第21話
何が起こってるか、分からなかった。
「はい、あーん」
……よし、まずは落ちつこう。こういうときこそ、一つ一つ状況整理だ。
では質問。まず今はどんな時でしょう? はい、それは昼食の時間です。
はい正解。では、ここはどこでしょう? はい、それは食堂です。螺旋階段の間にひときわ深く掘られた、段々畑のような幅広の階段に、長い机がたくさん置かれています。アネルカに住む人たちはここに集まって食事をとるので、周りは人だらけ、さらには向かい側の階段や通りからも、こっちの様子が丸見えです。
では、その周りから丸見えの中で、今、机に座った僕の隣にいるのは誰でしょうか?
はい。今、目の前にいるのは……い、いる、のは……
「ア、ア、ア、アルダさん……」
天秤樹一と言ってもいい、超ド級の美人。目もくらむその美貌が、僕に向かって微笑みかけてきている。そして、そのたおやかな指でスプーンを持って、キノコのリゾットを木の皿からすくい、差し向けてきている。
「どうしたの? 目が泳いでるけど。たくさん食べないと力がつかないわよ」
小さく頭を傾けながら再び「あーん」してくるアルダさん。その開いた唇に、鼓膜を溶かすような声に、世界が踊る。
「あ、あのあのっ……ご、ご飯くらい、自分で食べられますからっ」
「ダメ。本番前の大事な体なんだから。スプーンの重みで手が折れたらどうするの?」
そんなヤツいるかい、というツッコミをする余裕もあらばこそ、パニックは止まらない。ルーチェはフェデリコを引き連れてどこかに行っているし、せめて他に誰か座ってくれればいいものを、八人掛けの長机は僕ら二人を残して空席――というか、この恐るべき事態を遠巻きに見つめている状況だ。
「うわぁ……アルダ姉様、だいたーん」「あーあ、姉様が目をつけたんじゃかなわないなぁ」「ちょっと本気で狙ってたのにぃ」
どうやら彼女は、他の子たちも一目置く存在であるらしい。あきらめ半分、しかしこれからどうなるかという興味半分で樹士たちはこちらを見つめている。
「さ、観念しておクチ開けましょうね? はい、あーん」
まて、これは何かのワナだ。きっとまんまと口を開けた途端、スプーンを引かれてやーいやーいってな感じで、
「はい、あーん」「あーん」
いともたやすく口を開けてしまう自分がくやしい!
「ふふ、素直でかわいい。男の子はそうでないと」
「あ、あの、アルダさん」
「はいはい、分かってるわ。次はサラダね。あ、それとも生ハム?」
「あ、生ハムを……ってそーじゃなくてですね」
「うん?」
「その……い、言いにくいんですけど……こういうの、やめてほしいんです」
切れ長の目がきょとん、と丸くなる。その反応にこっちの気が引ける。
けど、ここで流されちゃいけない。そうだ。アルダさんはオモチャで遊んでいるだけだ。
けど、こっちは免疫がなくて、されること全部に心がぐちゃぐちゃになってしまう。年上の人にこんなことを言うのは怖いけど、ここはちゃんとケジメをつけなきゃダメだ。
「ほ、本番が近いですし、お世話してくれるのはありがたいですけど、なんていうか、そ、それはそれ、これはこれって感じで、からかうのはやめてほしい、と思うんです……よ」
「あら、からかっているように見える?」
「そ、そりゃあ……アルダさんみたいなきれいな人が、僕なんかのことを……って」
「そう言ってくれるっていうことは、少なくとも、悪くは思われてないってことよね。私にもチャンスがあるんだ」
「な、な、何をっ……」
言いだすんだ、この人は。それじゃ、まるで本気で僕のことを……
「や、その、僕なんて全然ダメなヤツなんですっ。チビだし根性なしだしダンゴムシだし、予選のときだって、ただルー……ニワトリにしがみついてただけで……」
もう、自分でも何を言ってるのか、何のためにこんなことを言っているのか分からなくなってきた。混乱して胸元で指をこする僕に、ふと、アルダさんは口元を引き締め、
「自分の魅力って、あんがい自分では気づかないものなのよね」
「ほえ?」
「それを気づかせてあげるのも女の役目だと思うの。……こんなふうに」
つぅ、と。蜘蛛が糸を渡るように、白い顔が近づき。
「――!」
ぺろり。ぬらついた感触が、唇のすぐ横に触れた。
雷に当たったように硬直する僕。アルダさんはゆっくりと身を引き、
「ね?」
のぞかせた赤い舌先に、リゾットのご飯粒が乗っていた。
頭がまっちろだ。赤ちゃん同然に言葉も作れない僕の前で、さらにさらにアルダさんはその米粒を呑みこんでみせる……滑らかな喉元がこくんと動いて、なんだか、なんだか、あ、あ、あああああああああああああああ
がちゃん。
振り向くと、白髪の少女が化け物でも見たような顔で立ち尽くしていた。足元で割れているのは、たぶん、昼食に食べようとしていたピザのお皿だ。
「ル」
僕の声は途中で途切れた。それはなぜかと問われれば、彼女が問答無用で僕の襟をひっつかみ、引きずり立たせたからであって。
「でっ? ちょ、ちょっとちょっとどこ行く気?」
「特訓じゃ」
「え、だってさっきやったばっかり……っていうか練習したくなかったんじゃ」
「黙れ! 気が変わったのじゃ!」
「待ちなさい」
その一言で、ルーチェは止まる。
アルダさんは、落ちついていた。というか、こっちを向いてすらいなかった。頬杖をついて目を閉じ、昼寝のついでのような感じで、
「ねぇ、妹さん? お兄さんは食事中なのよ。無理矢理連れてくなんてひどくなくて?」
『妹』はゆっくりと振り返った。口ぶりは、意外なほど穏やかだった。
「あいにく、こっちは忙しくての。無駄メシ食らってブクブク太るだけのお主と同じにせんでもらえるか?」
ヒィー! またか!
「あらごめんなさい。でもねぇ、戦うのは貴方じゃないでしょう? 少しは休ませてあげないと可哀想じゃない」
「お主と一緒では休めるものも休めんわ。この淫売が」
「随分ねぇ。私、そこまでのことコトしたかしら? 具体的に教えてもらえる?」
見透かしたような笑みに、ぐっ、と言葉に詰まるルーチェ。普段からは想像もつかないくらい、しどろもどろの様子で、
「だ、だから、その……。人前で接吻などと……は、恥知らずなっ……」
「恥知らず? ふふ、おっかしい。ほっぺたくらいで」
アルダさんは座ったまま、僕の手を取った。何かと思う間もなく胸元に抱きこまれ、触れる体温、跳ねる心臓、アゴ先に触れる長い人差し指、
「恥知らずっていうのはね……こういうコトよ」
そのままゆっくり近づいてくる、薔薇色の唇――
「! ちょ、ちょっとアルダさ、」
ドッ、と。背中を黒い熱が焼いた。心臓が今度こそ止まるかと思った。振り向く勇気なんてあるわけない。ゴゴゴ……と地鳴りのような音が足元からせり上がり、
「コケ――――――――――――――――ッ!」「わーッ?」「キャーッ?」
ルーチェはいきなり机の上に飛び乗ると、僕とアルダさんを蹴りつけはじめた!
「コケッ、コケコケッ、コッコッコッ、コケッコッコ―――――――――――!」
「いだーっだだだだだだだ! 落ちついて、ルーチェ! どうどう、ど――っ!」
腰にしがみつくが、完全に錯乱した彼女は止まらない。ニワトリのごとく両腕をバタバタさせながら足を突き出して、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る。
対するアルダさんは、はじめのほうこそ面食らったものの、五発目あたりからニワトリキックを見切ったようで、
「やってくれるじゃない!」
ルーチェの足元を腕で払った。もんどり打って倒れた相手に追撃のチョップを浴びせ、しかしルーチェも仰向けの体勢から突き上げるような蹴りと頭突きで応戦、泥沼の様相を呈してきた机の上、蹴り飛ばされた皿やミルクが散り、悲鳴と騒音と「姉様に何すんのよ!」とアルダさんに味方する女子樹士と「姐さんに何しやがる!」とルーチェに忠誠を誓う男子樹士(いつの間に?)が入り乱れて食堂はめちゃくちゃだ。
「! ルーチェ!」
いつの間にドタバタを抜けだしたのか。食堂の出口に向かおうとするルーチェの背中を、僕は追いかけた。押し問答の人波をかき分け、大股で逃げる背中を追い、どうにかその腕を捕まえたのは、人気のない階段の手前だった。
「ルーチェ! 待ってってば!」
振り返ったルーチェの顔は、まるでケンカに負けた子供だった。濡れた瞳に曲がった唇。ひっくり返ったスープやらミルクやらをひっかぶって、服も髪もべしゃべしゃだ。
「何なんだよ、まだ怒ってるの? アルダさんのこと」
「怒っとらん!」
「だって怒ってるでしょ、どう見ても!」
と、不意に、ルーチェのいかり肩が空気の抜けたようにしぼんだ。
「……怒っとらん。そのことは、もう……怒っとらん、わ」
「それじゃ、一体何が気に入らないんだよ」
そう聞けば、今度は足元をにらんで答えない。言葉にしないのか、できないのか。本当に何を考えてるのかさっぱり分からなかった。
分かってる。僕が今、これだけチヤホヤされてるのは、ルーチェのおかげだ。僕一人じゃ何もできなかった。彼女に文句をつける権利なんて、僕にはない。
だけど、だからって、他の人にあんな迷惑をかけていいわけがないじゃないか。何が気に入らないか知らないけど、ここは山の上とは違う。気分まかせに当たり散らして許されるところじゃないんだ。
「……ねぇ、ルーチェ。何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってよ。僕にできることがあったら、何でもするから」
しばらくの沈黙。食堂の喧噪が遠くに聞こえる。外からの風が洗濯物を揺らす。
「嬉しいか?」
「へ?」
「あのクモ女に『あーん』されて、お主は、嬉しいのか?」
「はぁ……? あの……なんでいきなり僕の話に?」
「言いたいことは言え、と言ったじゃろう」
「そ、そりゃあ、僕だって男だし……女の人にやさしくされたら、その、一応は」
気恥ずかしいが、ここでウソをついたらどうなるか分からない。どもりながらも正直に答える僕に、ルーチェはなおも黙考して、
「分かった」
振りあげた顔は、謎の決意に満ちていた。
「そっちがそうなら、わしにも考えがある」




