プロローグ
私、マリー・リープリングはつい先ほどまで、孤児であった。自身がどうしてこの名前を名乗るのを許されたのかは、未だによくわからない。私を孤児院から連れ出したヴェルナーという執事がいうには、私は先代リープリング家当主夫妻の忘れ形見なのだという。けれど私は、そうは思わない。
だって私は、生まれてこの方、ずっと孤児院で育ってきたのだ。そこへいきなりお貴族様の使いがやってきて貴女は滅んだ貴族一家の末裔ですと言われても、ピンとくるはずがなかった。それでも彼に着いていったのは、偏に貴族という待遇に目が眩んだからだ。
もしも貴族になれば、甘いお菓子をお腹いっぱい食べられる。そんな誘惑が、私をこの“時計塔”へと導いたのだ。
「マリー様、まずは館へ帰りましょう」
「……うん」
時計塔。それは、この大陸を統べるアルストロメリア帝国の首都、アルストロメリア。その郊外にポツンとたたずむ、中心に大きな時計の塔が据えられた不思議な屋敷のことをいう。なんでも、遥か昔からここに聳え立っていたというこの塔は、誰がどんな用途で建てたのかもハッキリしていない。それを、これまた昔に、物好きな貴族――つまり、リープリング家のご先祖様が、塔を囲うように館を建て、自らの住居にしてしまったのだとか。
時計塔は天を衝くかの如く高く伸び、その威容は私の育った孤児院からでも目にすることができた。だからこそ、今から私がそこの住人になるのだというのが、どうにも奇妙に思えて仕方がなかった。私にとって時計塔とは、甘いお菓子と煌びやかなお貴族様たち、そして怪しげな魔法が揺らめく、ファンタジーだったのだから。
「ようこそいらっしゃいました。――いえ、お帰りなさいませ、ですね」
「た、ただいま……? その、お邪魔します」
ヴェルナーさんの案内に従って、館の敷居を跨ぐ。
門から見上げた時計塔は、孤児院の窓から眺めるよりも、もっともっと大きく見えた。
「こちらへ」
「う、うん……」
まだ現実を受け止め切れていない私を微笑ましいような、感慨深いような、複雑な表情で見守るヴェルナーさんは、門を開くと綺麗な姿勢で私が館に入るのを待った。とりあえず、ここで突っ立っていても仕方がない。私はヴェルナーさんの視線に従うがまま、館の中に入った。
館の中は、想像していた通りのものではなかった。確かに玄関からすぐの広間は広く、天井には高そうなシャンデリアが幾つもぶら下がっていたけれど、掃除が行き届いていないのか、所々埃っぽいような、まさに廃れた貴族の館といった有り様だった。それでも、孤児院よりかはずっと豪華なつくりである。
物珍しそうに館の中をつぶさに観察する私に、ヴェルナーさんが微笑みながら言った。
「まずは、お召し物を替えましょうか」
「わかった」
といっても、服なんて、孤児院から支給されたこのぼろぼろの布服が一着である。この館に合うような――ある意味合っているのかもしれないけれど、それはあんまりにも失礼なので言わなかった――服は持ち合わせていない。困った私が口を開く前に、ヴェルナーさんは、準備してあったのか、広間の長い机から一着のドレスを拾い上げると、私の肩に合わせてじっと寸法を測った。
「よかった、きちんと合いそうですね」
「あの、これは」
「奥方様……マリー様のお母様が、昔お気に入りになられていたドレスです。リープリング家の女性は幼少期から大して身長や体格が変わらないので、きっとマリー様にもぴったり合うはずだと思っていました」
「そう、なの」
それは奇妙な話だ。大人になればみんな背が大きくなるのに、それが変わらないなんて。やっぱりあの噂は本当なのだろうか。
時計塔には魔女の一族が住んでいるという、あの噂だ。
この世界には、魔法というものがある、らしい。らしいというのは、話に聞いただけで、私は一度も目にしたことがないからだ。ほんの一握りの人だけが、魔法と呼ばれるそれを行使し、不思議な現象を起こせるのだという。この時計塔に住むリープリング家の女性も、そんな一握りの“魔法使い”だと孤児院では噂になっていた。
もしもヴェルナーさんが言う通り、本当に私がリープリング家の末裔なら、私にも魔法が使えるのだろうか。
……いや、そんなはずはない。私だって、魔法に憧れて魔法使いの真似事をしていた時期があったが、一度だって魔法を使えたことはなかった。今更、急に魔法が使えるようになるわけもない。やっぱり間違いなのではないだろうか。
私が不安と若干の後ろめたさを感じていると、ヴェルナーさんは手早く私の服を脱がせて、ドレスを着せてしまった。
初めて着たドレスは、なんだかふわふわして落ち着かなかった。
「……マリー様の混乱は、よくわかります。けれど、その薄紫色の髪が、リープリング家の血を継ぐ者だという、なによりの証明です。リープリング家の他に、そのような髪色の人間は帝国中を探したっていないのです」
「……髪」
私は、肩に垂れるくるくるの自分の髪を手に取った。確かに、周りと比べて不思議な色の髪だとは思っていた。
けれど、それがリープリング家の証明だなんて言われても、イマイチ理解が追い付かない。孤児院では誰も気にしていなかったし、私だって気にしなかった。だって他にも、赤や青や、金色や、色んな髪の色の子たちがいたのだ。たまたま、私はこんな色の髪なだけだと思っていた。
「改めて、お迎えが遅れたこと、ここに深くお詫び申し上げます。リープリング家は、先の戦争でご当主様やマリー様のご兄弟の方々もすべて失い、失意に駆られた奥方様もそれを追うようにして亡くなられ、戦場にて最後に生まれられたマリー様の行方を捜すのに、時間がかかってしまったのです」
「私が、戦場で?」
「はい。マリー様は、先代様の最後の直系子孫であり、王国との戦争の最中、最前線で生まれられました。その直後の戦闘で、ご当主様を始め、皆様が亡くなられてしまったのです」
自分は館にいたため、何もできなかったと嘆くヴェルナーさんの顔は、本当に寂しそうで、きっとリープリング家はいい家族だったんだろうなと思えた。
王国との戦争。それは孤児院にいた私でも、知っている。アルストロメリア帝国が、この大陸を制覇するため、最後に立ちふさがった国。それがクロマリア王国だ。大陸を二分する戦争に、膨大な犠牲者を出しながらも帝国は勝利をおさめ、そして今がある。孤児院ではそう習った。
その戦いで滅んだお貴族様の家は、ひとつやふたつではないらしい。彼の四大公爵家までもが、大きな犠牲を払ったのだとか。
それは戦争になると貴族が最前線に立つ帝国軍の性質上仕方のないことであり、ゆえに私たち帝国の庶民はお貴族様に対し敬意を払って生きていくのだ。けれど私は、そんな仕組みにちょっとだけ違和感があった。
だって、前線で戦うのはお貴族様だけじゃない。お貴族様たちは兵を率いて戦う。そしてその兵は、私たち庶民なのだ。敬意を払う気持ちはあるけれど、だからといって普段の暮らしがお貴族様と庶民で違いすぎるのではないか、と思うことが多々あった。
でもこれは、私が孤児で、孤児院での暮らししか知らないからなのかもしれない。誰も声をあげないなら、みんな納得しているということのはずなのだから。
「一時期は私もひどく落ち込み、すべてを投げ捨てようとしたこともありました。けれどマリー様が、貴女様がまだどこかで生きている。それが私をこの世に繋ぎとめたのです」
そういうヴェルナーさんは、隠すようにほんの少し涙していた。真実はわからないけれど、私が生きていることで、彼の人生も終わらなかったらしい。こうなってしまうと、引き返すことはできない。いまさらやっぱり勘違いだと思いますなんて、言えるはずもなかった。
その瞬間、ヴェルナーさんの表情が絶望に染まってしまうことくらい、私にも簡単に予想できたから。
「……そっか」
とにもかくにも、私はただのマリーから、マリー・リープリングになった。
この先、何が待ち受けているのか、不安しかないけれど、私なりにお貴族様をやっていくしかないのだ。必要なことはきっと、ヴェルナーさんが教えてくれるだろう。
ひらりと揺れたドレスが、とても重く思えた。
「マリー様……」
色々ありすぎて疲れたのだろう、眠ってしまわれたマリー様をみて、私、ヴェルナーはホッとため息を吐いた。
正直、受け入れて頂けるとは思っていなかった。なにせ、戦場で見捨てられ、孤児院で育ったところへいきなり押しかけ、貴女がリープリング家の最後の末裔です、なんて宣告したのだ。マリー様からしてみれば、まったく意味が分からない状況だろう。
いや、もしかすれば自分が見捨てられたことを覚えていて、恨みだって抱いているかもしれない。リープリング家の女性は常に早熟なのだ。赤子のころの記憶を持っておられたという代々の一族の方々の話も、いくつか聞いたことがあった。
そう思えば、マリー様がここへ到着した時から、どこか物憂げな表情をされているのも、納得がいった。
きっと、戸惑い、不安になっているのだろう。見捨てられたはずの家へ迎えられたことに、あるいは、この先のことを思って。
最後の末裔だということは、必然的に当主ということである。今まで孤児院で暮らしていた自分が、いきなり貴族家の当主などやっていけるのか、きっとそう思われたに違いない。実際、かなり難しい状況にあると言えた。
幸い、家財はすべてこの館に保管されているので、何もせずとも食うには困らないだろう。しかし、正式に家の当主となるからにはそれ相応の責任、果たすべき役割というものが出てくる。まだ幼いマリー様には、ひどく酷な話である。
ゆえに、私はマリー様が館に戻られたことを、しばらく国に報告せずにいることにした。もう少し大きく成長されて、私が必要最低限の知識をお教え出来たその時に、改めて皇帝陛下に謁見するのがよいだろう。
こちらの都合ばかり押し付けて、本当に自分が嫌になる。けれどマリー様は、私にとって最後の希望なのだ。
幼少期、スラム街で死にかけていた私を拾い上げ、執事としてここまで育ててくださった奥方様とご当主様の、最後の忘れ形見。家の滅亡に際し、同僚たちが次々と辞めていく中、最後まで残った者の、唯一の執事としての責任。
願わくば、またあの温かく栄光に満ちたリープリング家の再興を、そして残されたマリー様の幸せを。
ゆえに私は、残りの人生のすべてをマリー様に捧げると決めたのだ。
ああ、マリー様。いや、お嬢様。どうか今は、安らかな眠りを……。




