01.廊下
※ゆうちゃんの暴言が目に余りますが、差別を助長する意図はありません。
何故、その思考に至ったのか、どう変わってゆくのか。変化を読む話です。
これを真に受けて、ゆうちゃん思想に染まる人がいるとも思えませんが、念の為。
自室のドアを細く開け、隙間から身を滑らせて、廊下に出た。
冷たい木の床に足の裏から体温を奪われ、思わず身震いする。
部屋の灯を受けた吐息が、丑三つ時の闇に白く浮かび上がった。
足音を殺して爪先立ちで歩き、各段の障害物を慎重に回避しつつ、階段を降りた。
手探りで壁のスイッチに触れる。
目の前の光景に思わず声を出しそうになり、息を呑んだ。
……何もない。
廊下に、何ひとつ物がない。
壁、床、天井は磨きこまれ、蛍光灯の光をうっすら反射していた。
生物の気配すら、感じられない。
しゃがみ込んで床を指でなぞったが、埃ひとつ落ちていなかった。
……どうなってんだ?
しかし、まずは当初の目的を果たすべく、トイレに向かう。
廊下に障害物がないせいか、数秒で辿りついた。
先週、トイレに行った時は、廊下の壁際には戸棚とカラーボックスが隙間なく設置され、それらに入りきらない日用品や保存食が各棚の上にも置かれ、中身が詰まった段ボール箱が身長より高く積み上がり、キャットウォークのような通路には、脱ぎ捨てられた作業服や古新聞、古雑誌、空の段ボールが分厚く敷き詰められ、お裾分けの野菜や漬物が入ったままのビニール袋や紙袋が幾つも朽ち果て、異臭を放っていた。
オレが住む歌道山町は、田舎の農村地帯なので、収穫期になるとご近所さんによる「お裾分け玄関放置」が多発する。
「作物の種類や大きさから、誰がくれたのかを鑑別して、間違いなくお礼をする」と言う、高度な近所付き合いスキルが要求される。
同時期に複数の人から大量にもらう為、冷蔵庫に入りきらないお裾分けが、玄関や廊下で袋に入ったまま、ひっそりと朽ちて行くのだ。
夏場は足下をゴキブリやムカデ、カマドウマが這い回り、時にはそれらが天井から降ってくる。室内で発生したハエだけでなく、蛾やカナブン等、野生の虫も、室内であろうと容赦なく飛び交う。
夜間には一年を通してお裾分けを狙うネズミが徘徊する。
それらの物品や危険生物を回避し、足場を確保しながら体を横や斜めにして通る為、階段からトイレまでの数メートルの移動に少なくとも一分半は掛かる。
今月頭にババアが何かを回避し損ねて転倒した。
足を折って月末近い現在も入院中だ。
この家の日常は、そのくらいハードモードなのだ。
注意力や判断力の足りない者や、身体能力の劣る者は生きて行けない。
ババアは来週、退院するらしい。
正月休みで職員の手が足りなくなる為、生命に別条ない患者は帰宅させられるのだろう。
ババアの入院以来、ネットで取り寄せた保存食とカップ麺とミネラルウォーターと菓子類で暮らしているが、そろそろ飽きてきたところだ。
八十目前のババアでも、流石に一カ月も休めば回復しているだろう。
久々にかわいい孫の為に正月料理を作る楽しみを与えてやることにするか。
ババアは、オレが飯を残さず食ってやるだけで、「ゆうちゃんが今日も元気でいてくれてありがたい」と、ドアの前で泣いて喜ぶ。
そんなババアが、一カ月もオレの飯を作れなかったのだから、さぞかしストレスが溜っているに違いない。
ぶっちゃけ、ババアの飯は塩気が強すぎてマズイ。
マズイ飯でも一応、残さず食うのは、オレが豪農・山端家の跡取りだからだ。
☆印暦……「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説01.基本」をご参照ください。




