていてもおかしくはない。精霊の言葉通りなら、レトの魂がその人間の魂を呼び、今頃はもう、ふたつの魂は結びついて一つになっているはずだった。いや、絶対そうなっていなければならない。おとぎ話に伝わるセイレーンは悲しい結末だったけれど、レトの物語はハッピーエンドでなければ。

 身勝手な思いだとは分かっているが、かつて一番近くにいた幼馴染としてのささやかなわがままくらい、精霊だって大目に見てくれるだろう。



「おーい、船が見えたぞー」


 仲間の声でディーネは我に返った。すぐ近くの水面から、ざばっと瑠璃紺の髪をした頭が現れる。今のディーネの、つがいの契りを交わした夫だ。レトを喪って抜け殻のようになっていたディーネの側に、黙って寄り添ってくれた1人のセイレーンは、いつしかディーネの支えとなっていった。

 それでも、ディーネにとっての恋は、あの一度きりだけだ。それは海底に沈んだ、綺麗な石のようで、煌めきは感じられるけれど、手を伸ばしても触れることはできない。

 隣に並んで泳ぐ夫を感じながら、自分も歳をとってだいぶ狡くなったとディーネは思う。心の中のレトの場所は、今でも空だ。それでも時が経つにつれ、そこは空のままに、自分の生きるべき時間を全うしようと本能がいびつな形に心を修復し、今でも自分はこうして泳いでいる。人間も変わらず美味しく食べられる。つくづく、ロマンチックじゃないなと思うが、それが自分なのだろう。レトが見たら、きっと笑ってくれる。


 レトのクスクス笑う声が聞こえた気がして、ディーネは少しだけ微笑んだ。

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