0. 三月の時雨
………………雨。
激しい足音をかき消すように、春の雨が降る。緞帳、とまではいかなくとも、カーテンのようにしつこく重く。
髪にかかり首筋を流れ落ちる冷たい水が、走る体の体温を奪う。
感情は先に冷え切って、だんだん、自分が機械になっていくような感覚。
ジャブ、バシャ、ブシャ……
一人の男が、十数メートル前を、アスファルトの水溜まりをはね飛ばし、逃げている。
そして自分の二本の足は、まるで独立した意思を持っているかのような執拗さで、彼をずっと追い続けていた。
男は、懸命に逃げ続ける。
ずぶ濡れのくしゃくしゃのスーツの背中がこんなにも小さいのは、重ねてきた罪の後ろめたさゆえだろうか?
彼が逃げる先にあるのは、宅地開発中の工事現場と、その先にわずかに残った雑木林。
(逃げたいなら……
もっと、ひとけのあるほうに逃げればいいのに)
本当に身の安全を確保したいなら、それが鉄則だろう?
そうしないのは、逃げていることさえ、ほかの誰にも知られたくないのか。
あるいは、
(妻にだけは、家族にだけは……)
罪深い秘密を隠しとおしたい、と願っている無意識がさせているのかもしれない。
もちろん。
知られずに済むなんて、そんなことはあり得ないのだけれど。
………ジャブ、、、バシャッ………
男は、足元をもつれさせて転んだ。
膝か、どこか打ったのか、痛そうな声をあげてへたり込む。
だが……それでも、追いついてきたこちらを見あげ、恐怖に顔を歪ませた。
自分の二倍は生きているはずの歳の男が、ぶるぶると、全身を震わせて動けずにいる。
(ふうん――――――――)
“こちら”が、そんなに怖い?
あなたたちが、今の今まであなどり踏みにじってきた“こちら”が、そんなにも?
それはまた、ひどくこっけいな話だ。
ずぶ濡れの男が、くちをぱくぱくさせて何か言っている。
腰が抜けて立てないのか、水溜まりにどっぽり尻をつけたままで。
彼は口を動かし続ける。けれどもはや聞こえない。
聞こえない言葉は、ないも同じ。
では、そんな加害者たちが好んでふりかざす、この言葉を投げてあげようか。
「……自己責任。ですよね?」
そうだ。後悔すればいい。
◇◇◇




