登山家の小話
彼は自称登山家である。
国内の難関とされるルートは巡ったが最年少でも最高齢でもないせいでスポンサーが付かず、期間作業員として働いては資金を貯めて遠征に出かけるという暮らしを続けていた。
彼はこんな暮らしから脱却し、一旗揚げるためにも7000m級の山の中で最も難易度が高いと呼ばれる山へ挑むことにした。数多の冒険家や登山家が命を落としたその山は道中に6000m級の山を三つも抱えた連峰である。本来ならば隊を組んで大量の物資をつぎ込まなければ挑むことすらできない死の山だ。単独登頂は未だおらず、これを達成できうるならば後世に語り継がれる偉業となる。彼は何年もかけて準備を進めた。
楽しかったはずの山を違う気持ちで眺めながら。
そして数年後、彼はその地に立った。
今回使う登山口を管理する国の政府から出された条件は三つ。
・入山料は一人一律70万円を支払うこと
・遭難時の捜索は行わないこと
・万が一アタックが成功しても山頂には近づかないこと
山頂はこの山を信仰の対象としている先住民の管轄地として保護されているため近づくことはできない。事前に調べが済んでいたためここは問題ない。だが、想定外だったのは契約していたシェルパが低賃金を理由に契約を破棄してしまったことだ。
価格にこだわるあまりに胡散臭い現地コーディネーターを使ったのが災いしてしまった。しかし渡航だけで35万円を支払った彼は後に引けなかった。
アキオを連結して進む彼の心とは裏腹に空は快晴、5月の快晴日数3日の山とは思えないほどの穏やかな空だった。照り付ける太陽が日焼け止めを塗った顔を容赦なく焼く。暑さすら感じるような陽気に足取りは軽く、想定よりも1時間ほど早く行程を進めさせた。そのせいで彼は判断を誤る。
体は疲れているのに脳内麻薬がそれを忘れさせる、いわゆるクライマーズ・ハイである。肩へ食い込むアキオのロープも意に介さず、休憩も取らずに彼はずんずんと先を目指した。
疲労困憊、丸一日歩き続けて彼はようやくそのことに気付いた。そのころにはすでにテントを設営する体力も残されておらず、岩陰へ倒れるように腰を下ろして膝を抱く。時刻は昼を過ぎたところで日差しは強く、汗で落ちた日焼け止めを塗りなおすこともしなかったせいで顔がやけどでずきずきと痛んだ。現状確認すら怠っていた彼を急激な焦りと怒りが襲う。
「~~~~!!」
悔しさを叫ぼうにも渇きで張り付く喉がやけに痛み、水筒を取り出したが中身は空。彼の気持ちは一気に暗く沈んでいった。やりたくない仕事での失敗や、出世していく旧友の姿を思い浮かべて頭を抱える。自分の姿があまりにも滑稽で馬鹿馬鹿しく、ハッと我に返ってようやく冷静になった。
疲れで震える手を必死に動かしながらガソリンバーナーを取り出し雪を解かす。喉が渇いたからとそのまま雪をかじってしまうと体温が下がり危険である。もっとも汗をかかないためにそのままかじる人もいるが、丸一日歩き通して汗だくの彼には逆効果である。
標高3700m程のこの場所では水の沸点は87℃ほど。ガソリンバーナーの火力もあってあっという間に沸騰した。それをちびちびと口に運ぶ。雪に含まれる塵のにおいがする白湯は気持ちを落ち着けるには十分であった。その温かさが忘れていた空腹を思い出させる。
彼はいそいそとアルファ米を取り出すと、パッケージも確認せずに湯に落とす。じわじわと水分を吸い湯が白く濁っていく。ふわりと梅干しのツンとした香りが鼻を刺激して余計に腹がなる。出来上がったそれを彼はやけどしそうな勢いで口に放り込み喉を鳴らした。
「……生き返る」
満腹にはほど遠いが丸一日空だった胃に続けて食べ物を送り込むのは危険である。彼は辺りを見渡して安全確認を行ったあとテントを張る。その作業を進める中、今さらになって己の判断を冷静に振り返っていた。
勤務先や家では落ち着いて考えていたはずの事も、今思えば滑稽なほど浅はかな考えであったことがありありとわかる。張り終えたテントの中、静寂はどうしてか彼に家よりも安らぎを与えていた。
ふと、騒がしさに目を覚ます。テントが風にあおられバサバサと波打ち、埋めていたガイロープが今にも抜けそうだ。急激な天候の変化は山では日常茶飯事。ごしごしと顔をぬぐいながら彼は重い体を起こし、湯を沸かしてコーヒーを淹れる。荷物をひっくり返して栄養補助スナックを取り出し、かじりながらコーヒーをすすって地形図をにらむ。ひと眠りしたせいか、それともコーヒーのおかげか彼の頭は嘘のようにしゃっきりしていた。
いまさらになってGPSで登山ルートを確認しながら現在地を割り出し、予定ルートを大きくそれていることを確認した。彼は再び頭を絞って実行可能なルートを計算し始める。道中に設置してきた食料を差し引いても物資は十分にある。シェルパが来なかったことで負担は増えたが物資の減りは大きく節約できた。懸案事項の体力も念入りな高地トレーニングのおかげか回復してきている。
「二剣の山頂を諦めて最短ルートを行けば霊峰まではたどりつけるな」
今回彼が選んだ国からのルートには6000m級の山が二つ鎮座している。一つ目を一つ牙、二つ目を二剣と呼んでいる。由来はその頂が二振りの剣のようにそそり立ち、来るものを拒んでいるからだ。二剣は特に難易度が高く、多くの登山隊が迂回して本丸に挑んでゆく。二剣と霊峰を同時に攻略した隊は今までにない。当初の予定ではここへも挑戦して一石二鳥を狙っていたのだ。
とても正気とは思えない行程に苦笑して朝食を準備し始める。
ふとそこで気が付く。風の音に交じって騒ぐ声が聞こえる。ほかの登山隊が来たのかと考えもしたが、この天候で歩を進めるなど素人ですらしないだろう。そうこうしている間にも声は近づいてはっきりと人の声だとわかるようになってきた。普段は他人なぞに興味を持たない彼だがこんな状況かのせいか、むくむくと好奇心が鎌首をもたげてくる。おおよそテントから5mほどの距離だろうかそこまでくると不思議なことに風の音が消えた。さらに近寄ると波打つテントの音すら聞こえない。
彼は恐ろしさと、同時に得も言われぬほどの高揚感で胸がいっぱいになった。
先ほどまで聞き取れなかった騒ぎ声は驚くほど明瞭に歌声だとわかる。英語にも日本語にも、ありとあらゆる言語に聞こえるその声に彼はついにテントの入り口に手を伸ばした。瞬間ごつごつとした太い腕が彼の腕をつかんだ。血の気の引いた、この世のものとは思えないその腕に彼は思わず叫んだ。
腰が抜けて放心していた彼の耳に失っていた風の声が戻って来た。脳裏に焼き付いた鬼気迫るような空気をまとった腕を思い出し、心臓が早鐘を打つ。
そこから彼は生きてふもとまで戻ってきたが、その道中を全く覚えていない。息も絶え絶え彷徨っているところを他の隊の地元シェルパに救助された。
彼の話を聞いた地元シェルパは仲間を呼んで彼をもみくちゃにした。
「これからは良いことしか起こらない。胸を張って国に帰れ」
通訳してくれたガイドも子供を連れてきて彼に握手を求めた。
彼は今でも山に登っている。
名も知られていないような山を、子供のような笑顔で。
最近仕事の寮で撮った覚えのない写真が撮れていた作者です。リハビリを兼ねて短い文章を書いてみました。が、ジャンルが不明すぎて純文学に投稿しました。
懐の深いジャンルに救われる思いです。