第11話
「さ、さ、さ……」
感動の飛翔から、およそ三十分。白竜の背に乗って雲間を泳ぎながら、僕は。
「さむい――――――――!」
死にかけていた。
「ねぇ、まだなのキミの家って! もう凍え死にそうなんですけど!」
なにしろ雲の上の高さだ。冷気は明らかな悪意をもって肌を刺してくるし、風は満々の殺気で口をふさいでくる。
空にあこがれていた自分を後悔したくなるようなこの環境。巣でも便所でもいいから、早くどこかに降りないと、確実に死ぬ。
「オスなら辛抱せい。キンタマついとるのか? さっきからあまり存在を感じぬが?」
「な、なんてことを……!」
「おっと、ここじゃ」
ルーチェはやおら右の翼を折りたたみ、大きく旋回した。そのままなだらかに降下して行くが、僕の眼に映るのはいっぱいの雲ばかり――と、不意に雲が途切れた。
またしても僕は魂を抜かれた。
大河だ。ものすごい水量の川がゆっくりと流れている。
その脇には、ナイフで削ったような鋭い山々。ごわついた白い岩肌の断崖絶壁と、そこを轟々と流れ落ちる巨大な滝。川べりから山の中腹までびっしりと突き刺さっている緑は、スギの木だろうか。山の頂上に霧のような薄い雲がかかっている。――大峡谷。
「すごい……」
「ここいら一帯から川の上流までが、わしのナワバリ。ねぐらはあそこじゃ」
言って、ルーチェは降下を始めた。気温は低いが、湿気がすごい。鼻の奥までへばりつくような空気をかき分けながら降りてゆき――断崖の端に、それはあった。
『どデカい袋』。そうとしか言えない。上下に十メードくらいはあるだろうか、たしかに竜一匹が丸々入れそうな、巨大な酒袋のようなものが、小さなガケの端にぶら下がっている。全体的な茶色さは、どうやら藁や樹の枝を編んで作ったためらしい。
「ここなら寝ておる間に、獣どもにちょっかいを出される心配はないからの」
たしかに、空を飛びでもしない限り、侵入できそうにない。イチジクのように上が閉じた巣の入口は、袋の下側、ちょうどポットの注ぎ口のように垂れ下がった管だ。
ルーチェは管の下に身を躍らせると、ばさりと翼をあおぎ、爪を内側にひっかけた。そのまま僕を乗せて、器用に内側を登ってゆく。
「うわあっ……」
登り切った先。巣の内部は見た目よりさらに大きかった。なだらかなすり鉢状の床は軽く走りまわれそうなくらい広く、密室なのを忘れるくらいの開放感がある。
巣の真ん中あたりにしゃがみこんだルーチェの背から、そっと降りる。
革靴の裏に伝わる感触はやわらかく、やさしく体重を受け止める、それはまるで上質のベッドのようだ。
「暖かい……」
「藁で風を防いどるからな。光だけが入るようにするのは苦労したわ」
「え。これ、全部キミ一人で作っうわああああ!」
振り向いた瞬間、僕はブッ飛んだ。
ルーチェは人間の姿に戻っていた。しかも、またもや一糸まとわぬ姿で。
「当たり前じゃ。他に誰が作ってくれる」
「いやっ、そ、それはいいから! コートどうしたの!」
「あー? あんなモン、竜に戻ったときに破けたわ」
「じゃ、竜のままでいてよ!」
「無理を言うな。お主が離れたら竜の姿は保てぬ」
「……え? そうなの?」
「術者と対象の体が離れたら、効力が切れる。発動させるには、その都度唇での接触が必要になる。それが『誓約』じゃ」
って、つまり竜になりたかったら、そのたびキ、キスしないといけない、と……? な、なんて卑猥な設定なんだ……!
「と、とにかく頼むから何か着てよ。目のやりどころに困る」
僕は背中を向けた。「これだから童貞は」などと微妙に痛い愚痴をこぼしながら、ルーチェは壁から藁のカタマリをはぎ取って、服を作りはじめた。意外と手先は器用らしい。
見えない背後から、がさがさと音が聞こえる。い、今どの部分を作ってるんだろうか。まだ裸だろうか。いろんな想像が頭の中をかけめぐり、僕は誤魔化すように声をかけた。
「そ、それで、さっき言ってたけど、なんで僕がレオンさんと戦わなきゃいけないの?」
「あァ? まーだ状況が呑み込めとらんかったのか、お主は!」
肩をつかまれ、振り向かされる。って、ちょっ!
……と、目をおおう僕の心配は、無用だった。ルーチェはすでに作業を終えていた。
胸と腰回りに巻かれた、藁の帯。必要最低限のところしか隠していないが、とりあえず目視はできる。そう、見るだけは……見る、だけ、は……
――いい。
思わずうなずいてしまった僕を、一体誰が責められよう。はじめてじっくりと見るルーチェの体は、身惚れるくらいに綺麗だった。
肩、腰、腕、脚、おなか、手、指。どこをとっても滑らかな肌。胸のふくらみは正直、無いに等しいけれども、すっと通った体のラインにむしろぴったり合っている。
「こりゃ。何をボアッとしとる」
「あ、ゴメン……。ええと、何の話だっけ?」
「殺すぞ。レオンサンノとの決着の話じゃろうが」
あ、そうか。と呆ける僕に、ルーチェは不機嫌そうに鼻息を吹かした。ついで「よいか」といかにも語って聞かせてやるという体で、その場にドスンと腰を落とす。
ぶつん。と、頭上からなんだかイヤな音がした。
ルーチェもハテ、と思ったらしい。二人して見上げたそのとき。
「どわっ?」「のおっ?」
がくんと揺れる巣、砕け散るような衝撃が下から襲い、天地が激しくひっくり返る。巣全体がとんでもない勢いで回転しながら落下してゆき、くんずほぐれつの僕とルーチェ、やがてドガン! と強い衝撃ともに落下と回転が停止した。
ぱら、とちぎれた藁が降ってきた。丹念に作られたルーチェのねぐらは、無惨にへしゃげてしまっていた。
「な、な、何が一体……?」
「……ふん。人騒がせな団体客じゃな」
ルーチェは鼻を鳴らしてそう言い、がさごそと潰れた巣の外に出た。
僕もそれに続き、そして、その場に固まった。
竜だ。それも、一頭じゃなく、何十頭もの。
岩に、木に、地面に、空に。赤いのも青いのも黒いのも黄色いのも、とにかくあらゆる種類の竜が僕らをぐるりと取り囲んでいた。