灰の離宮・リベルタ Ⅵ
相変わらず、廊下は寒い。
そしてやはり、誰もいない。
先を歩くハロルドは、背筋をピンと伸ばし、しっかりとした歩みだ。腰の剣は、歩く度に揺れている。
「声もそっくりとは、驚いた」
「…………王子様、ですか?」
できれば話したくはないのだが、無視するわけにもいかない。
もしも怒らせてしまったら――そう思うと、自然と目が腰の剣に向いてしまう。
「あぁ。まるで、生き写しだな」
(そんなに似てるのか……)
世の中には、自分と同じ顔をした人間が3人いる、という話を思い出す。
会ってみたいような気もする。
(いや、会うと死ぬんだっけ?)
ドッペルゲンガーは、自分と同じ姿をした分身。見ると、しばらくしてから死んでしまう、らしい。
ただ、この場合は全くの別人なのだから、会っても問題ないはずだ。
「どんな人ですか?」
「俺は嫌いだった」
「…………」
自分の国の王子を、ハッキリ嫌いと宣言してしまった。
いいのだろうか?
「俺は王子の剣術指南役だけど、引き受けなきゃ良かったと思ってる」
「……なんで引き受けたんですか?」
「給料が上がるから」
即物的な理由だったようだ。
否、給料は大事だ。
リツカの母親だって、夫の給料明細を見ては、一喜一憂していたし。
「…………」
「…………」
そのあとは、ずっと無言のまま歩き続けた。
何度か、話を振ろうかと考えたが、ネタも何も思い付かない。
結局、黙っていることが無難な選択だと思うことにした。
「バートラム卿、連れてきました」
先程と同じ、本で溢れかえった部屋。
リツカが部屋に入ると、バートラムは安心したように微笑んでいた。
「リツカ殿、先程は言葉足らずで貴公を不快にさせてしまった。申し訳ない」
深々と頭を下げるバートラムに、リツカは慌てて首を振る。
「頭を上げてくださいっ」
ついさっき、貴族だという話を聞いたばかりだ。
この世界での貴族が、どの程度の力を持っているかはわからない。
それでも、貴族=上流階級。
(俺みたいなのに頭を下げないでくれっ)
ただの普通の高校生だから!
ものすごく、いたたまれない。
「俺もその、短絡的だったと反省してますし……」
「リツカ殿……お優しいのですね」
次の瞬間、ブハッ、という吹き出すような声が聞こえた。
声のした方を見れば、ハロルドが背を向けて肩を震わせている。
(笑ってる……?)
あの眼光鋭い、不機嫌そうな顔のハロルドが、笑っている。
「ハロルド」
「……すみません」
体勢を立て直したハロルドは、振り返り咳払いをひとつ。
「顔も声も同じなのに、性格はまるで違うので。つい」
「お前が笑うとは、珍しいこともある」
バートラムは苦笑している。
その表情に怒りは全く感じられない。
「…………そんなに、似てますか?」
リツカの問いかけに、ふたりは揃って頷いた。
「瓜二つです。我がレーヴェの第4王子・ヴォルフラム殿下に」
自分の顔を、再確認したくなった。
「似ているから、俺を呼んだんですよね?」
ここで、ある疑問が浮かんだ。
わざわざ似ている人間を呼び出した――ということは、本人がいない――?
「…………そろそろ、お話しましょう」
バートラムが、1枚の大きな紙を取り出した。
元いた世界で使っていた紙とは、明らかに材質が異なる。
一言で言えば、古そうな紙、だ。
「地図?」
「この中央に描かれた国が、レーヴェです」
バートラムが、分かりやすいようにペンで囲んでくれた。
「今、我々がいるのは、その更に中央にある王都・グロワール」
不思議な感覚だと思った。
この世界の文字が、読めている。聞いたり話したり出来る上に、文字も読めるなんて。
(ご都合主義、って言うんだっけ?)
リツカはそう思ったが、実際は違う。
その理由をリツカが知るのは、もう少し先になる。
「第4王子であるヴォルフラム殿下は、王妃様の唯一の御子息です。他の王子王女は、すべて後側室が母親になります」
王妃に側室。
馴染みのない言葉だが、理解はできる。
「第1王位継承者である殿下は、とても厳しく、けれども慈しみを持って育てられました」
「第1王位継承者、なんですか? 第4王子なのに」
王族の世襲制度について詳しくはないが、長男が継ぐというイメージがある。
「この国の法では、たとえ末の王子であろうと、王女であったとしても、王妃様のお子が第1王位継承者となります」
それはまた、王位を巡って争いが起きそうな法律だ。
「その殿下が、1か月前から行方不明なのです」
「誘拐?」
真っ先に浮かんだ言葉を、バートラムは首を振って否定した。
「身代金の要求も、何もない。軍の方でも極秘に捜索しているが、何の手掛かりも掴めていないのが現状だ」
バートラムの代わりに、ハロルドが説明してくれた。
「何で極秘なんですか?」
一国の王子――しかも、次期国王が行方不明。
もっと、大々的に探すべきなのでは?
「殿下が行方不明である事実を、公にするわけにはいかないのです」
「どうしてですか……?」
バートラムは、言葉を探しているようだった。
「答えは簡単だ。この城の連中にとって、第4王子は邪魔な存在なんだよ」
ハロルドの歯に衣着せぬ物言いに、バートラムは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「考えてみろ。王妃が子を生むまで、第1王位継承権は第1王子のものだった」
けれど、この国の法律はハッキリと告げている。
王妃の生んだ子が、次の国王だと。
「そして今、その第4王子が行方不明。チャンスだろ?」
「ハロルド! 少しは言葉を選びなさい」
「隠したって無意味ですよ。それとも、言わないでおくつもりだったんですか?」
ハロルドが、リツカを真っ直ぐと見つめる。睨んでいるわけではない。
「リツカ。お前は第4王子の身代わりになるために呼ばれた。この城の連中は、虎視眈々と王位を狙っている。本物か偽物かなんて関係ない。第4王子が死ねば、それでいいんだ」
つまり、それは――。
「奴らは、お前を殺しにかかる」
張り詰めた部屋の空気に、呼吸を忘れた。
骨肉の争い――本を開けば、よくある展開だ。
けれど、実際に体験したいと思ったことはない。
あれは、映画や物語の中だけのものであればいいのだ。
「…………」
言葉が出てこなかった。
何を言えば、相応しい?
何を言うのが、正しい?
誰もが口を閉ざした沈黙の世界。打ち壊したのは、遅れてやってきたエレオノーラの声だった。
「昼食にしましょう? ……何、この空気」
エレオノーラと共に訪れた美味しそうな香りは、瞬く間に部屋を満たしていく。
リツカはようやく、息苦しさから解放された。
ほんの少しの間だけ。