イツキ ヤヨイ1
―タチバナ ヤヨイ―
私の旧姓は「イツキ」
私にとってあまりにも馴染みのない昔の名字。
これはそんなイツキ家で起こった出来事。
私には幼いころの記憶がほとんどない。
これは決して事故にあって記憶を失ったとかそういうことではなく、単純に覚えていないだけ。
何も思い出せないほど平穏な日々を送っていたということかな。
起きてご飯を食べて眠たくなったら寝る。
何か目的を持っているわけでもなく、生きるために生活する。
人によっては理想的な毎日を送れていたのかもしれない。
でもそんな平穏な日々もある日を境に崩れ落ち、私の記憶に決して癒えることのない傷として残り続けることになる。
私の実家はそこそこ大きく、和室の部屋がいくつかある平屋になっている。
なんで「いくつか」なのかというと、覚えてないから。
確か2部屋や3部屋ではなく10近くはあった気がする。
離れに小さめの倉庫があって更にそれとは別にもう一つ建物があり、それもうちの物らしいので敷地はかなりの広さなのだけど、かといって裕福というわけでもないらしい。
その理由として、見渡す限り辺り一面山、山、山。
スーパーやコンビニなんてあるはずもなく、それどころか近所には私の実家以外の建物なんて何一つなかった。
もちろん交通機関も皆無なもんだから現代の便利な生活を送っている人間はこんなところに住みたいと思う人はほとんどいないと思う。
もしかしたら空き家だったのをいいことに移り住んできたのではないか、そう思うレベルで不便さ極まりなく人気のない土地だった。
そんな不便なはずの生活に何の不満も抱かずにいられたのは生まれてからずっとそこで生きていたからだと思う。
大自然に囲まれた家に住んでいるイツキ ヤヨイ(6)は、これから起きる出来事なんて知る由もなく、縁側で座ってのんきに日向ぼっこをしていた。
「ふぁ~・・・んぅ・・・」
その日はすごくいい天気だった。
雲がほとんどなくてお日様は出てるし、ほどよく涼しい風も吹いている。
さっき起きたばかりだけどまたここで寝ちゃおうか、そんなことを考えていた。
「ん・・・?」
誰かが近づいて来ているのか、足音が聞こえてきた。
この家には私以外にも人が住んでいることは知っていたので足音が聞こえるのは別に不思議なことではないのだけど。
その音の主は私よりも少しだけ背が高い同年代の男の子だった。
「うわっ・・・ととと・・・」
傍まで来るといきなり腕を掴まれ歩き出していた。
いったいどこに行くんだろう。
どこかへ遊びに連れて行ってくれるのだろうか、少しだけわくわくしていた私は何の抵抗をすることもなくついて行った。
「あれ?ここって・・・」
連れ込まれた場所はさっきまで居た母屋とは別の建物で、外観は古風な道場を思わせる風貌をしており、中に入ると床には所々に染みがある畳が敷き詰められていた。
ただ、道場と言っても掛け軸や賞状と言ったものは一切なく、あるのは乱暴に畳まれた布団がいくつか隅に置いてあるだけだった。
そして、私と同年代か少し年上と思われる子供が10人近く。
その誰もがこちらを黙って見つめていた。
「あ・・・あの・・・」
ただならぬ気配を感じた私は、今もなお腕を掴んでいる男の子の顔を見た。
その瞬間私は
「え・・・あ・・・」
後悔した。
ただ何も考えずについてきてしまったこともそうだけど、何よりこの人と目を合わせてしまったことが間違いだった。
他人とほとんど交流したことがない私でも分かる。
これは今から遊びに誘う相手に向けるものでも、友好的なものでもない。
その人の目から感じられるものは間違いなく敵意だった。
それに気づいた瞬間、腕を掴んでいる力が徐々に強くなっていくのを感じた。
逃げなきゃ。
そう思い腕を引いてみたけど力が緩む気配は全くなかった。
それどころか
「うわぁっ・・・!?」
逆に腕を引っ張られ、黙ってこちらを見ていた子供たちの方へ引きずられるようにして強引に移動させられた。
気づけば子供たちは私の周囲を取り囲むようにして立っている。
ここからは逃がさないぞと言わんばかりに。
どうしよう。
身に覚えのない敵意を向けられ、逃げ道も封じられた私はパニックに陥っていた。
実はちょっと驚かせたかっただけですぐに笑顔になってくれるのではないか、そんなありもしない理想を抱いた。
これは実は夢で、起きたらいつもと変わらない朝を迎えてまた縁側で日向ぼっこをする日々を過ごせるのではないかなんて幻想を夢見たりもした。
でもそんな現実逃避をしていた私を待っていたのは
「痛い・・!」
理不尽な暴力だった。
いきなり体を突き飛ばされ、向かいにいた子供にまた突き飛ばされ。
頭を叩かれ足を蹴られ。
「やめて!お願いやめて!」
そんなお願いが通るわけもなく私に対する暴力は続いた。
「なんでこんなことするの!?」
訊いたところで答えてくれるなんて微塵も思ってなかったけどそうしなければ気が済まなかった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
私は何に対して謝っているんだろう。
少なくともこの子たちに危害を加えた覚えなんて私にはないのに。
少しでも痛みに耐えられるように、恐怖から逃れられるように体を丸めて頭を両手で守った。
まるで小さな虫のように。
でも私は知っている。
いくら体を守ろうとしても、虫なんて人間がその気になれば簡単に踏みつぶせるっていうことを。
それでもその時の私は縮こまっていつ終わるか、いやそもそも終わるかどうかわからない暴力に耐え続けるしかなかった。
「うぅ・・・」
いつの間にかいじめっ子はいなくなっていた。
気づけば窓からは夕日が差し込んでおり、虫の鳴き声がよく聞こえてくる。
どれほどの時間縮こまっていたかなんて考えたくなかった。
「痛い・・・」
でも体中に走るこの痛みが嫌でも思い出させる。
あの子供たちが私に向けている顔を。
すでに辺りにはだれもいない。
薄暗くなっている室内に独りぼっちで居るということもあって急激な不安感に襲われた私は今もなお痛む体に鞭を打って道場を飛び出した。
またあの人たちが戻ってくるかもしれない。
その前に助けを求めないと。
私は急いで母屋に戻ってある人物を探した。
私には母親がいない。
物心ついた頃にはすでにいなかったから私にとってはそれが当たり前だった。
だから探していた人物は・・・
「父さん!」
この人だった。
兄弟もいないから私にとっての肉親はこの人しか知らない。
「うっ・・・ぐす・・・。ねえ父さん聞いて!」
椅子に座っているその人に駆け寄った。
正直その人の特徴は髪が黒いこと、椅子に座っていることくらいしか思い出せない。
それほど記憶に留めておくに値しない人間だと思った。
「ねえ・・・ねえ・・・!」
服を滅茶苦茶に引っ張られてところどころ破れていて、体のあちこちにはすでにアザができてしまっている娘が泣きながら助けを求めていたら何かしらの反応があってもいいと思う。
かわいそうにと哀れんだり、救いの手を差し伸べたり、自分で何とかしろと突き放したり。
それでもその男は
「なんで何も言ってくれないの・・・?」
体を揺さぶっても軽く叩いてみても、何をしても全くの無反応だった。
まるで私なんて文字通り眼中にないかのように。
きっとこの人にとっては道端に生えている雑草の方がよほど存在感を放っているとでも思われているんだ。
「うあああああああああああああああああああああああああああああん!」
幼いながらもそのことに気づかされた私は日が沈み、辺りが暗くなるまでその場で泣き叫んだ。
もちろんその間もその男は何の反応も示さなかった。
何となくわかっていたことだけど私に対する暴力はその日だけでは終わらず、日に日にエスカレートしていった。
最初は叩かれたり蹴られたりするだけだったのに、髪を引っ張られ壁や床に顔を押し付けられ踏みつけられ時には角材で殴られ血を流すこともった。
それでも諦めずに何度もあの男へ助けを求めた。
いや、もしかしたらすでに諦めていたのかもしれない。
それでも「今日こそは」という気持ちが心のどこかにあって何度も泣きついた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
結果から言うと無駄だった。
その人の前で流した涙も泣き叫んだ声も何もかも無駄だった。
もうここには二度と来ない。
その日から私は血のつながった人間なんてこの世に誰一人としていないと思うようにした。
この人が私のことを存在しない人間だと思っているのなら私だってこの人のことをもう父親だなんて思わない。
結局その人が私に対してリアクションを取ったところを見たことがないので、一度も声すら聞いたことがなかった。
それは大人になった今でも変わらない。
私は今後もう来ることがないであろう部屋を後にしてまた縁側まで来ていた。
もうすでに日は傾いており、今までの経験上、この時間帯になるともうあの人たちは私の前に現れない。
だから堂々と家の中を歩くことができた。
そしてある人物を待ち続けた。
「ヤヨイ」
私のたった一つの心の拠り所。
今まで生きてきた中で唯一まともに言葉を交わしたことがある人。
血はつながっていないけど私にとって母であり、姉でもある存在。
「姉さん!」
一緒に家に住んでいる私より6つ年上の女性で、実年齢よりずっと大人びて見えるその人はこちらに向かってゆっくりと歩いてきていた。
こっちに来るまで待ちきれなかった私は走り出して迷わず姉さんに抱き着いた。
「えへへ~。おかえりなさい!」
「ただいま」
そう言いながら頭を優しく撫でてくれた。
もしかしたらの話にはなるのだけど・・・
この人の存在がなかったら私はすでにこの世にいなかったのかもしれない。
「またお買い物?」
「うん、そうだね」
こうやっていつも取り留めのない会話を楽しんだ。
姉さんにはあの人たちのことは話さなかった。
話したくなかった。
もし話したら姉さんもあの男のようになるんじゃないか。
そんなことあるはずないとわかってはいたけど、姉さんまで私の前からいなくなったらと思うと怖くてたまらなかった。
殴られたり無視されたりするよりも。
「あれ?姉さんどうしたの?」
気づけば姉さんは私の体をじっと見ていた。
「な、何でもないよ」
すぐに視線を私の顔に戻していた。
腕や足にできたアザを見ていたようにも思える。
心配してくれてるのかな。
そう思うだけでも嬉しくなった。
「ご飯に・・・しよっか。久しぶりにお肉を買ってきたから焼いて食べようね」
「わーい!いつぶりだろ!」
「えっと・・・13日ぶりだね」
「姉さんよくそこまで覚えてるね・・・」
それから一緒に台所へ行って料理をした。
・・・姉さんが。
料理と言っても肉を焼いて塩コショウで味付けをしただけで、他に食卓に乗っているものと言ったら茶碗に入ったご飯だけ。
それでも当時の私にとってはこの上ないごちそうに見えた。
「うわぁおいしそう!いただきま・・・!」
食べようとしたら姉さんが脇にある箱からゴソゴソと何かを出そうとしていた。
「何か」といっても私にはそれが何かわかっていた。
「えっと・・・また撮るの・・・?」
取り出したのはビデオカメラ。
姉さんは何かにつけて私を撮ろうとする。
「うん、ヤヨイがおいしそうにご飯を食べてるところはちゃんと撮らないと。そのためにお肉を・・・」
「え、そのために買ってきたの!?」
「あ・・・いやそんなことは~・・・」
ちょっと汗を掻いてしまっているし視線を逸らしてるし完全に隠しきれていなかった。
「あはは。姉さん変なの~」
姉さんとお話しているだけですごく楽しい。
この時間がずっと続けばいいのに。
でもそんな思いをあざ笑うかのように日常的な暴力は続いた。
気づいたことがあるのだけど、あの子たちが私の前に来るときは決まって姉さんがいないとき。
少し遠出をして買い物に行っているそうで、朝に出て行っても帰ってくるのは日が沈む前。
できたら私も連れて行ってほしかった。
でもこんなにも私のことを思ってくれている姉さんが一緒に行こうと言ってこないということはきっとまぁ・・・そういうことなんだろう。
あまり無理を言って迷惑をかけても悪い。
そう思うようにしていても頭の片隅にはあの男の顔がちらついていた。
姉さんに愛想を尽かれてしまうんじゃないか、ただそれだけが怖かった。
私はいつの間にか自分が思っている以上に人間に対して臆病になっていた。
そんな臆病な私が自分なりに考えたことがある。
「ここなら・・・きっと大丈夫・・・」
あの子たちに一度捕まったら逃げられない。
だったら捕まらなければいい。
私がいつも寝ている部屋の押し入れから屋根裏に行ける。
ここの押し入れの上の天井は持ち上げるだけで簡単に動かせるのでそこから侵入できる。
私だけが知っている秘密の場所。
音さえ立てなければここなら絶対に見つからない。
窓なんてないので完全に真っ暗なのだけど、あの子たちに捕まらないためならこれくらい我慢できる。
姉さんが帰ってくるまでの辛抱。
そのはずだった。
ガタン
音と共に例の男の子が・・・あの目をした男の子が姿を現した。
「い、いやああああああああああああああああああああああああ!!!」
ただでさえ真っ暗で不安を駆られていた状況だった上、今一番会いたくない人物を目の前にした私は思わず叫んでしまっていた。
今思えば暗闇を過剰に恐れるようになったのはこれが原因かもしれない。
「んぐ・・・あぁ・・・!!」
腕を引っ張られ屋根裏から引きずり降ろされ、押し入れから叩き落された。
それからはいつも通り。
道場まで連れていかれて殴られたり蹴られたり。
相手は私よりも圧倒的に力が強いので抵抗するだけ無駄だった。
隠れたのが気に障ったのかその日はいつもよりも一層ひどかった。
そのせいか私は途中で気を失ってしまったようだ。
でも気絶できた日はラッキーだった。
暴力を振るわれている時の痛みはないし、時間が過ぎるのが早い。
その分目が覚めたときには激痛が走るのだけど。
でもそんなことがきにならないくらい嬉しいのが
「・・・う・・・ん・・・?・・・あ・・・姉さんおかえり・・・!」
目を開けたときに姉さんがいてくれることだった。
「ただいま・・・」
私の頭は姉さんの膝の上に乗っかっていて、いつものように頭を撫でてくれた。
すごく気持ちいい。
「えへへ~」
起き上がった私は姉さんに抱き着いた。
こうしている時間が一番幸せだった。
今だけはあの嫌なことを忘れられる。
「姉さんのお腹プニプニで気持ちいい~。ふかふかだ~」
ピクリ
私の頭を撫でていた姉さんの手が止まった。
まだ続けてほしかったのにどうしたんだろう。
「プニプニ・・・?今ふかふかって言ったの・・・?」
「え・・・?うん、すごく気持ちいいよ!」
抱き着いているだけで癒されるなんてこの上ない誉め言葉のつもりだった。
少なくとも私にとっては。
「そんなことを言うのはこの口か」
「いひゃひゃ!いひゃいねえひゃん!」
頭を撫でていたはずの姉さんの手は私の両頬を握ってつねっていた。
「やめひぇねえひゃん!」
「人が気にしてること言っちゃいけません」
「ひぇ!?ご、ごめんなひゃい!」
笑顔なのが逆に怖い。
傍から見ると全く太っている感じはしないのだけどどうやら姉さんは体重を気にしているらしい。
当時の私はなんのことか理解できていなかったのでそれからも何度か地雷を踏んでしまっていたのだった。
でもその時の私にとってはそんなやり取りすら幸せに思えた。
初めて道場に連れていかれた日から半年が過ぎた。
あの日から状況はほとんど変わっておらず、変わったことと言えば体にできたアザの数ともう一つ。
「ん・・・?」
視界の隅に映る違和感に気づいた。
何だろうこの白いの。
普段は全く鏡なんて見ないのだけどその日はどうしても気になったので手鏡を探して自分の姿を映してみた。
「あはは。なにこれ変なの~」
私の髪色は黒。
そのはずが日頃受けているストレスのせいか首から上の髪は色を失ってしまっていた。
「んー・・・。いいや切っちゃえ」
途中から色が変わっているのも変だと思って腰の辺りまで伸びている黒髪の部分を乱暴に握ってハサミで切った。
背中は手鏡だけじゃうまく見えなかったのでなんとなく適当に。
どうせ気にする人なんていないのだから。
「ただい・・・」
姉さんの声だ。
でも何かに驚いた様子で最後まで「ただいま」を言い切ることはなかった。
「姉さんおかえり!」
私はいつものように抱き着いたのだけど姉さんの様子はいつもと違った。
「ヤヨイあなた・・・その髪・・・」
あぁなんだそんなことか。
「これ?これなんか変だったから切ったの!」
「そ、そう・・・」
なんで姉さんがそんな悲しそうな顔をするんだろう。
私は全然気にしていないのに。
「こっちにおいで。整えてあげるから」
「ん?うんわかった」
姉さんが何かやってくれるんだったら私はそれに従おう。
「ふふふ」
「ヤヨイ?どうしたの?」
どうやら首の後ろ辺りが雑すぎたらしく、今はそこを整えてもらっているみたいだった。
「なんでもなーい」
姉さんがすぐ後ろにいてくれているだけで安心できた。
正直一生こうしていたい。
・・・ん?・・・一生?
「あっそうだ!」
「ん?」
「私将来姉さんのお嫁さんになる!」
「え・・・?」
我ながら名案だと思った。
これだったらいつまでも一緒にいられる。
「じゃ、じゃあ・・・私が旦那さんかしらね」
「うーん・・・姉さんは嫌・・・?」
姉さんの声は震えていた。
やっぱり私と一緒なんて嫌なんだろうか。
今まで優しくしてくれていたのも何か理由があってのことかもしれない。
「そんなことない・・・!そんなことないよ・・・!」
「え・・・?姉さんどうしたの・・・?」
今度は姉さんが背中から私に抱き着いていた。
顔を見なくてもわかる。
泣いている。
それがなぜなのか私にはわからなかった。
「姉さん・・・?もしかして姉さんもひどいことされているの・・・?」
「違う・・・違うよ。そうだね・・・ずっと一緒・・・」
「ね、姉さん泣かないで・・・。どうして泣いてるの・・・?」
「えっと・・・ずっとあなたと一緒にいられると思うと嬉しくて・・・」
なんだそういうことか。
実は嫌われていたなんてことじゃなくてよかった。
「じゃあ約束ね!」
私と姉さんは指切りをした。
よし、この約束を糧にこれからも生きていこう。
生きる意味をもらった私は少しだけ元気になったのだけど・・・。
とある事件が起きたのはそれから更に半年の月日が経ったときのことだった。




