第9話
「ゲホッ……おい、なんでついてくる。このどん詰まり」
少女は咳込みながら、不機嫌そうに振り返った。
「だって……ゲホッ、ゲホッ……」
だって、仕方ない。他に行く道がないんだから。
岩場はさらに入り組んでいた。十メード以上はある断崖に左右からはさまれ、岩に肩をこすりつけながら進む。細く切り取られた空から細い光が落ちてくる。
レオンさんは追ってこない。あたりは不気味なほどの静寂に包まれている。
が、あの人が僕らを逃がすはずはない。とにもかくにも一人にされたくなくて、飼い主にくっつく子犬のごとく少女についてゆく。
一方、少女は体の小ささを生かしてズンズコ先に進んでゆく。途中、いくつもの分かれ道があったが、まるで迷う様子もない。
「ねぇ、どこに行けばいいか分かってるんだよね?」
「知らん。とりあえず逃げとるだけじゃ」
「ええっ? このへん、君のナワバリなんじゃなかったの?」
「全部が全部、覚えていられるか。大体いつも空から見とるのに、こんな狭いところまで把握しとるわけなかろう」
「じゃ何なの、その自信ありげな歩き方は?」
「道は必ずどこかにつながっているものじゃ」
「いや、良いように言ってもダメだから! 行き当たりばったりだからね、ソレ!」
少女は、予想外にダメな人らしかった。何なんだ、この根拠のない自信は?
「つっ!」
叫んだ拍子に、一際強く肩が痛んだ。腕が上がらない。撃ち抜かれた脚もだ。
上着の左半分と右脚がべっとりと血で汚れている。出血そのものより、その光景に気が遠くなる。
「……もういやだ」
僕は砂利の上にへたり込んだ。
逃げたところで一体どうなる。あんなことを話した以上、レオンさんは僕を殺すだろう。万が一逃げおおせたとしても、どうやってこの山から帰ればいい? 何より、帰れたところで僕を待っているのは前と何も変わらない、フェデリコの奴隷としての日々だ。
結局、ダメだった。僕は変われなかった。
きっと最初から決まっていたんだ。腰抜けは、腰抜けのまま生きて死ね、と。変わろうとすること自体が、間違っていたのだと。
サクサク、と砂の擦れる音がした。
ふと、見上げた。
少女はずーっと遠くに歩み去っていた。
「え――――――――――――――――――っ!」
「でかい声を出すな。見つかったらどうする」
「いや、ほっとかないでしょフツー! こういう場面で! なんかこう……声とか!」
「はぁ? なんでわしがお主の泣き言を聞かねばならん。誰のせいでこんな目に遭ったと思うとるのじゃ」
「そ、それは……その、レオンさんが……」
「わしにしてみれば、ヤツもお主も、他の人間もみーんな同じじゃ。人のナワバリに上がりこんでやりたい放題。追い出そうとしたら、今度は徒党を組んで殺しにくる。あげくの果てに勝手に仲間割れして、勝手にべそっかきじゃと? 一体どこにわしが同情する余地がある。は、泣きたいなら勝手に泣け泣け、干からびて死ね。やーいやーい生まれたてのドブネズミー!」
泣きっ面にハチだった。慰めなんか期待してなかったけど、そんな言い方しなくたっていいじゃないか。大体なんだよ、生まれたてのドブネズミって。意味が分かんないよ。
「あ、血が出とるではないか。血痕で追われたらどうする」
「だ、誰のせいだと思ってんだよ! そっちが僕を盾にするから」
「あー、うっさいうっさい。いいから見せてみい」
心配する気もないくせに、と半分やさぐれる僕のそばに、少女は腰を下ろす。
「Curatio vulneris gravior vulnere saepe fuit」
謎の言葉に僕は「え?」と目を見開き――そして少女が、僕の肩にキスをした。
「なっ……?」
僕の頭はたやすく真っ赤になった。
間近で揺れる白髪と香り立つ不思議な匂い、胸を押さえる柔らかい手の感触、こんな可愛い子の唇が触れているという事実に痛みどころか、
「どうじゃ。痛みは」
「え? ………………あ、あれっ? いたく、ない……?」
肩と、そして脚の傷口に、蛍のような小さい光が膨らんでいた。信じられないことに、それが明滅するたび、赤くえぐられた傷がふさがってゆく。
「ま、魔法……?」
「『治癒』じゃ。わしが使える術は、さほど多くないがの。百年の間にだいぶ忘れた」
「ひゃくね……」
「これで歩けよう。どこへなりと好きに行け」
そっけなく、あまりにそっけなく少女は言った。僕は、ぼんやりとその顔を見つめた。
「なんじゃ」
「あ、いや……。あ、あの、もしかしてここから逃げられる魔法とか……」
少女はそこで僕をじっと見つめた。値踏みというか品定めというか、全身をくまなく観察するような視線。
「な、なに?」
ふ、とため息。返ってきた言葉は、ただ一つだった。
「そんなものは、ない」