第26話
閉じた空間に、その音はあまりに大きく響き渡った。
「うおっ?」「なに? 今の音?」「雷か?」
樹士たちがぎょっとした顔で次々と部屋から出てくる。それを押しのけ、僕は急角度の階段を死に物狂いで駆け登った。他のものなんて、何一つ見えちゃいない。
――ルーチェ……!
駆けつけた特別室の扉は、一見、いつもと変わらないように見えた。
が、中から聞こえる大きな物音、そして床との隙間、細く漏れ出してくる白い煙……
「ルーチェ!」
開け放った途端、白煙が塊になって襲ってきた。
前が見えない。焦げた臭いが鼻になだれ込む。それを全身で振り払って視界をこじ開け――そこに、もっとも恐れていた光景があった。
夜へと続く大穴。向かいの壁が、大人が悠々くぐり抜けられるほど大きくブチ破られている。なだれ込む突風が、室内の煙をメチャクチャにかき混ぜている。無惨に飛び散った木片、散乱する家具。そして――ぐったりと横たわったルーチェ。
床に散らばるその長髪を、今まさにつかんで引き起こしたのは。
「おーう。さっきはどうも」
白い歯を見せてこちらに笑いかける、金髪長身の竜撃士、レオンさん。いや――
「レオン!」
「おいおい、呼びすてかいな。偉ぁなったもんやなぁ、ジュリオ君」
こんなときなのに、彼の態度はまったくいつも通りだった。力みのない表情、ひょうひょうとした声。これだけのことをしておいて、悪びれた様子など何一つ感じられない。
「えらい散らかしてしもたけど、堪忍してな。雨やからって、爆薬多くしすぎてもてん」
僕はルーチェを見た。無造作に引き掴まれた白い髪の、一部が赤く染まっている。
トサカの名残じゃない。血だ。
「こ……のッ!」
怒りまかせに踏み出した一歩は、しかし、爆音に止められた。
レオンの炸裂銃が床をブチ抜いていた。ほんの足先から立ち上る白い煙に、僕の突進はあまりに無力だった。
「おい、なんだなんだ!」「うわ、どうなってんだコレ!」
騒ぎを聞きつけ、樹士たちが集まってきた。
人々はまず室内の惨状に目を見張り、次いでレオンの突きだす銃口にぎょっと跳ね退く。背後の廊下がたちまち悲鳴で満たされる。
「ハハハ。なんや知らん、まるっきりワルモノみたいやなぁ、俺」
他人事のように苦笑いするレオン。腹の中が焼け焦げそうだった。
「なんで……」
「ん~?」
「なんでこんな卑怯なマネをするんですか。二週間後に会おうって言ったじゃないですか。ジオストラで戦おうって言ってたじゃないですか。あれはウソだったんですか!」
「ウソやで」
あまりに簡単な答えに、愕然となる。レオンは面倒くさそうに金髪をかき混ぜて、
「ほたら聞くけど……自分こそ、なんで『卑怯なマネ』せぇへんの?」
「……な」
「自分かて、俺が憎かったんちゃうん? せやったら、闇討ちでも何でも仕掛けたらええやんか。なんでやらへんの? なんで取れる手ェ全部取らへんの? それこそ、ジオストラで絶対勝てるいう自信でもあったんか?」
その口調には、薄いイラ立ちすら混じっている。
「俺に言わせたらなぁ、欲しいモンのためになりふり構わん自分がよぉ分からんねん。卑怯やらウソやらキレイごとばっかし並べてからに、どんだけ甘いん? 善悪も体面も、そんなん全部かなぐり捨てるくらいの……自分、『執念』いうんが無いんかい」
返事を待つような間があった。
胸の内で言葉を噛み砕く。
やがて僕の胸に湧きあがってきたのは、さらなる怒りだった。
――何だ、その言い草は。
人をだましておいて言うことがそれか。何が執念だ、何がなりふり構うなだ。そんな言葉でごまかされるか。自分の卑劣さを正当化してるだけじゃないか!
「ふざけるな! そんなの、ただの屁理屈だ!」
レオンは肩をすくめた。
「ま、そうやろな。しょせんガッコーの生徒さんやし。……チェン!」
ひときわ強く風が吹き込んでくる。
穴の外、吹き荒れる暴風を縫って入ってきたのは、レオンの騎竜チェンタウロだ。
「こんなとこやったら、キスの一つもようでけんわ。帰ってゆっくりヤらせてもらうで」
そのとき、ふとルーチェが顔をもたげた。
「! ルーチェ!」
「……百年……生きさらばえた末の、これが最期か。ざまぁないの」
乾いた笑い。僕に投げかける視線にも、まるで力が無い。
「すまなんだ。お主には迷惑のかけ通しじゃったな」
胸が潰れそうになる。もはや、ルーチェは全てをあきらめているようだった。
「良き竜使いになれ。わしのことは……忘れろ」
がば、とその身が抱きあげられる。レオンが彼女を脇にかかえたのだった。
「ほなな、ジュリオ君。もう会うこともないやろけど」
強風に踊る金髪を押さえつつ、愛竜の背にまたがるレオン。
ぎり、と歯が鳴った。くやしい。目の前にルーチェがいるのに、歯ぎしりくらいしかできない自分が、何よりもくやしい。
チェンタウロがカギ爪を穴の端にかけ、上体を乗り出す。
レオンはルーチェを抱えたまま、空いた手で手綱をたぐる。そして、
「チェン、発進!」
ぽっかり空いた穴の外へと、飛び立った。
その横から巨大な影が飛びこんできた。
「姐さんッ!」
フェデリコとその竜――身を投げ出すような体当たりが、チェンタウロの横っ腹に炸裂した。
さしものレオンも意表を突かれた。鞍の上で体が傾ぎ、ルーチェを持つ腕がほどける。支えを失くした彼女の体は、必然、奈落の底へ――
考える前に体が動いていた。
床を蹴り、頭から外へ飛び出す。
途端、重力が体を引きずり込む。横殴りの雨風と暗闇の中、落ちゆくルーチェを追って、数百メード下の地面へ突っ込んでゆく。あまりのスピードとすさまじい風切り音に気が遠くなる。
それでも、僕が考えていることは一つだった。
――僕は幸せだ。
こんなときに何を、と人が聞けば思うだろう。
けど、顔は勝手に笑みを形作ってしまう。
道はいつだって目の前に開かれていた。
運命はいつだって、僕を手招きしてくれていた。
バカなのは、僕だった。
伸ばされたその手が見えていながら、自分から通り過ぎていたんだ。
弱い自分に、本当の自分に目を向けたくなくて。
けど今。最後の最後に、チャンスをもらえた。
僕は幸せだ。もう迷わない。逃がさない。後悔なんてしてやらない!
――ルーチェ。
手を伸ばしてくれ。僕にすがってくれ。
僕はこんなにも無力で、あまりにも弱くて、どうしようもないくらいの腰抜けだけど。
でも、そんな僕でもかまわないっていうのなら。
僕は、君と。
「ルーチェ――――――!」
僕の声が届いたのか。ルーチェは頭から落ちながらも、腕を伸ばしてきてくれた。
一心に腕を伸ばし返す。手と手が結びつく。温もりが重なる。
瞬間、下からの風が体をあおり、僕たちは羽の開くように向かい合った。
近づく地面も怖くない。視界に映るのは、僕を見つめる空色の瞳だけ。
「――ジュリオ」
名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。
僕は笑った。かける言葉は、ただ一つでよかった。
「飛ぼうよ」
ルーチェは、頬笑み返してくれた。
繋いだ両手を引き寄せる。
僕から口づけたのも――これが初めてだ。
重たい闇を押しのけて、光が爆ぜる。
黒い大地を薙ぐように、白い翼は舞い上がる。
雨も風も邪魔できない。光の帯を曳きながら、僕たちははるかな高みに舞い戻った。
「姐さん! ジュリオ――!」
枝の一本に留まれば、上からフェデリコの歓喜の声。
そして僕たちの正面、ひときわ太い枝の上。
翼をたたむ紫晶竜の上にその人はいた。
暗闇に浮かぶのはこれまでとはまるで違う、獣のように獰猛な笑みだ。
「あるやないか。執念」
雷が落ちた。一瞬の稲光が、僕とレオンを照らし出した。
僕たちは、同じ高みに、立った。
「決戦、やな」




