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第4話

「ダメよ、……きちゃう……」

「……やって。……寝とる」

 ん……なんだ……?

「ダメだってば……んっ! ……なとこ吸って……!」

 暗闇の中で、いやに悩ましい声が聞こえた。

「イヤやったら暴れたら? 無理にとは言わへんで」

「あん、生徒の前で、こんな……あっ……」

 意識が浮かび上がるにつれて、聞こえる声が鮮明さを増す。どうやら僕は、どこかに寝かされているらしい。お腹の上に感じるのは、薄い毛布の質感だ。

 まぶたを開けた。

 目の前に、お尻があった。

「わあっ?」「きゃあっ!」

 飛び起きると、黒いスカートに包まれたお尻……じゃなかった、女の人が一緒になって跳びはねた。真っ青な顔で振り返ったのは、チュニックを着崩し白い肩をあらわにした大人の女性。長い金髪は見る影もなく乱れているけれど、その口元のほくろと、真面目そうな黒眼鏡は――

「ビ、ビアンキ先生……?」

 途端、先生は顔を真っ赤にして、脱兎のごとく逃げ去った。乱暴に叩きつけられ、閉めそこなった木の扉がキィキィと鳴くのを、僕はぼーぜんと眺めることしかできない。

 見れば、そこは白壁で囲まれた小さな部屋の中。ベッドの真向かい、机の上にはハサミや鉗子、包帯にガーゼに薬の瓶が並べてある。医務室だ。

「あーあ、なんで今起きるかなぁ」

 二度目のビックリ。乱れたベッドシーツの上に、上半身裸の男の人が座っていた。 

 細身の体に面長の顔。長い手足には、何十もの洗礼紋がひしめいている。雑草のように乱れた金髪をかきまぜるのは、信じられない、「あの」レオンさんだった。

「あと五分で落とせたっちゅーのに。せめて乳首くらいはしゃぶりたかったわ、ホンマ」

「えっ、あ、そ、そのっ………………」

 恨めしげな視線を送られて、僕はしどろもどろになった。

 とんでもない場面に出くわしてしまった。まさか先生に手を出すなんて。さすが『雷』にまでなると違うと言うか、明日からビアンキ先生とどんな顔して会ったらいいんだ?

 いやそれよりも。どうしよう、あのレオンさんが怒ってる。僕が怒らせてしまった。やばいものすごい不機嫌になってるなんとかしないとどうにか挽回しないと――

 僕は、自分のシャツをたくしあげた。

「あ、あの…………代わりに僕の乳首でよければ」

「いらんわァ! どんだけの変態やねん、俺は!」

 余計怒られた。しょぼんと裾を引き戻す。

 と、レオンさんは一転、愉快そうに喉で笑い、

「なかなかオモロイなぁ、ジュリオ君。その返しは予想しとらんかったわ」

「ふえっ? な、なんで、名前」

「さっきの先生から聞いた。あないなベッピンさんに手とり足とり教えてもらえるやなんて、ええなぁ、自分」

「じ、『自分』?」

「『キミ』のことや。獅子樹区レオーネの訛りでな。俺んトコの樹区には学校なんか無いもんなぁ」

 ゾディア十二地区の中でも、竜撃士を養成する学校はここ天秤樹区しかない。他の樹区では、竜撃士にしろ料理人にしろ、自分で師匠を見つけて習うのが普通だ。たくさんの子供がそろって大人に習うという状況は、レオンさんにしてみれば物珍しく映るのだろう。

「それに運もええ。木の枝に引っかかってなかったら、いまごろ潰れたトマトやで。そしたら俺もさっきの先生と知り合ってなかったし、ま、ある意味感謝やな」

 どうやら僕が死なずに済んだのは、そういうことだったらしい。

「あ、あのっ……ご、ごめんなさい、僕、その、さっきは」

「あー、ええ、ええ。見たら分かるわ。あのミドリ頭の連中に言われたんやろ?」

「あ……」

「あいつらな、逃げたで。軽くガンつけたら、パーッてな。一つ忠告したるけどなぁ、友達は自分の得になるようなヤツだけにしときや」

 さすがというか何というか、すべてお見通しだった。僕は胸をなでおろした。もちろん、迷惑をかけたこと自体、許されるわけじゃないと思うけれど……

「ほな、な」

 言うだけのことは言った、とばかり、レオンさんはシャツとジャケットを着て立った。

「あ……っ」「ん?」

 それは、ほとんど反射的な行動だった。

 あまりの大胆さに、自分でビックリする。何してるんだ、僕は。僕の手は。

 あのレオンさんの、腕を掴んで止めるなんて。

「どないした? もう帰りたいんやけど、俺」

 不思議そうに見返され、パニックになる。もちろん、僕に引きとめる権利はない。レオンさんは、僕を看るためにここにいてくれたのだろう。それだけでもう十分すぎる。

 けど……けど、あのレオンさんが、ジオストラ優勝者の称号『雷』を持つゾディア一の竜撃士が、同じ部屋にいる。これはものすごいことだ。こんな幸運、もう一生ないかもしれない。このままみすみす行かせてしまっていいのか。何か少しでも訊くことがあるんじゃないのか。

 ただその一心だった。

「あ、あの、レオン、さん……そ、その……あの……」

 勇気を出せ。口を開け。訊くんだ。言うんだ。行け!

「ど、どうすればっ、あっ……、あなたみたいになれますかッ!」

 言った!

 はたして、レオンさんは、垂れ気味の碧の瞳をキョトンと丸め、

「俺のこと、知っとるんか?」

「し、し、知ってますっ、当たり前ですっ。去年とっ、おととしのジオストラで優勝したことも、僕と四つしか違わないのにもう百頭以上狩ったことも、好きな食べ物はパスタで、嫌いなものはナメクジと鳥の皮のイボイボのところで、そ、それから、それから……!」

「わかったわかった。自分が女やったらここで押し倒しとるとこや。で、なんやって?」

「あ、だ、だから僕、レオンさんみたいなすごい竜撃士になりたくて……」

 ぎくりとした。

 レオンさんの雰囲気が一変していた。さっきまでどこか眠そうだった目は鋭い光に満ち、唇は引き絞られている。何か気にさわることでも言ってしまったのか――と青ざめたそのとき、不意にレオンさんが顔を近づけてきた。

「『いー』や」

「え?」

「いー、ってしてみぃ。口を、いー」

 何の意図だかわからない。

 が、ともかく『雷』の命令だ。言われるままに歯を「いー」とむき出しにする。

「次は『あー』や。あー」

 前に同じ。大きく開いた僕の口の中を、レオンさんはじぃっと観察する。そして。

「アカン」

「え?」

「失格や。竜撃士の資格なし」

 きっかり三秒、あっけにとられた。そして、

「ど、どうしてですか! 口の中見ただけじゃないですか!」

 思いがけず大きな声に、自分でもビックリした。相手はあのレオンさんだっていうのに、なんて大それたことを――と思う一方、でも、でも仕方ないじゃないか。目がいいとか運動能力があるとかを見てなら分かるけど、これだけで何が分かるっていうんだ。

 レオンさんは、自分の右頬の下をつついてみせた。

「歯ァ、や」

「……は?」

「そう、歯。虫歯がある。右下の、奥から三番目」

 ……そう言われれば最近、起きぬけにそのあたりが痛むような気がする。この間は冷えたレモンジュースを飲んだとき、キンとした痛みが……って、いや、今はそうじゃなくて。

「で、ですからっ、虫歯なんかがどう」

「空が高くなるほど、空気が薄なるんは知っとるな?」

 レオンさんの言葉が、僕の質問に先回りする。

「虫歯持ちがその空気の薄いトコまで飛んでくとな、歯の中にたまった濃い空気がボワッと膨らんで破裂するんや。歯が砕けるわけやから、そらもう痛い痛い。脅しやないで。高度哨戒で気ぃ失って、そのまま地面にベチャッいう話が実際あったんやから」

「……」

「自分、『虫歯なんかが』とか言うてくれたな。せやけどその虫歯一つが命とりになるんが、竜撃士なんやで。体も心も、カンペキやないとやっとられん。あんなチンピラどもにやりくられるようなヤツにつとまるとは思えんな。……ちゅうかそもそも、こういう話を知らん時点で見込みナシやろ。悪いコト言わん、あきらめや」

 僕は――押し黙った。ただの一言も反論できない。ぐうの根も出なかった。

 竜撃士になりたいと言いながら、僕はそんな当たり前のことも知らなかった。

 本物の竜撃士から見れば、自分の体の管理なんて基本中の基本なのだ。

 レオンさんの強い目は「ナメるな」という気持ちの表れだった。

 今度こそレオンさんが部屋を出て行こうとする。

 もう服をつかんでも引き留められない。

 行ってしまう。憧れの人が、この情けない日々を抜け出すチャンスが去ってしまう。そして、明日からまた、みっともない自分がはじまる。

 ――イヤだ。

 僕には才能がなくて根性がなくて資格もなくて、ただ気持ちだけで。

 それでも、気持ちだけは。この思いだけは伝えたい。

「……右下の、奥から三番目、ですよね」

「あん?」

 返答の前に、僕はベッドから駆けだした。ほとんど突き飛ばすようにレオンさんの横を抜け、伸ばした手は机の上、治療用のペンチ。

 口の中にねじこむ。丸く交叉した先端部を開き、歯をはさむ。右下の奥から三番目。

「お、おい!」

 力まかせだった。

 歯茎ごとねじ切られたような激痛が駆け抜けた。一発で取れたかと思ったが、舌先で確かめるとビクともしていなかった。虫歯のくせに頑丈だ。ありったけの力を込めてさらにねじる。みぢみぢみぢっ……と粘っこい音を立てて、歯の根が少しずつ緩んでゆくのが分かる。

「アホか、やめぇ!」

 レオンさんの大きな両手が腕をつかんだ。けれど、僕の体は何かがとり憑いたみたいに止まらない。歯をはさんだままのペンチを机の上に押しつける。上から両手でがっちりと固定し、そのままジャンプ、一本の歯に全体重をかけて、

「――――ッ!」

 ぶぢん、と太くにぶい音。真っ白な光が弾け、口の中に生ぬるい感触があふれ出た。

 悲鳴なんて出るはずもない。痛みを超えた何かが全身をぐちゃぐちゃに駆け巡り、たまらずその場にうずくまる。

「どアホ! 何考えとんねん、自分!」

「ひ……ひたいれす……」

「当たり前や! 自分で歯ァ抜くやなんて……俺が言うたんはそういうコトちゃうわ!」

 血が止まらない。唇の隙間から、押さえる右手の指の間から、赤黒いものがどくどく漏れ出てくる。

 乳白色の床が汚されてゆく。口の奥に、熱した石の塊があるように感じる。

 自分が涙を流していることにようやっと気づいた。――でも。

「ひ……ひたい…………けど…………」

「ああっ?」

「きは、うしなって、ない、です」

 レオンさんが眉根を寄せる。何を言い出すんだ、というような顔。

 口の端から、砕けた歯の欠片がずるりと落ちた。痛さと痺れで舌が言うことを聞いてくれない。だけど、それでも伝えないといけないと思った。

「もっと、痛いのを、しってる、から……」

 これよりもずっと大きな痛みを、負ってきたから。

 笑われて、罵られて、バカにされて、無視されて。自分がどうしようもないクズだって思わされるあの瞬間の、血管の中に蛆がわくような思い。

 それに比べれば、こんな痛みなんて何でもない。

「父さんも、母さんも、ヒライヤ病で死にました……。預けられた叔母さんの家では、まるっきり邪魔者扱いで……ごはんもろくに食べさせてもらえなくて……」

 空への憧れだけが、生きる希望だった。同じ樹区で竜撃士を養成する学校があると聞き、必死で入学費を稼いだ。畑仕事、草むしり、馬や羊の世話、手紙の配達、ときには三つ隣の村まで行って、なんでもやった。そうしてやっとの思いで入った学校と、その寮では。

「ずっとイジめられてばっかりで……僕は田舎者で、しかもチビだから、フェデリコみたいな大きいのにからまれたらどうしようもなくて……」

 どんなに立ち向かっても、返り討ちにされた。なけなしの勇気はそのたびに削られてゆき、僕は自分自身が嫌いになった。――でも。

「竜撃士になれたら、きっと変われる、って……レオンさんみたいに、カッコよく……」

 竜を倒したいわけじゃない。ただ、行きたい。

 あの高みに昇れれば。フェデリコたちも学校も、ちっぽけな僕自身さえも見下ろすことのできる、あの天の極みまで行くことができたら。きっと変わることができるから。

「空を……飛びたいんです……」

 ぽた、と血の滴が落ちた。医務室に静寂が降りた。

 いきなり、口の中に何かが突っ込まれた。

 レオンさんのスカーフ――止血をしてくれたのだ。

「ったく……そんだけの根性あるんやったら、あんなチンピラなんぞ屁でもないやろに」

 レオンさんは、とび跳ねた金髪をぐしぐしとかき混ぜ、あきれたように言った。

「あーもー、わかったわかった! 降参や! 面倒見たらぁ!」

「ほ、本当ですか!」

「しゃーないやろ。ほっといたら自分、全部の歯ァ抜いてまいそうやし」

 痛みがいっぺんに吹き飛んだ。なんて現金なんだ、と自分でも思いながら、それでも胸が躍るのを止められない。やった、やった……やった!

「そっ、それじゃあ、あの、まず、どうやったら大きな声が出せるか……」

「とりあえず飛んでみよか!」

 は? と思わず聞き返した僕の目の前。レオンさんは歯をむき出して笑っている。

「来週、でっかい竜狩りがあるんや。習うより慣れよや。一緒に俺の竜に乗せたるわ」

「え……」

 えええええええええ――――――っ?

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