第14話
「ぶはくしょい! ……うー、寒気がするわい。羽毛がない体のなんと不便な」
お腹丸出しの格好で、ルーチェは肩を抱いた。夕暮れ迫る峡谷、風が強くなってきた。
そして僕は今日も「はやにえ」に挑んでいる。それも朝から、ずっと。
「こ、こ、こわくないこわくない……下を見るな下を見るな下を見るな……」
さんざん繰り返したおかげで、僕の領土は少しずつだが伸びていた。風の機嫌を読みながら、ちょっとずつ前へとにじり出る。体重を受けて沈む枝先、角度がついて恐怖は倍増、それでも、それでもなんとか。
「あ……あと、一歩……」
「よーし、良いぞ! そこじゃ、手を伸ばせ!」
「て、手を伸ばす…………」
枝の細さは限界で、これ以上は進めない。伸ばした右手の指先の、しかし、わずかに届かないところに干物はあった。いっぱいに背中を伸ばし、あと少し、少しだけ――
「や……」
そこで横殴りの突風が。
「やっぱダメだぁ!」
揺れに耐えかね、僕はお尻から後ずさった。やっぱりできるわけない、怖い!
帰還した僕を待っていたのは、案の定、ルーチェの罵倒だった。
「このダンゴムシ! 少しは根性見せんか! 何回同じところでつまづいとるんじゃ!」
「ムリ言わないでよ! 大体そっちは見てるだけじゃん!」
と、そこでべちゃり、と音がした。
頭の上に何かが落ちてきたのだ。ハテと手を伸ばして取ってみれば、どろりと粘った液体と固体のあいだのようなモノ。緑色をしてはいるけれど、その匂いはまぎれもなく。
「うんち――――――――!」
慌てて手で振り払う。というかそれも汚いんだけど、言ってる場合じゃなかった。
『グフェッ、グフェッ、グフェッ! ザマアミロ!』
空の上からの笑い声は、トンビのように輪になった三頭の竜だ。からかい半分でフンを落としてきたらしい。ここに来てうんち磁石復活だなんて、もう踏んだり蹴ったりだ。
「失せろ、羽虫ども! あと、わしは出ベソじゃない! ……ゲホッ! ゲホッ!」
大声が喉にからんだか、げほげほと苦しげに咳をする。昨日は余裕ぶっていた彼女も、悪口を受け流せないくらいイラだっているらしい。
「ゲホッ、ええい、早う立てイモムシ! お主のせいでわしまでバカにされたではないか!」
げしっ、と背中に衝撃が来た。
それが、ルーチェのかました蹴りだと分かったとき――
僕の中で、何かがキレた。
「いい加減にしろ!」
立ちあがった。背中でルーチェのぎょっとする空気を感じた。
「もうつきあいきれないよ! これじゃ同じじゃないか、レオンさんと!」
結局、彼女だって僕を利用してるだけだ。
『誓約』したのは竜に戻る応急処置。このはやにえはナムへの意地っ張り。全ては自分がナワバリに戻るため、レオンさんへの復讐のため。
僕のことを思って怒ってくれた、なんて、ただの気のせいだった。ルーチェもレオンさんも同じ。しょせん、自分が一番かわいいんだ。
「仕返ししたいなら勝手にやれよ! でもそのために僕を利用するな! 僕は、僕の人生は、君の踏み台じゃないッ!」
溜まった想いを吐き出した。
背後のルーチェは、何も答えない。身じろぎもせず、黙りこくっているだけだ。
と、ふと背中に重みがかかった。
ぎょっとと振り向けば、なんという予想外。
ルーチェの柔らかい肢体が、しなだれかかってきていた。い、色仕掛けだって?
「バ、バカにしないだよ! そんなのでどうにゅかしようたって、そうは……?」
ズタボロに動揺しながら、しかし、僕は気づいた。
よりかかった体が、火のように熱い。
「ル、ルーチェ?」
返事はなかった。背中にかかるのは、ほのかな重みとものすごい熱だ。
「きゅ~……」
ずず、とヒザから落ちながら、ルーチェは目を回していた。
「わしは……あと、何日、もつ……?」
藁の巣の床に横たわりながら、ルーチェは今にも死にそうな声を出した。
「何言ってんの。ただのカゼだってば」
熱っぽい体。腫れたノド。だるさと寒気。どこからどう見てもカゼの症状だ。
濡れたスカーフをしぼり、彼女の額に置いてやる。脇に置いた菜種油の火が、巣の中をさびしく照らしている。
そう言えば、レオンさんに負けたのは体の調子が悪かったから、みたいなことを言っていたっけ。あれは負け惜しみじゃなかったらしい。まぁ、そうでなくとも一日中ハダカみたいな恰好でウロチョロして、カゼをひかないほうがおかしいってものだ。
ぜーはーと息をする彼女の首筋をぬぐうと、スカーフは汗でびっしょりになった。木の葉を編んで作った桶の水で、ぱしゃぱしゃとゆすぐ。
「ずいぶん手慣れとるようじゃの、お主……」
「昔、体が弱くてさ。死んだ母さんによく看病してもらってたんだ」
「なら分かるじゃろう。正直に言え。今夜が、峠なのじゃな……?」
「どこで覚えたの、そういうの」
あきれる僕に、ルーチェはがばりと起き上がり、
「ええい、隠すな! 隠すとためにならんぞ! 本当は不治の病なのじゃろう! 今に真っ黒な血を吐いて髪の毛が抜けて内臓がぶばーっと飛び出して死ぬんじゃ! 死ぬんじゃあ……びゃああああああん!」
怒ったと思ったら、すぐさまわんわん泣きだした。体が弱ったことで心まで不安定になってるらしい。意外と打たれ弱いんだなぁこの人……僕が言うのもなんだけど。
「だからカゼだってば。ほら、横になって。暴れたら余計悪くなるよ」
「いやじゃあ、このまま死ぬのはいーやーじゃ~……」
「だーかーらー。もう、どんだけ怖がりなのさ。頼むから人の話を」
「ちがう」
不意に強い声。僕は思わず口をつぐんだ。
「この世に生を受けたらば、いつか死ぬるは必定じゃ。そんなことは怖くない」
「……じゃあ、何がイヤなのさ?」
少しの間があった。ゆっくりと身を横たえるルーチェ、蚊の鳴くような声で漏らしたのは、思いがけない一言だった。
「お主がいることじゃ」
「僕が?」
「ずっと一人で生きてきた。百年間、一人で空を飛び、一人で竜と戦い、一人で獣を蹴散らし、己を守ってきた。メシを取るのも食べるのも病を癒すのも、誰の手も借りずにやってきた……それが、わしの誇りじゃ」
ルーチェの瞳は、力無く天井を見上げている。
「それが死ぬときにだけ、どうして余人をそばにおける。死に顔を見らるるは恥……。わしを心配するなら、今すぐどこぞに去ね……」
けほ、と小さく咳。力を使い果たしように、ルーチェはまぶたを閉じる。
「……」
もし、彼女が頑丈な竜の姿だったら、これほど症状が悪化することはなかったと思う。翼を奪われ、他の竜たちに見限られ、おまけに病に伏せって、今、一体どんな気持ちなのだろう。いつも傲慢で偉ぶっている彼女だけれど、それは弱くなってしまった自分への、不安の裏返しなのかもしれない。
小さい頃、カゼをひいたときのことを思い出した。寒くて苦しくて、ひょっとしたらこのまま死んじゃうんじゃないかって、不安で仕方なくて――でも、あのときの僕には、母さんがいた。寝ている僕の横に、ずっと一緒にいてくれた。心の底からすくわれた。
今、彼女には――
「大丈夫だよ」
僕は、ルーチェの汗をぬぐった。
「君は死なない……僕が死なせない」
空色の瞳が、ゆるりとこちらに向いた。
「今夜は、ずっとそばにいるから」
灯りがゆらめき、遠吠えが止んだ。
ルーチェからいつまでも返事は来ず、アレ、なんか僕、結構くさいセリフ言った? と今さらならがこみ上げてくる恥ずかしさに不安になりかけたところで、ふと、
「よかろう……」
思わず笑いがこみ上げた。どうして彼女はそういう突っ張った言い方をするんだろう。もっと気楽に言える言葉があるのに。
「あのね……そういうときは、『ありがとう』って言えばいいんだよ」
ルーチェから、返事はなかった。ただ、その息から苦しさは消えていた。
あとは静かな寝息が夜に染み入るだけ――。