はじまりの夜
私がマリー・リープリングになって、一か月が経った。最初はぎこちなかったヴェルナーさんとの仲も、この一か月で多少は相互理解を深められたように思う。何より驚いたのは、食事の豪華さだ。ほとんど滅亡した家なのだから、きっと孤児院とそう変わらない食事が出るのだろうと思っていたら、それは間違いだった。最初は私への歓迎の意味も込めてのメニューだと思っていたが、どうも違うらしい。
ヴェルナーさんによれば、この館に残っている家財は私が思うよりもはるかに大きなものらしい。今でこれなら、最盛期のリープリング家は、かなり大きな家だったのだろう。
驚いたといえば、ヴェルナーさんの方もだった。食事の際、私一人が豪華な料理に舌鼓を打って、ヴェルナーさんを脇に立たせているのがあまりにも申し訳なかったので、一緒に食べようと提案すると、ヴェルナーさんはそれはそれは驚いた様子で、何度も私に真意を確かめた。
私としては申し訳ないから、という以上の理由はなかったのだが、ヴェルナーさんはそうは思わなかったらしい。執事だからと渋るヴェルナーさんを食卓につかせるのには、かなり苦労した。しかしその甲斐あって、今では毎日同じ時間に、同じ卓を囲んで食事を摂れている。すると、自然に会話の量も増えて、ここへ来たばかりの頃のような、絶対的な距離感というのは、少し縮まったように思う。いいことだ。
私からしてみれば、これからは私とヴェルナーさんは二人で生きていく、いわば運命共同体なのだ。いつまでもぎこちない仲では大変具合が悪かった。
他にしていることと言えば、最近、本を読み始めた。館に残っている大量の蔵書を、読み耽るようになったのだ。
時には難しいものもあるけれど、今まで孤児院の絵本くらいにしか触れてこなかった私にとって、本は新たな世界を見せてくれる、魔法のようなものだった。最初はなんとなくで、今後知識も必要になるだろうからと読み始めた私は、すっかり嵌まってしまい、今では本の虫と呼べるような様だった。しかしこれが楽しいのだから仕方がない。
ヴェルナーさんも、今後様々な知識が必要になることは確かなので、止めるようなことはしない。ますます私は本の世界に入り浸り……物語に影響されすぎたのか、口調が変になった。色んな物語を読むうちに、幼いころの魔法や冒険譚への憧れを思い出し、登場人物たちの口調や仕草がうつってしまったのだ。
明らかに影響されている私を、それでもヴェルナーさんは微笑ましそうな笑顔で見守っていてくれて、なんだかちょっぴり恥ずかしい。
時々私の口調に乗っかって、ちょっとした小芝居までうってくれるのだから、楽しくてしょうがない。例えば今も。
「ヴェルナー」
「はい、お嬢様」
傍に控えるヴェルナーさんに気品のある仕草――のつもり――で呼びかければ、ヴェルナーさんはひとつ傅いて紅茶を注いでくれる。
まるで自分が物語の登場人物になったような気がして、これがやめられない。思えば孤児院にいた頃も、一時期魔法使いの真似事に嵌まって同じようなことをしていた気がする。きっと生来の悪癖なのだろう。
しかし、これからは貴族として振る舞わなければいけないのだから、案外このままでもいいのかもしれない。実際ヴェルナーさんも、どこか満足気な表情だ。
「……ふぅ。美味しい。この本も面白かった」
「左様で。お嬢様、新しい本をお持ちしますか?」
「ええ。これと似たような物語がいいです……いいわ」
「畏まりました」
たまに素が出ては恥ずかしくなるけれど、以前の口調では貴族らしくないし、それは今後を考えるとあまり褒められたことではないので、気にしないようにしている。ヴェルナーさんもそれをわかってくれていて、時々素に戻って話してしまっても、特に咎めたりはしない。
そろそろ慣れないとね。ふぅ、と熱い息を吐けば、紅茶のかおりが優しく心を満たした。
「お持ちしました。魔女と騎士の物語です。きっと、お嬢様のお気に召すかと」
「ありがとう」
「もったいなきお言葉です」
時間もかからずに新しい本を持ってきてくれたヴェルナーさんは、では私は館の清掃をして参りますので、と一礼して部屋を出ていった。
私はそれを見送って、早速新たな物語の一ページを開く。
舞台は遥か昔の帝国。まだ乱立する一小国に過ぎなかった時代のお話だ。
「おお、騎士よ。天命を受けし勇ましき者よ。其方に、新たな運命を授ける」
「はっ。王よ、このアインガルド、謹んでお受けいたします」
騎士は王より命令を受け、四方八方から攻め込んでくる異国の軍勢から国を救うべく、時計塔の魔女へ助けを求める。
「噂に名高き、ヴェルドミール・マーリンよ。このままでは我らが祖国は攻め滅ぼされてしまう。どうか知恵を授けてくれないか」
「騎士アインガルドよ。ならば剣を抜くがよい。その刀身に煌めく己の瞳こそ、その答えなり」
マーリンの言葉を受け、自らの瞳を剣に映したアインガルドは、目を見開いて驚く。
そこに映っていたのは、燃えるような紅に色を変えた自らの瞳だ。アインガルドが慌てて剣を振るうと、ぶおん、とその軌跡に炎が舞った。
マーリンが魔法を授けたのだ。
「我らが祖国は炎で以て、襲い来る脅威を振り払うべし」
「マーリンよ。貴女ほどの魔法使いが戦に加わってくだされば、祖国の安寧はより強固に」
「騎士、アインガルドよ。力とは、時に毒なのだ。炎の旗のもとに団結するが、真の力となるだろう」
「マーリンよ。ならば私が、旗印となって、脅威を振り払ってみせよう。だが、真に危機が訪れた時、その時は」
「アインガルドよ。よいだろう、ならばここに盟約を結ぼう」
マーリンは、帝国が本当の危機に陥った時、その時に一度だけ手を貸すと約束して、アインガルドを送り出した。
アインガルドはその炎の剣を振るい、何度も脅威を退ける。炎の力を知った帝国は、やがて火矢を生み出し、絶対的な軍事力を持つようになる。力を手にした帝国は暴走し、脅威を退けるだけでなく、侵略にもその力を使い始めた。
そしてある日。帝国の首都を雷の嵐が襲った。
「アインガルドよ。盟約に基づき、我が力を振るう。たとえ魔女と呼ばれ様とも、必ずこれが祖国を救うと信じて」
「マーリンよ。ああ、マーリンよ。我らは、間違っていたというのか」
「燃え盛る炎はやがて大火となって我が身を襲う。……アインガルドよ。其方らの火は、大きくなり過ぎたのだ」
首都を焼かれた帝国は力を失い、一度侵略を打ち止めにした。それでもその軍事力は高く、周囲の国が襲ってくるようなことはなかった。
やがて首都を復興した帝国には繁栄が訪れ、人々の暮らしは豊かになっていく。
マーリンの真意にようやく気付いたアインガルドは、その炎の剣を時計塔の前に突き刺し、やがて姿を消した。
その後、魔女と恐れられ、火あぶりにされたマーリンの亡骸は、今も影となりて帝国を見守っているのだという。
……なかなか、重たい物語だ。含蓄も多い。
きっと膨張しすぎた帝国は新たな敵を呼び、いずれ内にも敵を抱え、滅びてしまう。それを憂いたマーリンは、たとえ自らが魔女と呼ばれようとも都を焼く決意をしたのだろう。
私は紅茶を含んで、のどを潤した。はふ、と吐息が漏れる。
考えさせられる話だ。私は本を閉じて、表題をなぞった。時計塔の魔女、か。
まさに今私の住むこの時計塔とその噂をモデルに描かれたのだろう。なるほど、リープリング家は物好きだ。
そんな曰く付きの塔を自らの住居にしてしまうのだから。
「お嬢様」
「……あ、ヴェルナー」
「お食事の時間でございます」
「……もうそんなに時間が? 気付かなかった。今行くわ」
気付けば窓から差す光が、夕焼け色に染まっている。
まったく、本を読み始めると時間を忘れてしまっていけない。私はヴェルナーさんの言葉に従って、広間へと降りた。
「今日のディナーは、鶏の香草焼きに、旬野菜のスープ、それから白パンになっております」
「わぁ、美味しそう……」
「腕を振るわせていただきました。きっと楽しんでいただけるかと」
「じゃあ、ヴェルナーも」
「はっ、畏れながら、ご同席させていただきます」
ヴェルナーさんと料理を囲んで、座席に腰を下ろす。この椅子ひとつとっても、孤児院とは全然違う。とても柔らかくて、すわり心地のいい椅子だ。おしりの部分に、綿を詰めてあるのだという。考えるまでもなく高級品である。
そして料理だ。やはりヴェルナーさんは料理が上手い。素材はそこまで高級なものではないが、その味はどんな高級料理店にも勝る一級品だろう。この一か月で肥えた私の舌が、香ばしいかおりを絡めとってそう判断している。まあ、高級料理店の料理なんて食べたことないけど。
「いただきます」
「はい、存分にご賞味くださいませ」
「ヴェルナーもね」
「そうでした。では私も、いただきます」
いつからかお決まりになった、食事前の合掌を糧となってくれた食材たちに捧げ、まずはスープに手を付けた。
こくり、一口。じんわりと広がる熱と、様々な野菜たちの味わい。うん、やっぱり美味しい。思わず笑顔になった私は、白パンをちぎって口に放り込み、もぐもぐと腹を満たしていく。
「そういえば、ヴェルナー」
「はい、お嬢様」
「ここにきてもう一か月になるけれど、他のお貴族様のところへ挨拶にいったりはしなくていいの?」
「ああ、それですが」
ヴェルナーさんは白パンを飲み込んでから、一通りの事情を説明してくれた。
なるほど、たしかに今の私ではまだまだ知識不足だ。マナーも少しずつ学んではいるが、まだまだ一貴族家の当主としてはやっていけない。もう少し、最低限の力量を身に着けてから改めてリープリングを名乗るべきだろう。ヴェルナーさんのいう通りだった。
しかし、事実は小説より奇なりというか、なんというか。物事は思ったようにいかないもので。
「――もし。誰か、いますの……?」
想定外はいつだって、備えの整わぬ内にやってくるものだった。