第3話
「いや、何もナイフで切りつけろってわけじゃねーんだよ。この炭でチョロっと、な?」
炭のチョークを僕の手に持たせながら、フェデリコは薄い唇をニヤニヤと歪ませる。
「たいしたこっちゃねェだろ? ほんのラクガキだよ、ラクガキ。度胸試しってヤツよ」
校舎の扉からのぞき見るのは、夕闇深い『学校』の中庭。北側の校舎から長い影が曳く芝生の上に、一頭の紫晶竜が寝そべっている。レオンさんの騎竜、チェンタウロだ。
竜撃士は、狩りや護衛の仕事がないとき、荷物の運送を請け負うことがある。レオンさんがあの村を通りがかったのは、たまたまミレーナ港へ貨物を運ぶ途中だったそうだ。
そのレオンさんは、今は僕らを助けたお礼に学校長室に招待されているところ。
この時間、ほとんどの生徒は寮に帰っているため、人の姿はない。しかも竜が寝ているのは庭の隅に植えられたオリーブの木のそばで、校舎の窓からはかなり見にくい。
悪さをするなら、今というわけだ。
イヤな予感は当たった。フェデリコの言う度胸試し……それは、寝ているチェンタウロの尻に『ションベン紋』を書いてこい、というものだった。
ションベン紋とは、最近下町の悪ガキたちの間で流行っているイタズラだ。竜撃士が竜を飼いならすための『洗礼紋』をもじったもので、本来なら二重の円の中に「ここに祝福あれ」とあるところ、「ここに小便あれ」と書く。要は、ただのラクガキだ。
が、その竜の持ち主にしてみれば自分の乗り物を立ちションの的にされるのだから、赤っ恥もいいところ。学校の生徒の中にも真似する連中が増えてきているので、先生たちは近頃、くだらないことはやめろと口やかましい。
だけど、それをよりによって「あの」レオンさんの竜にやれっていうのだから……
(なんで今日はこんなからんでくるんだと思ったら……)
最初から分かっている。これは度胸試しなんかじゃない。では僕への単純な嫌がらせかというと、それも違う。
フェデリコの狙いは、レオンさんなのだ。
フェデリコはうちの地区の代表として、去年の空撃騎竜戦に出場した。ゾディア十二地区の代表が集まり、一斉に戦う、年に一度の大空戦。長い歴史の中でも、十三才での出場は最年少だったから、本人の浮かれっぷりといったらなかった。
が、いざ本番になってみれば、空にいられたのはたったの二十秒。叩き落とされたその相手が、獅子樹区の代表にして優勝者のレオンさんだった。
そういうわけで、ただでさえ逆恨み激しいところへ、今度は自分のミスをレオンさんに助けてもらった形。火に油というほかはない。
で、溜まり溜まったそのうっぷんを、こうして晴らそうというのだ。
姑息だと思う。くだらないと思う。ジオストラで負けたならジオストラでやり返せばいいのに、つまりは正面から勝てないからこんなことをしているのだ。しかも見つかったところで、自分自身は痛くもかゆくもない。僕が告げ口しないことも見越しているに違いなかった。
そして、今、僕は、まったくその目論見どおりに動こうとしている。
――ダメだ。このままじゃ。
言いなりになっちゃいけない。イヤだと言うんだ。弱い自分から抜けだすんだ――
「とっとと行けよ。おい」
積みかけた勇気は、たった一言で瓦解した。背中を押すフェデリコの押す手に、僕はしおれるように前へ出た。……情けない。
夕陽を吸って赤みがかった芝生を、そぉっと忍び歩いてゆく。チェンタウロは、拳一個は入りそうな大きな鼻の穴から、ズゴゴと音を立てて寝入っている。ちょっとやそっとじゃ目覚めそうにないけれど――。
ちらりと振り返る。フェデリコたちは扉の陰から指先を突き出して「やれ」のポーズだ。
いよいよ、手が触れるところまで来た。竜の体は寝ていてさえ、僕の背の二倍ほども高い。たくましく隆起した筋肉に、びっしりと覆う鱗は鎧のよう。斜陽を受けて、紫色の体は美しく照り輝いている。……まるで宝石箱のように。
――ダメだ。
やっぱりできない。こんな立派で綺麗な竜に、ラクガキなんかしちゃいけない。
引き返そう。殴られてもいい、フェデリコにはっきり言うんだ。こんなことは、
「おい。何しとる」
背骨に雷が走った。
相手が誰だとか、どう言い訳するかとか考えるヒマもなかった。僕は振り向きもせず、
「ごっ! ごめんなさ」
ぎゅむ、と靴の下に妙な感触を感じた。
見下ろせば木の根のようにぶっとい紫の尻尾。
「ヴぇええええええええええええええっ!」「う、うわああああああああああああっ!」
一目散に走り出す。それがまずかった。
逃げる僕の動きに、チェンタウロはかえって荒れ狂った。一声吠えて地を蹴り、背中に吹きつける風と一瞬の影、逃げられるはずもなく、両肩に走る鋭い痛みとともに地面が消えた。
口から飛び出す悲鳴は、痛みのためか恐怖のためか。空中へ連れ去られる僕の眼下、口を開け放って見上げるフェデリコたち、校舎の植木、外壁の外へ――
「うわっ、うわっ、うわわわああっ!」
裏口の階段が、数十メートルの下にある。ばたばたともがく足に、だけど、何の感触も返ってこない。そのこと自体が、とんでもない恐怖だった。
「は、はなして、はなしてっ! ごめんなさい、はなして、ごめんなさーいっ!」
泣きじゃくる僕の言葉が通じたわけではないと思う。が、とにかくチェンタウロは、そこであっさりと爪を外した。
ホッとしたのは一瞬だ。必然、僕の体は支えを失い、どう考えても助からない高さから、まともに落ちてゆく。
「いやああああああああああああああ!」
見えるのは、なすすべなく落下する自分の脚、一気に近づいてくる石段、そして壁の外に大きく張り出した木の枝――