シーアさんと青い空
シーアさんとこの部屋で二人きりにされて、体感で二十分くらい経った。
シーアさんは確かにかわいい。綺麗な白髪は動く度にサラサラと揺れ、よく手入れされていることが伺える。スタイルもいいし、服からチラチラと申し訳なくなるくらい見えてしまう胸は控えめだが美しい。
でもそんな美少女が「私を食べて」と無感情、無表情で迫ってくるのは、いくらなんでも悪趣味すぎるだろう。どれだけ眉目秀麗だろうと、これじゃあ恐怖でしかない。
しかもあろうことか、拒否しても目を背けても、あの手この手で食べられようとしてくる。
「私はクレネアの葉のみを食べ、毎日月の光を浴びていますから、竜種の方が好む夜空の味がするそうです。産まれた時よりそのように暮らしておりましたので、味は折り紙付きですよ。女神信奉者などには決して用意出来ぬ、我らの最大限のもてなしです」
自分の肉がいかに美味しいかプレゼンしたり、
「どうぞ、私の血をお舐めください。私の指を喰い千切り、我らがいかに貴方を心服しているか、その一端を味わってくださいませ」
と、自分で傷をつけて血まみれになった指を俺の口に押し付けてきたり。
挙げ句の果てには、
「お腹が空いていらっしゃらないのなら、私の純潔を思う様堪能していただく、というのはいかがでしょうか? そういった行為の後は空腹のあまり相手を食べることもあると聞きます。それに、私のお腹に触れればきっと伝わります。腹の底、臓腑の奥から、貴方に頂かれる事を随喜しているのが……」
そう言って俺の前足を持ち、自分の下腹に当てたと思えば、
「ほら、ここが子宮です。肝臓が一番美味しいとはよく言われますが、ここを好んで食べる方もいるのだとか」
なんて言いながら前足をぐいぐいと押し付けて柔らかさを伝えようとしてくる。
「貴方はどうなさいますか?牙で噛んで愉しむか、それとも……」
「待って、ストップ! シーアさんごめん止まって、落ち着いてください」
据え膳食わねば何とやらとは言うが、この据え膳は食べたら人間として終わりだ。何とか説得して、このモラルの絶滅した空間から脱出しなければ。俺は人間なんて食べたくないし、普通ならまだ幼いとも言える歳の少女にこんなことをさせる組織の王様になんてなりたくない。
俺はシーアさんの手を振り払って、彼女の暗い目をきちんと見て言った。
「こんな事やめましょうよ。俺なんかにそんな、いや誰に対しても命を捧げるなんてするものじゃない。もっと自分を大事にしてください」
「自分を大事に……?どういう事でしょう。私は邪竜様の贄巫女として大事に育てられてきました。もっと、となりますと……もしかして、味付けが好みではありませんでしたか? 夜空ではなく、もっと質の良い星の味の方がよかったのでしょうか」
「そ、そうじゃなくて、そうやって自分を傷つけたり、無闇に体を明け渡したりとか、しなくてもいいんじゃないかって思うんですけど。少なくとも俺は、生け贄になんてなってほしくない、です」
暖簾に腕押し、まるで俺の言う事がわからないとでもいうように、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「信じてもらえないかもしれないけど、俺は見た目こそドラゴンだけど中身はなんて事はないただの人間で。人間なんて食べられないし、シーアさんには生け贄なんかにならず幸せに生きてほしいなぁ、なんて思ったりするわけでして」
「……邪竜様は、人間なのですか?」
「そうそう。だから俺はこんなところにいられないんですよ。みんな邪竜だなんだって言うけど全然ピンと来ないし、王様になったってきっと役に立たない。波風立てないように、こっそりいなくなった方がいいんです」
状況を全部わかってもらえるとは思わないけど、邪竜様バンザイな人達が、流石にそんな得体の知れない、全然邪竜じゃないやつを王様にしようとは思わないだろう。いや、司祭はするかもしれないけど、シーアさんならまだ説得の余地はあるかもしれない。
さりげない話の流れから、わざとらしく周りをキョロキョロと見回して出口を探す。王様になる気もないことは伝わると思う。
しかしこの部屋、飾り窓がいくつもあって、割れば簡単に出られそうだが、産まれたての俺が体当たりやブレスなんかで破壊出来そうか、と言われると難しそうだ。壁は頑丈、綺麗に造られてるので穴や亀裂も無し。だからといってドアから堂々と帰るっていうのは間違いなく悪手。どうしたものか。
考え込んでいると、シーアさんがぼそりと呟いた。
「……つまり」
その声に振り返り、俯いている彼女の顔を見た。
「私を食べてはいただけない、ということですか?」
その表情を、その声色を、俺は知っている。
捨てられる事への恐怖。絶望と、僅かな抗議の色がそこにはあった。
そうだ、俺はこの顔を知っている。あの時の俺と同じ顔。どれだけ頑張っても、手に入れられなかった物を見る目。親に置き去りにされた時の、雨で濡れたアスファルトに映る、ちっぽけな虫ケラのような、無力な自分。
凍えるような感覚も、ぶるぶると震える体も、どうしようもなく悲しい気持ちも、雨のせいだけではなかった。あの時の俺と同じように、シーアさんは凍えている。
「食べられないと、どうなるんですか」
「……還るのです、産まれた場所に。贄の候補四千人、それら全てが溶けて混ざり合う、我々の根源に。……あの、狂ってしまうほど、恐ろしいところに」
「それなら一緒に逃げませんか。ここよりはいくらかきっとマシな……」
話を遮るように、彼女は続ける。
「逃げられないのですよ。司祭様や今世の信徒の皆様は裏切りを許しません。地の果てまで逃げても、捕まります。……一度だけ、好奇心から外に出たあの時でさえ、そうだったのですから」
そして彼女は唇をぎゅうと噛み、俺を強く抱いて言った。
「貴方のその感情が優しさならば、どうか貴方の、邪竜様の贄として生を全うさせてください。貴方が食べないとおっしゃるならば、私は生きている意味がないのです。食卓に並べられたどんな食事も、時が経てば下げられ、捨てられるものでしょう?」
「……」
「贄巫女は、大役です。母が子に与える初めの乳のように、孵化したばかりの稚魚に付く滋養の袋のように、邪竜様が初めに頂く、とても大切な栄養なのです。贄巫女こそ、我らの愛の証。私は、怖い目に遭いたくなくて贄巫女をするのではありません。私の、我らの愛を受け取っていただくことのみが私の幸せ、生きる喜びなのです。一番恐ろしいのは、邪竜様に捨てられること、ただそれだけです」
まずい。非常にまずい。
シーアさんにとって、俺に食べられることは救いなんだ。生きる希望そのものに人生の意味を否定されて、恐ろしい場所に逆戻りするのがどうしようもなく嫌なんだ。当たり前だ、そんなシチュエーション誰だって嫌だろう。
でも、だからといってその希望を叶えるわけにはいかない。
死ななくてもクソッタレな環境を抜け出して幸せになれる望みが少しでもあるなら、そっちに賭けたほうが絶対にいい。
シーアさんなら、きっと外で幸せになれるだろう。だったら俺はそこまで案内しよう。
俺みたいにはなって欲しくない。
……あんな顔、他人にされたらここまで堪えるとは思わなかった。ここまで俺の心をざわめかせるとは、思わなかった。俺がこんなに、他人を助けたいなんて思うとは、今まで考えられなかったな。
「シーアさん、やっぱり逃げましょう。その愛は受け取れない。俺はどうしてもあなたに生きていてほしいし、人殺しにはなりたくない。俺のワガママかもしれないけど、別の生き方を試してみてほしいんです。それでも、贄巫女という生き方が一番幸せだと思うなら、……責任は、きちんととります」
「……わかりました、邪竜様に従います」
何を言っても無駄だと判断されたようだが、とりあえず約束は出来た。
あとは信用を得なければ。
「傷ついた方の指を貸してくれませんか」
シーアさんの、未だ血の出ている指を口元に持ってきてもらった。
その血を、傷口を、俺は丁寧に舐めた。傷が治るように、そして、その血を飲む覚悟を示すように。
正直血の味の良し悪しなんてわからないけど、むしろ結構キツいけど、それでも嫌な顔一つせず、綺麗に舐めた。指から手のひら、手首にかけて垂れた血も、残さず舐め取った。そうして綺麗になった手に、軽く額を当てた。
「俺は、あなたの傷に誓います。頂いたあなたの血を、決して無駄にはしないと。あなたが食べ物として生きてきたことそのものを、否定はしないと。この血を糧に、俺はあなたを外へ逃します」
そして前足の平を合わせ、
「ご馳走様でした」
と、感謝の言葉を唱えた。この世界にある風習ではないだろうが、言うべきだと思ったんだ。
血をもらったことで、ほんの少し体に力が湧いてきた。そして感じたのは、人間じゃなくて、脂身の多い豚とか牛のステーキを、思う様むしゃぶりつきたいという食への欲求だった。今まで諦めていたまともな食事ですらなく、デカい肉を焼いて食うという、ごく単純な原初の欲だ。
腹が減りすぎて飢えているのかもしれない。それともドラゴンになって欲に忠実になったのかもしれない。生きてた時にそんな事言ったらぶん殴られて飯も無くなるところだが、今はそんな事考えられない。肉が食いたい。
逸る気持ちが、竜の言葉になる。
竜の言葉とは、喉の奥から迸る炎のエネルギーだということを、この時実感した。
外に出て、牛や猪を狩って、焼いて食おう。シーアさんと一緒に食えば、きっと楽しい。学校以外で他人と食を共にするのは、初めてだ。
不安と期待、責任と自由。生前には無かった物が俺を動かす。翼に力が入る。ぐっと空気を押せば、赤ん坊の体だからか簡単に空に浮かんだ。
部屋で一番大きな窓。建物の裏手に出るだろうその窓に向かって、勢いよく炎を噴き出した。窓は鉄飾りごと溶けて、大きな穴が開いた。そこから見える空は、言い知れぬ開放感があった。
あなたがくれた力ですよ、と言わんばかりにシーアさんの方を振り向くと、空が反射して、彼女の目がキラキラと光っているように感じた。宝石のような、綺麗な瞳を持っていたんだと、この時やっと気づいた。その輝きを、そして光に照らされて、少しだけ明るく、血の気の良くなった自分の顔を、彼女は気づいているだろうか。
その顔は、ほんの少しだけ、ほころんでいた。
「行きましょう!」
そう言って手を差し出すと、シーアさんは恐る恐る、しかししっかりと手を取ってくれた。
シーアさんを連れてどう飛んだものかと少し迷ったが、掛かっていた大きくて上質そうなカーテンで二人の体を固定して飛ぶことにした。
少し不恰好だけど、これで飛べる。
俺たちは、様々な感情を胸に、窓から飛び立った。
初めての空は、なんだか不思議と怖くはなかった。
急募:赤ちゃんドラゴンの乗り方
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