少しだけ本気出します
世界中の人間を救うなんてことできるわけがないということはわかっていた。
でも自分の視界に映る人、手の届く場所にいる人は救いたい。
私にできることならなんでもする。
もうあの時みたいな思いはしたくない。
手が届く範囲を少しでも増やすため、目の前の人間を救うため、私は誰よりも貪欲に『速さ』を求めた。
時間はヤヨイが教室を飛び出す少し前まで遡る
―タチバナ サツキ―
「ちょ、ちょっと待ってください!」
先生の言葉には耳を貸さず、お母さんは教室を飛び出してしまった。
何が起きたのか確認するために席を立ち、窓の外を覗いてみた。
人が倒れている。
そして体の一部が赤くなってる。
あれは・・・血・・・?
もう一つ校庭に人影が見える。
こちらは右手が真っ赤に染まっている。
小学生のわたしでも分かった。
あの人がやったんだ。
困っている人を放っておけないお母さんのことだ。
きっと倒れている人を助けに・・・。
わたしも急いで教室を飛び出した。
誰かの止める声が聞こえてきた気がしたけどそれどころではなかった。
お母さんを止めないと。
ドジでおっちょこちょいで頼りないお母さんが助けに行ったところで何かできることがあるとは思えない。
あの男の人にお母さんもやられてしまうだけだ。
それだけは絶対に嫌だった。
ここは小学校で他にも大人はたくさんいるのだからその人たちに任せておけばいい。
わたしは階段の前まで走ってきていた。
階段の昇り降りには少し自信があった。
手すりに掴まりながら二段飛ばしで降りていく。
しかし、いくら降りてもお母さんの後ろ姿を確認できない。
それどころかさっきまで聞こえていた足音らしきものも聞こえなくなっていた。
いや、あれを足音と言っていいのか。
わたしが降りるときの音は「ターンターンターン」といった感じなのにもう一つの足音は「どーん!・・・・どーん!」という感じでとても階段を降りている音とは思えなかった。
結局1階に降りてもお母さんには追い付けなかった。
まさか別の階段から降りた?
いや、さすがのお母さんでも数分前に上ってきた階段を間違えるはずがない。
だとしたらなぜ追いつけなかったのだろう。
お母さんのことだ、あれほど急いでいたら足首をくじいてその辺で悶絶していてもおかしくなかったはずなのに。
わたしは靴を履き替えて急いで校庭に出た。
「お母さん!」
そこでわたしは外の状況を全く確認せずに飛び出し叫んでしまった。
「サツキ!?なんで降りてきたの!!」
お母さんははるか遠くにいた。
わたしの傍にいたのは不気味な笑みを浮かべた男の人だった。
「あ・・・あぁ・・・い、いや・・・」
わたしはその場でしりもちをついてしまった。
恐怖で腰が抜けてその場から全く動けなくなった。
こちらに近づいてくる男の人を見上げることしかできなくなった。
とっさにお母さんに助けを求めるように校門の方を見た。
「た・・・たすけ・・・」
するとお母さんはなにか呟いた後に
「触れるなああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
12年間お母さんと一緒に過ごしてきたわたしでも聞いたことがない声だった。
いつものどこか人の顔色をうかがうような、それでいて落ち着く声とは正反対の攻撃的な怒声だった。
お母さんの足元に砂煙が見えた。
次の瞬間、男の人の背中をお母さんの右ひざがとらえていた。
さっきまですごく遠くにいたお母さんがなんでいきなり目の前に・・・。
自分が蹴られたことにすら気づいていないのか、不気味な笑みを浮かべたままものすごいスピードで後ろに飛んで行き、木製の下駄箱を粉砕し、そのまま下駄箱だったものに埋もれて見えなくなった。
それよりも目を引いたのはお母さんだった。
いつもより少し細目で静かに下駄箱の方を見据えているお母さんはいままで見てきた何よりも美しく見えた。
わたしはその横顔から目が離せないでいた。
その時思った。
わたしもこの人のようになりたい。
いつもの人の顔色を窺ったり、自信なさげに上目遣いでこちらを見てきたり、近所のおばさんに振りまいているなんちゃって八方美人とは違う、今わたしが見ているこの光景がお母さんの本当の姿なんだ。
あれから1分は経っただろうか。
もしくは1秒も経っていないかもしれない。
時間を忘れるほどの衝撃をうけたわたしのもとにお母さんが駆け寄ってきた。
「サツキ!」
お母さんはわたしを一度抱きしめ、体中をペタペタ触ってきた。
「どこか痛いところは・・・あの人になにかされなかった!?あぁこんな・・・かわいそうに・・・」
指で目元をぬぐってくれた。
いつの間にかわたしは泣いてしまっていたらしい。
「ん・・・大丈夫」
しりもちをついたときに少しお尻を打ったくらいだった。
それよりも・・・。
「ねえお母さん」
「どうしたの!?やっぱりどこか・・・」
「そうじゃなくて、あっち・・・」
わたしは指をさした。
男の人が吹っ飛んで行った先。
下駄箱・・・いや、さっきまで下駄箱だったものを。
お母さんの顔はみるみるうちに青ざめていった。
下駄箱が全く原型をとどめていないのも問題だったけど、破片が飛び散って窓ガラスは割れて、生徒の靴はあちこちに飛び散ってしまっていた。
とても人が一人ぶつかって起きた惨状とは思えない。
「どっどどどどどどどうしよう!」
両手で頭を抱えて右往左往している。
本当にさっきわたしが憧れたあの凛々しいお母さんと同一人物なのか。
程なくして体育のコバヤシ先生がこちらに走ってくるのが見えた。
「あ、先生だ」
「先生!?」
「体育の」
「体育!?」
動揺しすぎてどうでもいいところで驚いてしまっている。
「お怪我はありませんか!?」
「すみませんでした!」
すばらしい90度のお辞儀だったけど肝心の会話が全くかみ合っていない。
助け舟を出すことにしよう。
「ねえお母さん」
「どうしたの?」
わたしの言葉に対してはきちんと反応してくれる。
「先生の話、ちゃんと聞いてあげて」
「わかった」
あっけにとられていた先生だったけど、会話が通じるようになったと察したのかもう一度「お怪我はありませんか?」と問いかけてきた。
お母さんはわたしの方を見て小首をかしげている。
わたしが考えるに「あれ、怒られないの?」という意味だと思う。
とりあえずうなずいて見せた。
「生徒さんにお怪我がないようで何よりです。あちらのかたはすぐに止血してあげれば問題はありません。あとは警察と救急車を呼んでおいてください。私は警備団本部に・・・」
いきなり取り繕い始めた。
お母さんの印象的な意味ではもう手遅れな気がするけど。
お母さんは次に肩から血を流して倒れている男の人の方へ向かった。
よく聞くとなにやらぶつぶつ呟いている。
「縛るものは・・・あれでいいか・・・ハンカチか何かあったっけ・・・んー・・・あぁあったあった・・・」
わたしはお母さんの後を金魚のフンのようについて回った。
今は一秒でも長くお母さんと一緒にいたい。
止血の手際は見事なものだった。
男の人の長袖の部分を破り、自分が持っていたハンカチを出血部分に当て、破いた布で縛り付けていた。
「ん、これでよし」
次にお母さんは下駄箱の方へと歩いて行った。
もちろんわたしもついていく。
下駄箱に着くと手近にあったホウキを手にし、ガラガラと何かをあさっていた。
「ちょっとサツキ、そこどいて」
真後ろからお母さんの様子をのぞき込んでいたわたしはその言葉を聞くなり少しばかり横にずれた。
「ほいよっと・・・」
下駄箱から発掘した不審者の首根っこをつかんだと思ったら片手で外に投げ飛ばしていた。
お母さんそんなに力強かったっけ・・・?
投げ飛ばした不審者の背中に膝を押し付ける形で上に乗っかったお母さんは手錠を取り出し両手首に装着した。
・・・。
手錠!?
なんでお母さん手錠なんか持ってるの!?
「ふー・・・これでとりあえず安心・・・あっ」
「なに!?どうかしたの!?」
何かに気づいたように声を上げたお母さんにわたしは声をかけた。
「これ右手と左足とかにつけた方がよかったんじゃないかな」
何言ってるのこの人!?
「だってこれだったら足が自由だからまたなにしでかすかわからないじゃない?んー・・・でも私手錠一個しか持ってないしなぁ・・・」
だからなんで手錠持ってるの!?
「仕方ない、一回外してそれから・・・」
そんなやり取りをしているうちに校長先生が出てきた。
わたしはお母さんの袖をクイッと引っ張り。
「校長先生がこっちに来てるよ」
「校長先生?」
こちらを見て首をかしげている。
ちょっとアホっぽい顔になってるよお母さん。
「学校で一番偉い人だよ」
「偉い人」
何かに気づいたように再び顔が青ざめていった。
「今度こそ怒ら・・・!」
「れないと思うから安心して」
絶対そう来るだろうと思って言葉を用意しておいた。
お母さんは校長先生に声を掛けられる前に謝っていた。
「すみません。下駄箱が・・・」
「良いのですよ、お怪我がないようでなによりです」
優しい校長先生はそう言ってくれた。
最後に困ったような顔をして「生徒の靴を探すのが大変そうですが」という言葉を添えていたけど。
こうしてお母さんが不審者をボコボコにして今回の事件は幕を閉じた。
お母さんへの認識を改める一日となった。
それにしても・・・あの不審者はいったい何者だったのだろうか。