第30話
「う……?」
覚醒したのは、やはり痛みのためだった。
ひどく暗い。雨音は続いているものの、肌に水の当たる感触はない。うっすらと開けた視界の中に、古ぼけた木の天井が映った。見たことのない小屋の中だった。
「動くな。寝ておれ」
すぐそばにルーチェが座っていた。
人間の姿に戻っている。
胸と腰に巻いたボロ布は、小屋の中にあったものだろうか。むき出しの白い肌は、血と泥で痛々しく汚れていた。
「ここは……?」
「水車小屋のようじゃ。川べりに打ち上げられたのを、ここまで運んだ」
ルーチェの手足はボロボロだった。
あんなに強い流れから、よく引きあげられたものだ。
「痛っ……!」
「動くな。今、『治癒』をかけてやる」
ルーチェは僕の胸元の傷に唇を寄せた。最初に出会ったときの、あの治療魔法だ。
「ぐっ……レオンは?」
「わしらを見失ったらしい。あたりを飛び回っとる」
小屋はとっくに打ち捨てられたものらしく、欠けた木の壁から、隙間風が入り込んでくる。のぞき見える外の景色は、増水した川とぽつぽつ並んだ雑木ばかり。どうやら飛んでいるうちにかなり郊外に来てしまったらしい。
舌打ちとともに、顔を上げるルーチェ。胸元で居残っていた光が力無く消えた。
そして……傷は大きく口を開いたまま、血を吐き出すのをやめていない。
「……傷が深い。『治癒』はこんな重傷までは治せんのじゃ」
すまぬ、と落とす声は、かすれて消えそうだった。
僕はごろりと頭を床に転がした。
「ごめん。……僕のミスだ」
甘かった。レオンの狂気に呑み込まれてしまった。気持ちで負けないと言いながら、完全に圧倒されてしまった。
「違う! わしが前を見なかったせいじゃ。ヤツに気を取られて、橋に気づかなんだ」
それも違う。ルーチェは片目が見えないんだ。しかもあの暗闇……無理もない。
ルーチェは立ち上がった。青い瞳はある種の決意に満ちていた。
「……ルーチェ?」
「ヤツのもとに行く。『洗礼』を受ける」
息が止まった。
「もとよりヤツの狙いは、わし一人じゃ。お主の命まで取りはすまい」
「そんなっ、ぐっ?」
起き上がろうとした瞬間、激痛が体を縛った。見下ろすルーチェの顔は、穏やかだった。
「気にするな。お主の命と引き換えにしてまで欲しい自由などあるものか。ケガの手当ては、死んでもヤツに約束させる」
違う、ルーチェ。僕が嫌なんだ。君をレオンのもとへなんて、行かせたくない。
言おうとした言葉は、痛みの前に何一つ形にならなかった。ここに来てまだ、僕は無力な腰抜けのまま――あまりの情けなさに涙が出そうになる。
そのときだ。
揺るがない表情だったルーチェが、ふと不思議そうな顔で僕を見た。
「……なぜ笑う」
意味が分からなかった。
「そのケガで、何を笑うのじゃ。痛かろうに。わしを気遣っておるのか?」
…………。
笑っているのか、僕は。
言われてみれば、そんな気がする。そんなつもりもないのに、僕の意思を超えて、自然と顔が笑みを形作っている。
でも、なぜだ? 無理なんてしていない。ルーチェを気遣う余裕も、正直無い。もちろん痛みで狂ったとか、そんなものじゃない。僕は一体――。
ルーチェの顔が、芯の折れたようにくしゃりと歪んだ。僕の肩にすがりつき、絞り出す声は涙に濡れていた。
「阿呆っ! 痛いなら泣け! 泣いてくれ! こんなときに意地を張らんでくれ……! せっかく覚悟を決めたのに……」
ぽろぽろと泣くその姿は、まるでただの少女だ。
いや、今の姿こそが本当のルーチェなのかもしれない。
そして、分かった。
痛かった。痛くて痛くて、それこそ笑ってしまいたいくらいに苦しかった。
けれど、それよりもっと大きなものが今、胸の中にある。
嬉しいんだ。ルーチェを守って戦えることが。そんな自分でいられることが。
変われたとか変われなかったとか、強くなったとかなれなかったとか。
そんなことは、どうでもいい。
ただ、守りたい。この、雲と風と、空の匂いがする少女を。
それが僕の――生きる道だ。
「ルーチェ……」
重い手を持ち上げて、ルーチェの頬をぬぐう。指にからんだ涙は熱かった。
「今から言うことを、よく聞いて」




