後編・海岸
白々しいまでに静かな海だった。
沖合のはるか向こうを白昼の幻影のように船がゆく。
朝焼けを反射する波打ち際に立つ男女は、靴の爪先を濡らさずにすむ程よい距離を見定めてからは、もう数分も無言のままだった。
「──花寅」
船を見送ってから男のほうが切り出した。
「なぜイトさんまで殺した?」
「あんまり必死になって止めるからだよ。霧島家から殺人犯を出したくないとか家名を汚してはいけないとか義父さんみたいなこと言うからさ」
女は気まずそうに視線をひしめき合う波頭に戻した。
「最初からそのつもりで殺したのは泥棒猫の一家だけだぜ。お巡りたちだって無闇やたらと撃ってこなけりゃ軽い怪我で済ませたんだ」
「やっぱり僕が悪い。おまえをそんなふうにしてしまったのは僕の罪だ」
ゆっくり息を吐いて霧島山治は花寅を見据えた。
「ここから二キロ歩いた先に船を借りている」
「海に出たいのかい?」
「もう日本におまえの居場所はないことぐらいわかるだろう」
「一緒に逃げてくれるんだ」
男の肩におでこを当てた瞬間、女が突き飛ばされたように倒れた。
山治がはっと銃声のした方向を見ると、写真を懐かしむ様子から彼がS海岸にいると予想した根室刑事が一目散に砂浜を駆けてくる。
「霧島さん離れて!」
「待ってください根室さん」
「もう射殺以外ないんですよ!」
「そうじゃない。彼女の檻を開けたのは僕だ!」
「何だって?」
山治が陰になった一瞬の隙を突いて花寅が飛びかかってきた。しなやかな虎豹の速攻に拳銃を叩き落とされる。
根室が殺されずに済んだのは予め被弾させたおかげと言っていい。
有段者に劣らぬ格闘能力を有する根室だったが、相手は少女の体を借りた牝虎だ。人間技でねじ伏せ切るには至難を極める可憐な野獣なのだ。
砂上を転がりあった果てに女のほうが上を取った。
「ああ痛い! これだから銃は嫌いなんだよ」
馬乗りになった花寅に喉を締め付けられて根室はもがいた。
うめき声すら出せない。脳の血管が破裂しそうだ。
霧島青年の安否を心配するあまり先走ったのは間違いだった。応援を頼んだ怪異狩りに熟練した友人の到着を待つべきだった。
意識が途切れかけた刹那、彼を締め上げる力が緩んだ。
女が立ち上がって重さが消えたので、根室も身を起こして霧島花寅の身に突如生じた異変のわけを知ることができた。
山治が銃口を向けている。根室の手から落ちた拳銃を拾い上げ、花寅を後ろから撃ったのは彼女が牙を剥きつつも想い続けた男であった。
「さ……山治……」
撃たれた背中に滲む血が広がっていく。
「ごめんよ花寅」
山治は正面を向いた義妹に続けて二発発砲した。
正確に心臓へ達し、花寅の胸を真紅のコサージュが飾る。
「僕もすぐ後から行く」
四発めが眉間を撃ち抜くと女怪は仰向けに倒れた。
「さん……じ……」
すべてを受け入れるかのように両手を広げて花寅は事切れた。
「霧島さん、いけませんよ」
ぜいぜい荒い呼吸をしながら根室が声をかける。
予想がついた。婚約者と親族を屠った女を自ら処断した今、この薄幸の青年が最後に取るべき行動はただ一つ。
「すみません根室さん。何もかも無駄にする結果にしてしまって。でも、やっぱり僕は花寅を愛している。たとえ悪魔の申し子であろうともだ」
「わかる……でもいけない!」
「最後にもう少し説明しておきましょう。僕は舞子さんの家へ向かうことを花寅に告げた際に部屋の鍵を小窓から入れました。後はなるようになれと思って……すべてをぶち壊してしまいたい衝動を花寅に代行させた卑怯者です僕は」
「勝手にしろ馬鹿ども」
最初から呪われた一家だった。もはや男の決意を覆すのは不可能と判断するや、根室刑事は遠慮なく冷たい台詞を吐いた。
「ありがとう。僕の個人資産は今回の事件で被害にあった方々の賠償に当ててください。そう顧問弁護士にも手紙を送っておきました」
もう思い残すことはなしと青年は銃口を喉に当てて撃った。花寅に覆いかぶさるように倒れ、唇を重ね合わせる。
根室は茫然と砂浜に横たわる美しい骸を見つめた。
この愚かな男女にかける言葉はない。ただ彼らが人獣の相克で苦しみ続けてきたことだけを憐み、静かに冥福を祈った。
遠くに海猫の声を聞きながら。
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