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第24話

「ルーチェ! ここを開けて! ルーチェ!」

 もう何百回そう言っただろう。叩きすぎた右手は真っ赤に染まっている。

 しかし、中から閂をかけた扉は、頑として応答しない。

 ――冗談じゃない。

 ルーチェは分かっていないんだ。レオンさんは僕が思っていたよりもずっとずっと恐ろしい相手だった。付け焼刃でもなんでもいい、特訓して力をつけなきゃダメだ。

「ルーチェ! 出よう! スネてないで! ね!」

 扉にへばりつくようにして、枯れた声をしぼり出す。そこでようやっと返事が来た。

「去ね」

 ぶちん、と来た。誰のために言ってると思ってるんだ。なんで僕一人がこんな右往左往しなきゃならないんだ? 僕はルーチェの奴隷か? まさか本気でそう思ってるのか?

 もう我慢ならない。最終手段――廊下の幅いっぱいまで後ろに下がった。息を吸って止める。腰を落とし、首を固め、扉めがけて大きく助走をとり、三、二、一、

「でやあ――――――――っ!」

 封印が開いた。もうもうと埃が舞い、内側に倒れた扉の下に白い腕が見える。痛みを感じるヒマもあらばこそ、僕はその腕を引きずり出し、

「さぁ、捕まえたぞ! すぐ外に……」

 それ以上、何も言えなかった。

 そして僕は、なぜ彼女がああもかたくなに閉じこもっていたのかを、理解した。

 半身を起こしたルーチェ。あきらめたようにうつむく顔。 

「だから入るなと言うたものを……」

 その右半分が、ドス黒く変色していた。


 たとえるなら、石だ。黒くなった部分の表面は水気がまったく無く、ざらついている。指先でそっと触った感触はひどく冷たくて、硬い。

 壊れた扉はとりあえず立てかけておいた。ベッドのルーチェの隣に座り、僕は言葉を探しあぐねた。事態があまりに予想を超えていて、何を喋ったものか分からないのだ。

「い……痛みとかは、ないの?」

「今のところはな。そもそも感覚がない。何より……目が見えぬ」

 右目の眼球部分は、白く濁りきっていて、黒目がない。ベッドに腰かけて、ルーチェは疲れ果てたような声を落とす。

「レオンサンノの『隷属』でわしは竜魂を奪われた。……が、それはもともと人の魂と一体だったものじゃ。完全には分離されなかったゆえ、時間がたつにつれ、向こうに人の魂が引きずられておる。そのひずみが、肉体に現れておるのじゃろう」

「で、でも、僕の命を使って補完したんでしょ?」

「あんなものは一時しのぎにすぎん。いつまでも誤魔化せるものではない」

 ぶっきらぼうに言うルーチェだが、その語尾はかすれていた。

「……このままなら……どうなるの……?」

「範囲が、少しずつ広がってきておる。全身に及ぶのも時間の問題じゃろう」

 愕然とした。

「それならそうと言ってくれれば……」

「阿呆。言ったところで何になる」

「それはそうだけど……このままじゃジオストラが……」

 片目が見えない状態では、明らかに不利になる。しかもフェデリコに教えてもらったとおり、敵はレオンさんだけじゃない。前後左右上下にも目を配らないといけないのに。

 それまでどこか投げやりな感じで答えていたルーチェが、いきなり牙をむいた。

「ジオストラジオストラと……そんなもの、どうでもよいわ!」

「な、何言い出すんだよ! レオンさんに勝てなくてもいいの?」

「勝ってどうするというのじゃ」

 今度は唖然だ。今まで勝つために色々やってきたのに、それを「勝ってどうする」と言われたら返す言葉もない。

「も、元に戻りたいんでしょ。ナワバリを取り戻したいんでしょ? 違うの?」

「なら聞くが、お主はわしに山に帰ってほしいのか?」

「はぁっ? か、帰りたいのはそっちでしょ! 僕がどうしたいとか……そんなの一度も聞いたことないくせに、わけが分からないよ!」

「分かっとらんのは、お主のほうじゃ! 二言目にはジオストラにレオンサンノと……お主、わしのことが心配ではないのか!」

 ぐっ、と言葉に詰まった。

 確かに、ルーチェの体のことより、ジオストラに頭が回っていたかもしれない。

 でも、当たり前じゃないか。そこで勝つことがルーチェの目的なのだし、彼女だって第一に心配するところだろうと思ったから……それなのに。

 一つ深呼吸を入れた。できるだけ気を鎮めてから言う。

「ねぇ、ルーチェ。落ちついて話を聞いて。こうなって混乱してるのは分かるし、僕も同じだよ。だけど、なんとかしなきゃ。……さっき、たまたまレオンさんと会ったんだ。それで分かった。あの人は普通じゃない。ルーチェを手に入れるためなら、何だってする。舐めてかかれるような相手じゃないんだ」

「……わしのこの顔を、お主は気持ち悪いと思うか?」

「え?」

 唐突な質問に僕は意表を突かれ、

「真っ先に思った。見られとうない。お主にだけは見られとうない、と」

 次いでハッと息を呑んだ。

「スカートの履き方など知らぬ。フォークの使い方も百年の間に忘れた。その上こんな姿をさらしては、本当にお主から遠ざかってしまう。わしは人間ではないのじゃから」

「ルーチェ……」

 彼女が何を苦しんでいるのか、僕には分かりかけてきた。

「お主が誰かと話をしているのを見ると、胸が痛い。お主がそばにいないことがつらい。なぜじゃ、どうしてこんな気持ちになる……なんじゃ、この思いは。この痛みは」

 空色の瞳から、雨粒のように涙がこぼれた。見えないほうの目からも。

「こんなところに来なければよかった。竜のままでいればよかった……空でならずっと強くいられた。一人ならこんな気持ちにならずにすんだ。何もかもお主のせいじゃ」

 くしゃりと顔を歪ませ、ルーチェは身を裂くような叫びを上げた。

「お主になど……出会わなければよかった!」

 肩を抱いてうずくまる。細い泣き声が、長く長く尾を引いた。

 僕は身じろぎもできないまま、それを見つめていた。

 僕はどこまで彼女のことを考えていただろう。どれだけ思ってあげられていただろう。

 フォークを使う。スカートを履く。百年竜として生きてきた彼女が、一生懸命、人間の生活に溶け込もうとしていた。それは一体誰のためなのか。

 決まっている。僕のためだ。他の誰でもない、この僕のために。それなのに……

「あ、あの……大丈夫?」

 ハッと見れば、扉の隙間から、心配そうな樹士たちの顔が並んでいた。扉を破る音に集まってきたのだ。僕はとっさにルーチェを胸元に隠した。

「おい、どけ」

 彼女たちを押しのけて、フェデリコが入ってきた。

「フェデリコ……」

 背の高い彼からは、ルーチェの顔が見えたのだろうか。フェデリコはしばらくの間僕らをにらむように立ちつくすと、ざわつく樹士たちに向かって言った。

「見せモンじゃねェ。とっとと失せろ」 

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