アオイの非日常
―アイザワ アオイ―
「行ってきまーす・・・っと」
誰もいないアパートの部屋に行ってきますの挨拶をして玄関の扉に鍵を掛けた。
ボクが学校に行くために家を出る時間にはお母さんはすでに家にいない。
朝から晩まで働き詰めで顔を合わせること自体が稀だった。
「アオイちゃんおはよう」
家を出るなり近所のおばあちゃんにゆったりとした口調で声を掛けられた。
「おはようチヨさん!」
「またアオイちゃんが好きなの入ったからやるかい?」
「ホント!?やるやる!」
この「好きなの」とは内職のことで、ボクはチヨさんの手伝いをしてお小遣いをもらっている。
厚紙の折り目の部分を折って10枚まとめて輪ゴムで止めて10円。
指一本分くらいのサイズの造花をビニール袋に入れて入り口を装飾された針金で止めて3円。
お母さんからお小遣いをもらっていないボクの唯一の収入源だった。
こうやってもらったお金で中古のゲームを買ったりしている。
勘違いしないでほしいのが、別にお母さんのことをケチだとか嫌いだとか思っているわけではない。
学校に行くお金やケータイ代も出してもらっているし、食費だってもらっている。
中学校に入学してから昼食は弁当を用意するか学食に行くかを選ぶことになっていて、テーブルの上には500円と書置きの「昼食代」と書かれたメモが置いてあった。
―ありがとうお母さん。
「今日学校から帰ってきたらチヨさんの家に行くね」
「あぁ、待ってるよ」
明日から週末の休みに入るからサツキの家に段ボールごと持っていこうかな。
土曜と日曜は休みなので毎週サツキの家に泊まりに行っている。
本当に毎週。
本当の娘のように扱ってくれるヤヨイさんと、ボクの手を若干強引に引いて部屋に連れ込むサツキと一緒にいるのはすごく心地がいい。
今ではタチバナ家に「アオイちゃん専用歯ブラシ」があるほどだった。
「それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
今度は返事がある挨拶を交わして自転車をこぎ出した。
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「ふぅ・・・ついたついた」
校門をくぐり駐輪場に自転車を停めて校舎に向かって歩き出した。
二階にある教室へ向かうため階段を上り教室のドアを開けて中に入ろうとしたら
「うわぁっ!?」
なにかにつまずいてこけてしまった。
何につまずいたのか確認すると男の子がニヤニヤしながらこっちを見ていた。
と思っていたらそばにいた女の子にどつかれていた。
「いてっ!」
「こらっ何やってんの!ごめんねーこのバカが」
そう言いながら女の子はボクに手を差し伸べてくれていた。
「いくらアイザワさんがかわいいからってちょっかいだしたらだめでしょう!」
「ち、ちっげーし!」
思春期という奴だろうか。
それにしてもかわいいって・・・。
そういえばヤヨイさんには最近やられっぱなしだから今度はストレートな誉め言葉で攻めてみようかな。
「ボ・・・わ、わたしなら大丈夫だから・・・」
中学校では「わたし」になろう。
もう周りから変な目で見られたくないから。
本当の自分を出すのはタチバナ家とチヨさんの前だけで十分だ。
ボクは今まで意識してクラスメイトから距離を置いていた。
どこかに遊びに行こうと言われてもお金がかかる遊びになると付き合えない。
少し買い食いをしたり、ゲームセンターに行って遊んだりすると、「あぁ、このお菓子を買ったらあの時の内職33個分が消えるんだなー」とか「このゲームをプレイすると20個分だなー」とか考えてしまい、素直に楽しめない。
だから友達もいなかったボクはポータブル機のゲームを買ってずっと一人で遊んできた。
一つに掛かるお金はお菓子とは比較にならないほど大きいけど、買ってしまえば壊れるまではずっと使える。
かといってあれやこれやと手を出している余裕はなかったので、ゲーム好きとはいえ持っているものと言ったらハード1つとソフト2つだけ。
最初はハードとソフト一つ買うお金しかなかったのでメモリーカードを買わずにスリープモードでなんとかやりくりしていたのは今となってはいい思い出。
でもサツキと一緒にいるようになってから友達と過ごす心地よさを覚えた。
今だから言えることだけど、一年前のあの事件に巻き込まれてよかった。
そう思えるほど充実した毎日を送れている。
これからは学校でも休み時間に話ができる友達がいたら楽しいかもしれない、そんなことを考えながら席に着いた。
ボクの席はベランダ側の窓際の一番前。
小学生時代も含めて今まで出席番号1番以外になったことがなく、番号順に席が並んでいるともれなくここに座ることになっている。
カギを開けて窓を開け放すと心地よい風が入り込んできた。
この季節の風は特に好きだ。
サツキのランニングに付き合うとき、一緒に汗を流した後に飲み物を飲みながら受ける風は格別だった。
まぁボクは自分の足で走るんじゃなくて自転車に乗ってるんだけど。
学校が休みの日の早朝ランニングはもはや恒例となっている。
ふと黒板に目をやると、さっきボクの足を引っかけた子が黒板に落書きをしている。
入学したてで浮かれるのはわからなくもないけどね。
あまり度が過ぎて先生に怒られても知らないよ。
廊下側で談笑していた生徒が焦った様子で席に着いていた。
先生が来たのかな?
生徒が全員席に着いたタイミングで身長が高い男の先生がドアを開けて教室に入ってきた。
・・・あれ?
昨日入学式で挨拶していた担任の先生じゃない。
「今日は担任が休みなので代わりに私が来・・・」
黒板を見たとたん先生の表情が一変した。
「誰だ落書きしたのは!!!」
ガン!
・・・え?
入ってくるなり怒鳴りながら黒板を殴りつけていた。
どれほどの力で殴ったのだろう。
殴られた部分はへこみ、そこを中心に亀裂が走っていた。
「おまえか・・・?」
ボクとは真反対の位置、廊下側の一番後ろの席にいる生徒を見ながらそう言っていた。
あの生徒はボクの足を引っかけていた男の子、落書きをした張本人だった。
動揺しすぎて目をつけられたのだろうか。
先生はその生徒の方にゆっくりと歩きだしていた。
それにしても・・・この先生おかしい。
落書き程度でこんなに激怒することも確かにそうだけど一番おかしいのは目だった。
3メートルくらいは離れているここからでも目が真っ赤に充血しているのが分かる。
入ってきた瞬間は普通だったのに。
そしてこの黒板を殴っただけでへこませるほどの怪力。
この先生もしかして・・・
このタイミングでボクはヤヨイさんとメールアドレスを交換したときの会話を思い出していた。
「いい?またこの前みたいなおかしな人に遭遇したら自分だけでなんとかしようとしたらダメだよ。ちょっとでも身の危険を感じたら必ず私に連絡してね。絶対に助けに行くから」
「わ、わかりました」
「まぁでもあんなことそうそうないと思うけどね。私も初めてあんなのと遭遇したし」
この「おかしな人」とはボクが通っていた小学校に侵入しようとした不審者のことだった。
そしてその「そうそうない」ことが目の前で起きている。
「なんとか言ったらどうなんだ!」
「ご、ごめんなさい!」
胸ぐらをつかみながら怒鳴りつけていた。
今先生の意識は完全にあっちの生徒に向いている。
やるなら今だ。
ボクはカバンからケータイを取り出し電源を入れた。
黒板に落書きをしただけであんなに激怒しているのに、ケータイなんて扱っているのを見つかったら終わりだ。
先生を視界にいれつつ机の下に隠しながらケータイを操作したけどそれだとどうしても文字が見えない。
通話をするわけにはいかないのでメールを送ることになるのだけどアドレス帳を開いても文字が見えないんじゃ意味がない。
それでもどこにどのメニューが表示されているのかはだいたい覚えている。
そこでボクはアドレス帳でもなくメール新規作成でもなく送信ボックスを開いた。
受信ボックスにはケータイ会社からのメールが届いているけど送信ボックスはサツキとヤヨイさんへ送ったメールしか入っていない。
ここから編集してメールを送ろう。
編集から本文をタップして文字を入力していく。
編集元の文を消している余裕なんてないのでそのままで。
「はぁ・・・はぁ・・・」
運動しているわけでもないのに息切れを起こしていた。
見つかったら終わり。
緊張感のせいで吐き気さえ催してきた。
「た」
早く・・・
「す」
早く早く早く・・・!
「け」
早く早く早く早く早く・・・!
そこでボクは焦るあまり先生から目を離して机の下のケータイに視線を移してしまっていた。
「おい」
その声を聴いた瞬間血の気が引いた。
なぜなら声の主はボクのすぐ後ろにいたのだから。
・・・いつの間に・・・?
恐る恐る後ろを振り返ると先生の他にもう一つ目を引くものがあった。
ボクを指差している女子生徒が一人。
例のいたずらっ子を注意していた女の子だった。
ボクの視線に気づいたのか、慌てて指差している方の手を隠すように机の下に潜り込ませていた。
・・・あの男の子を守るためにボクを売ったのか。
でもボクは彼女を責めることなんてできない。
ボクだって男の子に意識が向いている隙をついてメールを送ろうとしていたのだから。
「授業中に携帯電話を触るとは覚悟はできているんだろうな?」
「こ、これはその・・・」
机の下に隠しながら左手でケータイを見ずにタップした。
送信
ケータイを持っている腕を掴まれ、もう一方の手でケータイを取り上げられた。
「ふざけやがって・・・」
そう言ってケータイを外に向かって投げられ、窓を割りそのまま貫通して校庭の方へ飛んで行ってしまった。
「うぁっ・・・!」
そしてボクは服を強引に引っ張られ席から引きずり出された後、教卓の方に投げられていた。
「す、すみませ・・・」
言い終わる前に今度は襟を掴まれて持ち上げられてしまった。
このままではしゃべることすらままならない。
「う・・・ぐ・・・・あ・・・」
「謝罪の言葉もないのか!」
そのまま今度は教室の後ろの壁に向かって投げ飛ばされた。
壁に激突し、背中を強く打ったためうまく呼吸ができない。
それでも先生は容赦なくボクの方へと近づいてくる。
命乞いでもなんでもしないとこれ以上なにかやられると本当に死んでしまう。
「ず・・・ずみません・・・もうしません・・・!」
立ち上がることもできないので、両手両足を使って後ずさりするしかなかった。
ひたすら謝り続けるしかなかった。
先生とボクの距離はもう3メートルくらいしかない。
・・・終わった。
半ば諦めかけていたけど無意識のうちに目を閉じて叫んでいた。
「サツキ!ヤヨイさん助けて!!!!!!」
その瞬間、教室の中がざわめきだした。
もう先生が目の前まで来ていてボクに手を掛けようとしているのかと思ったけど違った。
みんな窓の外にいる人影を見ている。
唯一開いている窓から中に侵入し、ボクが座っていた席の机を蹴って跳躍した後、滑り込むようにして先生とボクの間に入り込んでいた。
「わたしの親友に触れるな」
その人影の正体は、左手に短刀を持ち、ジャージを着た全身汗まみれのボクの親友だった。




