第15話
あくる朝はよく晴れた。生まれたばかりの太陽が、木の葉に眠る朝露を輝かせていた。
「よし」
僕は両手で自分の頬を張った。ガケから張り出す木の枝に視線を叩きつける。
手の平はツバですべり止め、袖はヒジまで腕まくり。風がないのを確認して、裸足の足裏を枝にかける。一歩一歩、噛みしめるように進むたび、足元があぶなく揺れた。
――僕は、今まで。
「とっ……! あぶなっ……」
待っていた。ただ待っていただけだった。いつか誰かが、空へ連れていってくれる。僕のことを変えてくれる。そんな日が来るのを、どこかで心待ちにしていた。だけど。
「なにも……ないっ……!」
ここには何もない。僕を変えてくれるものも人も、何にもありはしない。そして。
ルーチェには――僕しかいないんだ。
「僕が、やらなきゃ……っ!」
ナメクジのスピードで足を出す。ほんのわずか身を動かしただけで、みしりと枝が鳴く。
怖い。できるなら、このまま引き返してしまいたい。こんなとき、魔法のようにいっぱいの勇気が沸いて一気に踏み込むことができたら、どんなにいいだろう。
でも、それはありえない。僕は相変わらず臆病で意気地なしで、ちっともカッコいい僕には近づけなくて――それでも、一歩だけ。
干物の端に指先がかかる。下を見るな。怖気づくな。前へ出ろ。限界だと思い込んでいたその場所から、ほんの少しだけでいい。あと一歩だけ、前へ。
「と……」
前へ――
「届いた!」
ぼきん。
「え?」
枝が。
「おれぇぇぇぇぇぇ――――っ?」
真っ逆さまに落ちてゆく。どうでもいいけど僕落ちる回数多すぎないかとか思ってる間に谷底が迫りああああもうダメ今度こそもう、
「おぶっ?」
がくん、と下から突き上げる衝撃とともに、いきなり落下が止まった。な、なんだぁ?
「っかー。やっぱり落ちよった、この阿呆は」
すぐそばからの声に仰天すると、隣にいたのは誰あろう、
「ル、ルーチェっ?」
そしてお尻の下は、ささくれた赤い鱗に覆われた背中――老竜ナムだった。
「このモウロクが、妙にお主を心配しての。落ちたらどうしよう死んだらどうしようとうるさいから、こうしてわしがつきあってやったのじゃ」
『こぞう、れいをいっていけよ。わたしはニンゲンをのせるなどいやだったが、こいつがどうしてもというから』
両者の意見が、全然食い違っているような気がする。
これは、どうしたらいいんだ……
「そ、それはそうとルーチェ、体は大丈夫なの?」
「フン、カゼごときでわしが参るか」
死ぬ死ぬ言ってたくせに、この根拠のない強気。
よかった、ひとまず回復したみたいだ。
ナムの体が谷の岩陰から出る。壮絶な朝日が峡谷を照らしている。白銀の空、黄金の大河、朝もやを抱く森……この世界の何もかもが、本来の姿を取り戻すような朝。
真実の光に誘われるように、ナムがつぶやいた。
『わたしのすえのせがれも、こうやってはやにえをしたものだ。そして、ここをすだったすぐあとに、あのニンゲンにころされた。……さいしょのかりだった』
僕は押し黙った。『あのニンゲン』が誰のことなのか、分かってしまったから。
と、いきなりナムは頭を上げた。必然、角度のついた背中から僕は転げ落ち、どすん、尻から落ちたのは、元いたガケの端っこだった。
「あたたっ」「こりゃ、も少し丁寧に下ろさんか!」
同じく尻もちをついたルーチェが文句を垂らす。もちろんナムは気にするそぶりもない。
『にんげんのにおいがついた。かわであらわねば』
言って、さっさと去ろうとする老竜。その背に僕はおずおずと声をかけた。
「そ、その……ありが、とう」
言葉が通じないのは分かっていた。それでも何かを言わなければと思った。
ナムはしばらくの間、暁の空をながめた。やがて、ひとり言のように、
『あいつは、いままでみてきた、どのニンゲンともちがう。りゅうどころか、ニンゲンにとっても、きっとわざわいになる』
「え……」
『いけ。ちいさきものよ。そして、ぶざまにころされてこい』
こちらから何かを聞く前に、ナムはもう地面を発っていた。赤い翼がゆっくりと岩山の向こうへ消えてゆく。
「……と、ところで、じゃな」
見れば、隣のルーチェの顔が赤い。空を見たり地面を見たり、イライラと足踏みと咳払いを繰り返しながら、口元をもごもごとさせている。
「? どうしたの? 気分悪いの?」
「ち、ちがう。そ、その、なんじゃ。……えー、うむ。まぁ、その……」
つっかえまくりで、てんで要領を得ない。一体何がしたいんだ?
「だから、その。……ゆ、ゆうべは…………だ、から……………………あ、ありっ……がっ、あ、ありが……」
「? 蟻が何だって?」
「だまらっしゃー!」
「ぐふぇっ?」
口に何かを突っ込まれる。ん、何これ?
「ってギャ――! ヤモリ! ヤモリの干物が!」
「ふん。さて、そろそろ行くぞ」
「ヤモリがヤモリが! え、なに! どこに行くって!」
「決まっておろう」
干物を吐き出して振りかえった先、ルーチェはもう調子を取り戻していた。らんらんと光る眼、不敵に吊り上げた口の端。ビシリと伸びた人差し指が、明けの明星を突き刺した。
「殴り込みじゃ!」