灰の離宮・リベルタ Ⅷ
――コンコンコン。
三回のノックの後、部屋に入ってきたのはハロルドだった。手にはタオルと水差し。
「医者を呼ばなくていいのか?」
ベッドに歩み寄り、ハロルドは横になるリツカを見下ろす。
昼過ぎに倒れたリツカは、夜になっても目覚める気配はない。熱も下がる事なく、額には汗が浮かんでいる。
「必要なら、バートラム卿が手配してくれる」
ベッドの傍の椅子に腰掛けたエレオノーラは、静かに首を振る。
「無駄よ。これは病気ではないもの」
タオルと水差しを受け取ると、ベッドサイドのテーブルに置く。
「病気じゃない? じゃあ、何なんだ?」
こうして高熱が出ている人間を前に、病気ではないと思う者が、どれだけいるだろう。
ハロルドの問いに、エレオノーラは淡々と語り出す。
「彼の体は、今、この世界に順応しようとしているのよ」
「順応?」
洗面器に、受け取った水差しの水を追加する。
新しいタオルを水で濡らし、リツカの汗を拭う。
「この世界と、リツカがいた世界。理が同じだと思う?」
「違うのか?」
「当然よ。同じ世界など、ありはしない。リツカの体は、必死にこの世界に馴染もうとしているの。魂と肉体が、この世界の理に順応するよう、書き換えられてる、とでも言うべきかしら? ともかく、その結果、熱が出た」
汗を拭き終わると、エレオノーラは何やら探し物を始めた。
「……? つまり、この熱は心配しなくてもいい、ってことか?」
多少気にはなったが、話を続けることにして。
「そうとも言えないわ。あまり続けば、命に関わる」
「それって、ヤバいんじゃないか?」
平然と答えるエレオノーラに、ハロルドは表情こそ変わらないが、心配しているようだ。
「熱が下がれば、問題ないわ。ただ、理の違う世界から来たんだもの。楽観視はできない」
今夜は、寝ずの看病になるだろう。
目当てのものを見つけたらしく、エレオノーラはベッド傍まで戻ってきた。
「マッチを取って」
「それは?」
投げられたマッチ箱を、しっかりとキャッチする。
「香炉よ。六花って知ってる?」
「むつのはな? いや、初耳だ」
「爽やかな良い香りがするの。夢見を良くしてくれるとも言われているわ」
説明通り、香炉から香る匂いは爽やかだ。
香料として使われることが多い六花は、女性に根強い人気がある。
「一時間たったら、交代しに来る」
「……?」
ハロルドの申し出に、エレオノーラは怪訝そうな顔をする。
「看病だよ。まさか、一晩中起きてるつもりだったのか?」
「……大佐が優しいなんて、天変地異の前触れかしら?」
「お前にじゃない。このガキに何かあると、困るからな」
素直じゃない。
そんな言葉を飲み込んで、エレオノーラは部屋を出ていくハロルドを見送る。
「…………」
部屋の中に満ちる、六花の香り。
気分が落ち着くから、良く焚いていた。
「――良い夢を、リツカ」
せめて夢の中だけでも、心安らかであってほしい。
この先の、リツカの辿る未来は、決して穏やかとは言い切れないのだから。