第13話
「ムリムリムリムリ絶対ムリ!」
四つんばいで固まりながら、僕は半泣きの悲鳴を上げた。
ぶるぶると震える手足に連動して、視界が上下に揺さぶられる。そうでなくても、風の一吹きで足場はたやすくぐらついてしまう。
それもそのはず、ここは木の枝の上。それも断崖絶壁から谷へ向けて張った枯れ枝だ。
見下ろせば、目もくらむような高さ。大激流が大蛇のようにうねり、岩に向かって白い波を叩きつけている。落っこちたら、五体バラバラは確実だ。
「なんなの、何をしろっていうの!」
「じゃーかーらー。その枝の先っちょに刺してある干物を取れと」
木の根元に腰をおろして、つまらなさそうに言うルーチェ。その指が指し示すのは、揺れる枝先、十メードも以上も向こうに刺した、ヤモリの干物だ。
「『はやにえ』――大人の竜になるための、いわば試練じゃ。仔竜は自分の羽で飛べるようになったら、ガケから飛び立って、親が用意したエサを取る。それができぬようでは狩りなど果たせぬし、一人立ちもできん。道理じゃろう?」
「いや、僕、竜じゃないんだけど」
「さっきナムが干物を刺しに来たとき、言うておったろうが。竜の代表として戦いに行くようなものなのだから、それなりの形をとってもらわねば、と」
「いや、そうじゃなくて。僕、羽無いから。飛べないから」
「最初はみんな飛べぬものじゃ」
「最後から最後まで飛べないよ! なに、僕、虫? 大人になったら飛べんの? 絶対できないよこんなの、今からでもナムってのに言って取り消してもらってよ!」
「えー。アイツに謝るとかイヤ」
「イヤとか言うな!」
怒鳴る僕に、ルーチェはプイとそっぽを向く。これ以上の抗弁は通用しそうにない。
今一度、下を見る。垂直に切り立ったガケをごうごうと風が薙いでいる。向かい側で鳥のついばんだ木の実が、ものすごい時間をかけて、下の川まで落ちてゆく。
「うう~っ……もう!」
意を決して、というより「どうにもでもなれ」という気分だった。僕は四つん這いの姿勢でゆっくりと前に出た。
手と膝をずり動かすたび、心臓が一回り縮んでゆきそうになる。進むごとに背後の地面は遠ざかり、しかも枝は先細ってゆく。体重を受けた枝がみし、みし、と不穏な音を立てて、ダメだ落ちる、助けて神様!
と思った瞬間、神はいた。頭の上から、一本のツタが伸びていたのだ。助かった!
藁をも掴む感じで、ツタにすがりつく。にゅるりとした感触が返ってくる。
「……にゅるり?」
ツタはぬめっていた。柔らかかった。そして生温かかった。
僕は上を見た。ツタの先が鎌首をもたげる。そのツタには、目と口とキバがあった。
「シャーッ!」
「ギャ――――――ッ! へび――――――――っ!」
五分かかって来た枝を、僕は三秒で駆け戻った。
「あ~、ビックリした。怖かったぁ……」
「こっちのセリフだよ! なんでキミが驚いてんだよ!」
へしゃげた巣の中、半分涙目で心臓を抑えるのは僕でなくて、なぜかルーチェだった。
あろうことかこの人、ヘビが出てきた瞬間、僕より先に逃げ出したのだ。
「場所的に全っ然安全だったじゃん、君なんか! 何、竜のくせしてヘビが怖いの?」
「あのニョロニョロが生理的に合わんのじゃ。……へ、へ、へくちん! ったー、冷えてきたのォ。もうよい、寝る。続きは明日じゃ。今日は疲れたわ」
「こっちの台詞だよ、それは……」
呆れ果てつつ、しかし、僕のほうもひどく疲れていた。なんて一日だったんだろう。
……ん? ちょっと待て。……寝る?
「……あの。ひょっとして、ここで、二人で、寝るつもり? この巣の中で?」
「心配するな、まだどうにか使える。高さはないが、寝る分には問題なかろう」
そう言うルーチェは、すでに藁の上で横になっている。質問の意図が通じてない。
「いや、そうじゃなくてね。その……君、平気なの?」
「は? ああ、心配するな。寝ぼけて食ったりはせぬ。わしは人は食わぬのじゃ」
この時点で、僕は相互理解をあきらめた。何しろ百年も竜として生きてきた相手だ、恥じらいとかそういう概念を教えたころには、夜が明けている。
つまり、こういうことだ。今夜、僕はこの巣の中で寝る。ハダカ同然の格好の女の子と、二人っきりで、夜をすごす。
ズドン、と全身に汗が出た。
(な、なにそれ。そんなのあっていいの?)
生まれて十四年、はっきり言ってモテたことなんてない。いつも根暗だとか気弱だとかさんざん言われ続けて、女の子と仲良くすることなんてほとんどあきらめていた僕が……この、とんでもなく可愛い、しかもハダカ同然の女の子と……寝る?
「うーむ、どうにも寝にくいのー。人間の体は」
ぶつくさいいながら、横になったり丸くなったり寝相を工夫するルーチェ。そのたびむき出しのおへそとか脚の付け根とかがなまめかしく動いて、僕はもう、
「とっ……とりあえず寝るねっ!」
「? おう、好きにせい」
背中を向けて横になった。まずい、耐えられない。このままじゃ変になる!
後ろで寝返りの音がするたび、心臓が弾けた。僕らの距離は伸ばした腕がちょうど届くくらいの距離だ。背中側の藁が少し沈んでいるのはルーチェの体重のためで、そのことを意識した途端、全身がこわばった。藁を伝って体温が感じられるようだ。
たとえば仮に何かの間違いで、いや、間違いなんてありえないけど、何かこう天の配剤? みたいなのであれがこうして、文字通りここが愛の巣になってしまったり……
悶々とした妄想の煙で、いよいよ体が破裂しそうになった、そのときだった。
ポイ、と。頭越しに何かが飛んできた。
「……ん?」
ネズミの頭だった。
「ギャ――――――――――――――――――!」
絶叫とともに起き上がる。振り向くと「もにゃ?」と不思議そうな顔で、ルーチェがほっぺたを丸く膨らませている。
その唇からニョロリとのぞくのは、その、し、しっぽ……
「何してんのォ!」
ルーチェは、口の中をもごもごさせながら、
「いや、腹が減っての。ちょうど潜り込んできたのを」
「だ、だ、だからって、そんな、ね、ね……とにかくそんなの食べちゃダメだよ!」
「ハァ? そんなのもこんなのも、わしのメシは百年こうじゃぞ。昨日今日生まれた若造になんで説教されにゃならん」
言って、ルーチェは尻尾をちゅるんとすすり込んだ。ヒィー!
「やめてやめて、女の子がそんなことしないで! 少年の夢を壊さないで!」
ヘビは怖いって言ったくせに! ヘビは怖いって言ったくせに! ちょっと可愛いかもって思わせたくせに!
「何をギャーギャーと。お主も一匹どうじゃ? ハラへっとるじゃろう」
「たとえ飢え死にしてもまっぴらゴメンです! やだ女の子こわい、こわいよぉ!」
「贅沢なヤツじゃの。こんなに美味しいのに……」
眉をひそめて咀嚼を続けるルーチェ。
もうドキドキなんて吹っ飛んでいた。その日の朝は……あまりに……遠かった……。