第31話
嵐が去った。
あれほど激しかった雨は、ぱらぱらと散るだけの小雨に変わっている。
古ぼけた小屋の前は狭い河川敷で、濁った川が嵐をはらんで激しくうねっている。
黒雲の切れ間から、月光が降りてきた。
ルーチェは一人、小屋の前に立っている。
間違っても月の女神なんて風体じゃない。
髪も体も汚れ放題。
しかも石化は、顔の半分どころか首や肩にまで及んでいた。
激しい羽ばたきの音とともに、チェンタウロが降下してきた。
渦を巻くような軌道であたりを警戒しながら、近くの樹の枝の上に留まる。
「相方はどこや?」
「逃げた。ここにおるのは、わし一人だけじゃ」
「なるほど、どっかに隠れとるっちゅーワケやな。で、どないすんの? 大人しく『洗礼』受けるんか、それともその棒で俺を倒すか?」
ルーチェはぴくり、と体を震わせた。
腰布の後ろに挿した棍棒は、小屋の中で見つけた農作業用のものだ。
レオンはびしょ濡れになった金髪を、面倒くさそうにかき混ぜた。
「なーんか……自分ら、えらい仲良うなったもんやなぁ。まぁ、俺は前のオトコにこだわらん性分やし、別にええけど。俺ンとこに嫁に来たら、ちゃんと忘れてや」
「……」
「そうそう、自分の実家って、どんなとこなん? 俺なァ、真っ先にそこに行きたいねん。この国の誰も行ったことないトコに行けるとか、最高やん?」
「滅んだ」
一言。レオンが眉を寄せる。ルーチェはゆっくりと語り出す。
「……戦が、あった。魔術を極めた二つの国の、大きな戦じゃ。両軍ともが竜を駆り、炎や風を、操って殺し合った。たくさんの街が焼かれ、たくさんの人間が死に、それでも戦は終わらず、むしろ一方の国の王などはもっと強い竜を欲した。もっと速く、もっと高く飛べる竜を……そして何より、もっと賢い竜を。人が乗らずとも自ら考え、敵を蹴散らせる竜をな。そして考えたのが、人間と竜を掛け合わせることじゃった」
「……」
「最初は、死刑囚や敵方の捕虜が使われた。じゃが、掛け合わせは未熟な術じゃ。そのことごとくが失敗し、数えきれぬほどの人と竜が死んだ。やがて罪人も捕虜も尽き、何の罪もない民までもが『材料』に使われはじめた」
とつとつと語るルーチェ。レオンはじっと黙って聞いている。
「長い戦で、王は狂っておったのじゃろう。掛け合わせる竜がおらず、鳥や虫まで使うようになっても、なお合成を続けるように命じた。本末転倒もいいところじゃ。あちこちで反乱が起こり、それに乗じて敵は攻め入り、窮まった王は……己の娘を生贄にささげた」
ルーチェはぎゅっと拳を握りしめた。
「……一体どうしてわしだけが成功したのか、自分でも分からぬ。あるいは神が願いをかなえてくれたのやもしれぬ」
「願い?」
「憎しみ……父に使い捨てられた怒りと悲しみ。いや、父だけではない。自分を取り巻く全ての人間。勝手に戦争をして勝手に苦しんで……皆死んでしまえと思った。そやつら全員のもがき苦しむ顔が見たかった。遠く、高いところで」
ルーチェの顔は見たこともないほど悲しげだった。
「わしは逃げた。すでに戦は行き着くところまで行っていて、国中が火の海じゃった。燃える都を見下ろしながら……死のうと思った。じゃが、その勇気もなかった。魔術のためか、何十年経っても年をとることもない。わしにできるのは、ただ生きることだけじゃった。誰とも交わらず、誰の助けも受け入れず。ただ独りで、ずっと……」
身中の毒を吐きだしたように、ルーチェは肩をしぼませた。
じっと聞き入っていたレオンは、しかし、つまらなさそうに肩をすくめた。
「そんで? 『だから、こんなことはバカなことはやめろ』かいな? カンベンしてぇな、そういう年寄りじみたセッキョーが一番嫌いやねん」
そしてルーチェは、強く言い放つ。
「たわけが。じゃから『お主の負けじゃ』と言うておるのじゃ」
ぴくりとレオンの眉が動いた。
「百年かけて、わしはようやく生きるべき場所を見つけた。ともに生きる相手をな」
ルーチェの顔には生気が戻っていた。あの不敵な笑みも。
「わしはこれから、そやつと一緒に家に帰る。肉団子を転がして、スカートを裏返しにして、クモ女とケンカするのじゃ。さぞ楽しかろう。空しか見えぬお主には、決して真似できぬ。チャハハハ、ざまあみろ!」
レオンの濡れた金髪が、そのとき確かに逆立ったように見えた。怒りのためか、何か別の感情のためなのか、僕には分からない。発した声は、ひどく高ぶっていた。
「ええ女やなぁ……ホンマにええ女や。……ますます欲しなったで!」
ド、と激しく風が唸った。チェンタウロが悪魔のように翼を広げ、ルーチェへと襲いかかったのだ。カギ爪で彼女をかっさらい、そのまま空へ逃げるつもりだ。
――ここだ!
僕は、一気に川の中から飛び出した。頭から泥水をまき散らし、川べりの泥にまみれた手で麦狩り鎌を握りしめ、チェンタウロとレオンに、背中から襲いかかる。
レオンはもちろん読んでいた。振り返りざま放った銃弾が、飛びかかる僕の手を貫通した。唯一の武器はあっけなく手を離れ、僕は勢いのまま竜の背に倒れ込んだ。
そこへ、トドメの銃口が――
「ぜやあああああっ!」
前だ。ルーチェが棍棒を手に駆け込んできた。
「そういうときはな、声出さへんもんやで」
レオンはまったく落ちついて、そちらへ銃を向けた。
――もし、ルーチェの狙いがレオンだったなら、全ては終わっていた。
だが、ルーチェは銃の死角、すなわちチェンタウロの頭の下に潜り込んだ。そして、
「はあぁッ!」
下から、竜の顎を思い切りかち上げた!
咆哮を上げて飛び上がるチェンタウロ。
僕とレオンを背に乗せたまま飛翔、そのまま小屋の壁に激突する。
朽ちかけた木壁は、木っ端微塵に砕け散る。
一瞬が永遠のように感じられた。
斜めに傾いだ視界の中を、ゆっくりと木の破片が流れてゆく。
その向こうに見えるのは、こちらにぴたりと銃口を合わせてくる、レオンの姿。
「ああああああっ!」
はたき飛ばした。
狭い竜の背では銃より早い。
がら空きになった敵のふところ、最後のチャンス。
逆手に握った大振りのナイフを、渾身の力で振り下ろした。
そしてレオンは僕の上を行った。
一切の躊躇なく、手で受け止めたのだ。
体重を乗せたナイフはそのまま左手を貫通し、刃が丸ごと手の甲の側へと抜けて、しかし、それでもレオンの顔色は変わらない。
目の前に赤光が爆ぜた。
額に割れるような痛み――レオンが貫かれた掌をそのまま僕の顔面に打ちつけたのだ。
一歩、二歩後退し、竜の背の端まで追いやられる。
「チェン! 上昇!」
残った手で手綱を引き、レオンは竜をなおも上昇させた。
もちろん左手は、僕の頭をわし掴みにしたままだ。
高さは十分、このまま頭から落とされたら――死ぬ!
「ぐうううっ!」
僕はレオンの右腕をつかみ、なんとか押し返そうとした。
だが、レオンの腕はまるで鉄製だ。まったく動かせない。片足が足場から外れる。
「ようここまでやったもんや。尊敬するで、ジュリオ君」
血みどろの指の間から、レオンの顔が垣間見える。
躊躇も容赦もありはしない、その目。
「自分の名前は一生忘れん。今までで最強の敵やった」
これが――これが僕とレオンの違いなのか。どうあがいても、僕は勝てないのか?
「それは光栄じゃの」
――もしも、運命の女神がいるのなら。
「ついでにわしの名前もくれてやる。冥土の土産に持ってゆけ」
きっとこういう声をしているに違いない。
不敵に笑んだ、力強い声。
後ろから僕を支える小さな体躯が、とてつもなく巨大な力に変わってゆく。
動くはずもなかったレオンの腕が、二人分の力で確かに押し返されてゆく。
レオンは、強い。僕よりもはるかに強い。一人じゃとてもかなわない。けど。
「我が名は、ルーチェじゃ!」
今の僕は一人じゃない!
「うわあああああああああ――――――――――ッ!」
押し出した。竜の背の向こうへ、三人もろとも落下する。
一瞬の空白に続いて、全身がバラバラになるような衝撃が来た。
「ぐあっ……!」
勢いのまま数回転して、仰向けに倒れる。
レオンの体を下敷きにしたとはいえ、落下の衝撃は殺しきれなかった。
全身がしびれたように動かない。
「ルーチェ……ルーチェ……? どこだ……?」
姿が見えない。体が起こせない。彼女は無事なのか。どこに。
真横でごそり、と身を起こす気配がした。
「ルー……」
僕は凍りついた。
起き上がったのは、レオンだった。
いや、起き上がったとは言いがたい。
頭から、口から鼻から血を流し、体は満身創痍、うつぶせになって左ヒジだけで身を支え、それでも。
「はは……きいたァ……」
顔だけは凄絶な笑みを浮かべている。
僕のほうへと這いずってくる姿は、まるで亡者だ。
額に硬い感触が来た。
拳銃。
血の気が引いた。
――逃げなきゃ。
思う心に体がついてこない。
腕も脚も痺れて動かない。
くそ、動け、動いてくれ!
「終わりや」
絶望的な宣告に続き、引き金が――
「……!」
……何も起きなかった。
閉じた瞼をそっと開いた。
拳銃は、僕のかたわらに落ちていた。
何が何だか分からない。
見上げればレオンの顔は、魂の抜けたように真っ白だった。
「は、何ビビっとんねん。終わりや、言うたやろ」
「え……?」
「背骨が折れてもうた……もう、鞍に乗れん。戦う意味があらへん」
投げ捨てるように言うと、レオンはそのままばったりと仰向けに倒れた。
左の掌を上に向けて胸に添えているのはなぜだろう。
と思う間にレオンは手にぐっと力を込め、それを引き剥がす。
ドッ、と血があふれ出した。
ようやっと気付いた。
レオンの左手にはナイフが刺さったままだった。
落下した拍子に、それが胸に突き刺さったのだ。
レオンは、しかし、その致命傷には目もくれない。
ただ無念そうに脚をさすり、
「アカン、やっぱ動かんわ」
まるで、そこにこそ命があると言わんばかりに、そう言う。
レオナルド=ネスタは、最後までレオナルド=ネスタだった。
「レオン、さ…………」
「何にも言いなや」
かけようとした言葉は、優しく拒否された。
「こういうとき、負けたヤツには何にも言わんもんや。俺もずっとそうしてきた……」
「ヴぇ~……」
チェンタウロが、悲しそうに首を落としながら、主人のもとに近づいてゆく。
ぐったりと動かないレオンの体を頭ですくい、自分の背中に乗せた。
「はは、初めて気のきくことしよったな、コイツ……」
レオンの声は、もうほとんどそよ風のようだった。
僕は思った。
この人は、僕と同じだ。
地位も名誉も何もいらない。ただ空を飛びたい。それだけの人。
たった一つ違ったのは――この人には、ルーチェがいなかったんだ。
「今度生まれ変わるときは……竜がええなぁ……」
それっきり、レオンは何もしゃべらなくなった。
チェンタウロは、動かない主人を乗せて、空へ羽ばたいた。
ゆっくりと、波間を漂うように、その姿は小さくなってゆく。




