あなたのとなり
細かい矛盾があるかもしれませんが温かい目で読んでください。
私は至って普通の女子大生、暮野夏羽。霊感なんて現実離れした感覚の持ち合わせはない。今年の春で大学は二年目で、念願の一人暮らしの許可をもらい、最近慣れてきたばかり。
サークルに入っていないし、元々積極的に周りと関わるタイプではないので、俗に言うボッチだ。まあ、ボッチもボッチなりに気楽で気に入っている。
見飽きた大学の門、いつも通り無駄に大きい大学の学舎。何ら変わりのないそれらは平穏そのもの。私はそんな平穏が大好きだったし、不変のものだと思っていた。
あの日が来るまでは。
午前の講義を終えて私が帰り支度をしているときだった。ゆっくりとした速度で、男の人が歩いてきた。グシャグシャの黒髪、すらりとした長身。すっきりした瓜実顔と、やけに形のよい、薄い唇をしているのは分かるのだが、そこから上が分からない。もさっとした前髪が邪魔をしていた。
勿論知り合いじゃない。こんな人知らない。いぶかしんでいるのが顔に出たのだろうか。男の人が居心地悪そうに小さく身じろぎした。しばらく、言葉を探しているように私の前で黙り込み、おもむろに口を開いた。
「君が、いつもあの席に座っているのか?」
あの席と聞いてすぐにそれが何か思いつかなかった。
「窓際の席だ。3列目の。」
3列目、窓際の席と言えば、私のお気に入りの席だ。一番前でもないし、窓際は、夏はエアコンの風、冬は外の日差しが程よくあたる、ベストスポットだったりする。今日は空いていなかったが、私はずっとそこで講義を受けていた。
「まあ、そうですけど。」
「あの席の噂は?」
「そんなのあるんですか?よかったら教えてくれません?」
座った人が呪われる、とか、座った人の恋が叶う、とかそういう噂だろうか。後者だとしたら見かけにあわずロマンチストだな。男の人はまた黙ってしまう。
「霊が出る。」
れい。予想していなかった答えに少し戸惑う。あまりにも無縁な言葉に、とっさに漢字変換できなかった。
「れい、というと?」
話に応じてはならない人だったかもしれない。このときようやく悟った。が、もう聞いてしまった後だ。
「死者の残留思念。あの席には、いつも霊が座っている。」
「私、見たことありませんけど・・・」
「君にその霊が見えることはない。」
困った。妄言に付き合う気なんてないのに。仕方がないので真に受けた振りをする。
「私、大丈夫ですか?お祓いしたほうがいいとかあります?」
「霊は人に憑かない。本来、生きている人間には干渉できない靄のようなものだ。」
そこまで細かく設定されているのか。こういう人たちって本当に恐ろしい。男の人がすっと私に視線を合わせた。見えないけれど、そんな気がした。
「疑っているだろう。」
心の底を見透かされたような、的確な言葉だった。反射で肩が揺れる。
「下手な演技はやめろ。俺だって自分が見えなきゃ信じない。」
あれ、と思った。男の人は、ぐしゃぐしゃと前髪をかきあげ、ため息をついている。なんか、そういう感じじゃない。
「見えるって、本当に?本当に?」
「こんな胡散臭い嘘つくかよ、恥ずかしい。」
突拍子もないことをいっている自覚はあるようだ。心なしか気まずげなその様子は、どうしだって嘘には見えない。
(信じて大丈夫か、これ。いや、でも証拠はない。私は現実主義者。見たものしか信じないし、信じられない。)
「やっぱり信じられないっていう顔している。」
「うっ」
「見れば、信じるのか。」
うん、と言いかけて、気がついた。どうしてこの人は、私にこんなに霊の存在を認知させようとするのだろう。
(やっぱり、あやしいかも。)
「逆戻りか・・・。」
私が警戒心を取り戻したことにすぐ気がついて、男の人が深くため息をついた。そして、何か小さく呟く。うまく聞き取れなかった私は思わず聞き返した。
「はい?」
「霊、見れば納得するだろう。」
「・・・はい?え?!ちょっと!」
男の人は、私の話をちっとも聞こうとせずに歩き出した。恐ろしく速い。競歩の選手かと問いたくなるほどの速度。置いて行かれるのは当然だ。私のせいじゃない。
「よし、帰ろう。」
付いていく必要なんてないのだ。私は別に霊とやらが見えなくても困らない。害がないのだったら、関係なんてない。
あの男の人に捕まってしまったせいで、きっと数量限定のビーフカレーパンは売り切れていることだろう。災難だ。
がっくりうなだれながら、今度こそ教室を出ようとする。
《逃さない。》
低い、声が聞こえた。全身に悪寒が走った。声の正体に心当たりはない。しかし、本能がわかっていた。これは、私を脅かす存在だ。
振り返ってはいけない。わかっている。見てしまえば恐怖で動けなくなってしまう。それなのに、体が私の意に反して、ゆっくりと振り返る。
「ッ!」
人は本当に恐ろしいとき、悲鳴すら出ないのだとこのときに知った。酸欠の魚みたいに喘ぐだけで精一杯だ。人知の及ぶものではない。これは理から外れたものだ。逃げなければ。そう思うのに
《逃さない。》
私の足が、声の主に向かって踏み出す。体の自由が利かない。希望の光なんて、飲み込んでかき消してしまいそうな暗闇が、私を引き寄せる。暗闇と、私の距離はもう数歩もない。
《逃さない。》
ぐわりと、暗闇が広がった。このまま私を取り込む気なのは火を見るより明らかだった。
(人に害はないんじゃなかったの?!)
とっさに、さっき話した男の人が浮かぶ。彼は間違いなく、霊は人に干渉できないと言っていた。それはやっぱり、嘘だったのだろうか。それとも。
(これは、霊ではない・・・?)
では、これは、何なのだろうか。暗闇が覆い被さってくる。全てが黒く染まっていく。光が、消える。真っ暗な絶望が私の存在すべてを溶かすように、そこにある。
「契約違反だ、散れ。」
男の人の声がした。ぱっと、視界が光を取り戻す。暗闇は、声に応じるように収縮し、消えた。
「無事か。」
私を縛っていた不可思議な力は消え失せ、床にへたり込んだ。恐怖で冷えた体を、抱きしめる。そして、実感した。帰ってこられたのだ。あの、暗く、恐ろしい場所から。すっかり温度をなくした指先が、細かく震えている。
「私、生きてる。」
「・・・・・・。」
温かな日差しが、体を優しく包み込む。光のない世界ではありえない明るさが、私を照らす。男の人は、私が落ち着くまで、黙って立ったままだった。
「あなたは何。霊は、人に干渉できないと言っていたでしょう?どうしてあなたはあの暗闇を消せたの?」
沈黙を破ったのは、ようやく落ち着いた私のほうだった。男の人が前髪をかきあげた。露わになったその顔に、私は息をのんだ。
すっと通った鼻梁に、切れ長の目。整っていた個々のパーツは全て揃いきちんと配置され、あまりにも綺麗な顔をつくり出していた。ただ、私が驚いたのは、それだけではなかった。右目の下、ちょうど頬の上部のあたりに、藤色の模様が浮かんでいたのだ。鱗のようなそれは、けして入れ墨でも、絵の具で書いたわけでもないと主張するように柔らかな燐光をまとって明滅していた。
「それは・・・。」
二の句が継げずにいると、男の人が綺麗な顔をかすかに歪め、またため息をついた。
「俺は、小野篁。ここの四年。代々、閻魔帳を記述してきた小野家の当主だ。」
いくら心霊系に疎くても、流石に閻魔様は知っている。子供の頃、両親に読んでもらった話には、閻魔様の話もあった。閻魔様の持つ閻魔帳は、死者の名を記すもの。それくらいはわかる。ただ、あくまでも昔話の中の話だ。
さっきまでの私だったら鼻で笑い飛ばしている。でも、先程の、まだ鮮明な恐怖は紛れもなく本物だった。もう、不可思議な出来事なんて起こらないだなんて、思えなかった。
「小野、さん。どうして、私のこと助けてくれたの?いや、それ以前に、何で私に声をかけたの?あれは何だったの?」
男の人、もとい小野さんは、私をまっすぐ見つめた。
「あれは、霊だった。・・・ここまで言えば、聡い君はわかるはずだ。」
何が、とは言えなかった。わかってしまったから。
窓際3列目の席の霊、小野さんがあんなに私に霊を認識させようとしたわけ、私の手をつかめば逃げられることなんてないのにそうしなかったこと、私が、人に干渉できないはずの霊に襲われたこと。
ここ最近、家に帰った記憶がない。大学の門をくぐって、講義を受けて、門を出て、帰宅の記憶がないまま、また次の日になっている。それに何の疑念も持たなかったわけは。私は、それをすんなり認めた。何もかもが、急に腑に落ちた気がした。
「私は、死んだんだね?」
途端に、体が薄く、頼りなく揺らいだ。小野さんの藤色の模様が、それに共鳴するように光の粒子を揺らめかせる。
「事故だった。君は、大学の門を出たとき、居眠り運転のトラックにひき殺された。」
即死だった。小野さんはそう言って、私の薄らいでしまった体を見つめる。
「君は地縛霊だ。大学から外には出られない。自分が生きてると思っている以上、あの世にも逝けなかった。」
「あの暗闇は、あの世の入り口だったの?」
「あれは、死んでから四十九日たってもあの世に逝けない霊を、喰らって消す、シノグイという亜霊。霊が四十九日を越すと悪霊になるから。君は今日で四十九日を迎える。だから、狙われたんだ。」
死んでから、もう四十九日たっているのか。そんな長い間、私は気づかなかったのか。
「じゃあ何で、私を助けたの?」
シノグイは、四十九日待った。私は食べられるはずの霊だ。小野さんが言っていた「契約違反」ではけしてない。
「君は四十九日間、死んだことに気が付かなかった。それを差し引いても、死後人型をとれる、強い魂は貴重だ。大抵は靄のようにしかならない。だから、君を見かけたとき、このまま四十九日、あの世に逝くことなくとどまるようだったら、部下にしたいと思ったんだ。」
「部下・・・・・・」
「って言ったし契約も結んだのに、シノグイがそれを破ったんだよ。」
小野さんはまたため息と一緒に文句を吐き出し、一呼吸置いてから、私に笑いかけた。
「俺と一緒に来てくれないか。」
初めて見た小野さんの笑顔は、凛とした相貌の醸し出す落ち着いた雰囲気を、年相応に見せていた。ふわっ、と心の奥のほうに柔らかな灯がともった気がした。顔がほんのり熱を持ち、ないはずの心臓が、早鐘を打つ。
「うん。」
気が付けば頷いていた。でも、どうしてだか後悔はしていなかった。私に光をくれた人。私を救ってくれた人。きっと、この人についていけば、私は大丈夫。
私の平穏はあの日から、なくなってしまった。見飽きた大学の門も、いつも通り無駄に大きい大学の学舎も、私の日常から消えてしまった。平穏とは程遠い激務に追われる日々を送っている。それでも、嫌だとは思わない。
小野さんがいる、その隣にいられるなら、それ以上の幸せはきっとないのだから。
小野家二十六代目当主小野篁は、初代当主をも凌ぐ力を持っていた。死後も、閻魔大王に惜しまれ、官職を賜った彼の傍らには、一人の女性霊がいた。生前の篁を支え、死後もまた、そばに寄り添った。彼女は、彼の唯一にして無二の部下であり妻であった。その名を、夏羽という。
亜霊・・・霊のようで霊ではない存在。精霊に近いものだと思ってください。
小野篁さんは、平安時代の篁さんの子孫で、閻魔様率いる閻魔庁で働いています(という設定です)。閻魔帳を記す仕事は、相当ハードだと思います。初代と小野家当主、その伴侶は死後閻魔庁で働いているそうです。
説明したかった設定を書いてみました。最後まで読んでくれてありがとうございます。