再訪
ふと、目が覚めた。なにか悪い夢を見ていたような気がする。
肌着が肌にぴったり張り付いて、気持ちが悪い。夢の内容は覚えていないが、後味の悪い感情だけが残って、その余韻が私を不愉快にさせる。
「ん……」
私はのっそりと体を起こし、張り付いた肌着をぱたぱたと剥がした。近くにあった予備の肌着を手に取り、早速着替える。
ちょうど着替え終えたあたりで、ノックの音がした。
「お嬢様」
「ライラ。入っていいよ」
ノックの主はライラさんだ。ライラさんが館に来てから、起こしに来たり、ランチやディナーの準備が整った時の報告など、私の部屋に来る用の担当はヴェルナーさんではなく、ライラさんの仕事になった。やはり同性ということもあって、身だしなみなどを気にせずに済むからだろう。
部屋に入ってきたライラさんは、肌着を着替えた私を見て、おおよそを察してくれたみたいだ。心配そうな表情で、脱ぎ捨てられた肌着を拾い上げた。
「お嬢様、何か悪い夢でもみましたか?」
「そうみたい。内容は、覚えていないけれど」
「そうでございましたか。……少し、紅茶でも?」
「ええ。お願い」
一端部屋から出て広間へ戻っていったライラさんは、すぐに紅茶のセットを持って戻ってきた。その手に先ほどの肌着はない。洗濯へ回したのだろう。ライラさんが淹れてくれる紅茶は、ヴェルナーさんが淹れてくれるものとはまた味が違う。
紅茶の淹れ方の上手さでいえば、料理とは反対にライラさんの方が上手なのではないだろうか。私は淹れる人によってこんなにも紅茶の味が変わることを、つい最近になって知った。ヴェルナーさんの淹れた紅茶も十分美味しいのだが、ライラさんの淹れるそれは格別だった。さすが、メイド長である。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「ありがとう」
熱々の紅茶をひとくち含んで、その香りで嫌な感情を洗い流す。
こくりとのどを通せば、じんわりと熱が体の内側に広がって、不快な夢の余韻を消し去ってくれた。
いったい、何の夢をみていたのだろう?
「変ね。こんなにも不快なのに、夢の中身をまるで覚えていないだなんて」
「夢とはそういうものでございますよ。私も、時折似たようなことがあります」
「そっか」
「はい。ではお嬢様の体が完全に起床されるまで、少しお話でもしましょうか」
「うん」
なんだかあやされているようだが、というか実際そうなのだが、悪い気はしない。
ライラさんは甘えさせ上手だ。歳は一回りくらいしか変わらないのに、母性のようなものを持っている。いや、姉の方が近いだろうか。
私はライラさんの言葉に甘えて、少し話をすることにした。
「じゃあ、夢の話でも」
「夢の話ですか。それはどちらの夢で?」
「将来の夢の方」
「なるほど。私は、そうですね。夢ですか」
「なにかある?」
ライラさんは少しだけうーんと頭を捻って、やがて頷くとその夢を語ってくれた。
「お嬢様が大きくなって、誰かと結婚式を行うお手伝いをすること。それが、今の私の夢でございます」
「結婚式、かぁ」
「はい。お嬢様はいま、婚約を結びたいお相手などはいますか? やはり……」
「うん。そうね。もしも結ぶなら、ヴェルナーがいい」
「ふふ、私は応援していますよ。歳の差や身分の差など、些細なことです。愛があれば、きっと乗り越えられますよ」
「ありがとう。でも、私が一方的に好きなだけだから」
「さて、それはどうでしょうかね」
どうでしょうとは、どういう意味だろう。なんだ、気になる発言をする。
むずかゆくなるので、やめてほしい。そんな言い方をされたら、少し期待してしまうではないか。
「ヴェルナーは、昔から仕事一筋の男ですが、私には、お嬢様に接する際のヴェルナーは、随分と私情が混じっているように見えますよ」
「私情」
「はい。最初はきっとリープリング家の末裔であらせられるという事情や、それゆえの深い敬愛から来るものだったのでしょうが、今は、どうなのでしょうね。執事としての主人に対する情とはまた違った、曖昧な愛情を抱いているように思えます」
「曖昧な愛情?」
「はい。まだその方向が確定していない、愛情でございます。だから、お嬢様次第では、それは親愛にも、恋愛にも変わるのではないかと」
「そっか……そっか」
ライラさんは、私なんかよりずっとヴェルナーさんとの付き合いが長い。私の知らないヴェルナーさんの一面を、幾つも知っているだろう。
そんなライラさんが言う言葉なのだから、それは信頼できる気がした。なるほど、曖昧な愛情、か。
ならば、まだチャンスはあるのだろうか。私が頑張れば、それを対等な愛情へ育むことだって……ああ、でも、考えただけで恥ずかしい。顔が熱くなる。けれど、私がそれを望むのならば、羞恥心などで立ち止まっている場合ではない。
「ライラ。改めて、このこと、協力してくれる?」
「もちろんでございます。お嬢様のしあわせが、私のしあわせですので」
「ありがとう。くれぐれも、秘密にね」
「はい。乙女の盟約、ですね。ふふ」
「そうね。盟約、盟約よ」
紅茶のカップを傾け、甘すぎる気分をリセットする。
浮かんでいた幾多の妄想がゆっくり心の奥へ消えていって、それを見計らったかのようにライラさんが尋ねた。
「では、お嬢様の夢は、なんですか?」
「私の夢?」
「はい」
夢、夢か。自分から振っておいてだが、あんまり考えたこともなかった。
館に来るまでは、甘いお菓子をお腹いっぱい食べるというのが夢だった。けれどそれは、もういつでも達成できる現実になった。
ならば、今の夢は何なのだろう。考え込む私を、ライラさんはずっと待っていてくれた。
「そうね。ヴェルナーや、ライラや、そしてこの先縁を結ぶことになる色んな人たちと、ずっと仲良く、平和に暮らすこと。それが、私の夢かしら」
「なるほど。とても素敵な夢ですね」
「そうかしら」
「はい。世の中には、侵略と簒奪が夢だと言い出す方もいらっしゃるのですから」
「ふふ、そうかも」
ライラさんなりの冗談だろう。とぼけたような数多の貴族への皮肉に、思わず笑ってしまった。たしかに、それと比べれば素敵な夢かも知れない。それが絶対的な悪だとは言わないけれど、相対的にみるならばそれは悪だろう。その裏で悲しみ、恨む人がたくさんいるのだから。
私はそんな悲劇は産みたくない。私はお人よしではないけれど、冷酷でもなかった。
「さて、そろそろ起きようかしら」
「お目覚めになりましたか?」
「ええ、十分に。ありがとう、ライラ」
「いえ」
ライラさんのおかげで、嫌な夢のことなどすっかり忘れてしまった。
ヴェルナーさんもそうだが、本当に気が利く。贅沢な従者を持ったものだ。この幸運に感謝しなければならない。
そう思うと、この薄紫色の髪が、ちょっぴり誇らしく思えてきた。いい加減、自分の出自を疑うのはやめた。リープリング家の末裔としての自覚が、少しずつ芽生えてきたのだ。
この二人の顔に泥を塗るようなことがないよう、立派な主にならなければ。顔も知らぬ、家族たちのためにも。
きっと、無念だったろう。ならば生き残った私は、それを背負って立たねばならないのだ。
「それではお嬢様、本日はどのように?」
「そうね。少しだけ読書をして、お昼からは魔法の研究をしようかしら」
「畏まりました。では、そのように」
「ええ。そうだ、金属についての本はある?」
「金属ですか?」
「ええ。雷は金属とも関連性があるから、なにか参考になるかと思って」
「なるほど。ではご用意いたします」
「お願い」
数分かからない内にライラさんは数冊の本を抱えて戻ってきて、ではごゆっくり、と退室していった。
さて。私は早速、一冊目の本のページをめくった。様々な金属の種類と特徴が書かれた本だ。
私はそこから、雷を通す金属と通さない金属にわけて、頭の中に叩き込んでいく。
役に立つかはわからないが、知っていて損はないだろう。もしかすれば、役に立つ時が来るかもしれない。読書の動機は、それで十分だった。
ページをめくっていく中で、少し気になる金属を見つけた。
それは、水銀。辰砂と呼ばれる赤い鉱石に含まれているのだという。なんでも、水銀は世にも珍しい液体の金属で、電気もよく通すのだとか。錬金術や占星術でよく使われる不思議な金属で、不死の薬の原料にもなるのだという。
「へぇ」
魔法があるのだから、そんな金属だってあるか。面白い知識を得たと思っていると、ページの端の方に小さな注釈を見つけた。
曰く、水銀は実は有毒で、腹痛を起こしたり、気分を悪くしたり、最悪死に至る呪いの金属で、安易に飲んだりしてはならないという一説を唱える学者もいるのだとか。しかしこの本での扱いにも表れている通り、それは一般的な学説ではないのだろう。
しかし、私はこの注釈が妙に気になって仕方がなかった。何か、似たようなことを以前にも聞いたような……。
「お嬢様、失礼します!」
「あれ、ライラ。どうしたの、ランチにはまだ……」
「リリエット様と名乗る方が、いましがた館に。なにやら尋常ではない様子で、泣きじゃくりながら魔女様に取り次いでくれと……!」
「リリエットさんが?」
思わず素に戻りながら、きょとんと首を傾げる。本の世界に没頭していた意識を現実に引っ張り戻すと、なるほど広間の方がなにやら騒がしい。しかし、何があったのだろうか。ライラさんの言う通り、尋常ではない様子だ。
私は急いで身だしなみを整えると、本を脇に置いて部屋を出た。広間まで降りると、そこにはああ、ああ、と絶望したように泣きじゃくるリリエットさんと、それを必死で宥めるヴェルナーさんがいた。
「リリエット……?」
「ああ! 魔女様……! どうか、どうかお知恵をお貸しください! 私が、私が悪いのです、私が忠告を忘れたから……っ!」
「まずは、落ち着いて。何があったの」
するとリリエットさんは少し呼吸を整えて、赤く腫らした目で縋るように私を見つめて、言った。
「――ロメオ様に、毒殺されそうになったのです!」




