第10話
道の先は、行き止まりだった。
風吹きすさぶガケに立ち、僕は両膝を折った。隣では、少女が舌打ちをしている。
岩場から巨人の舌のように突き出た足場。目もくらむような高さから下をのぞけば、風巻く谷の底に、無表情な岩山がある。もちろん、落ちればおしまいだ。
「ほい、ここまでー」
死神のように、レオンとその竜が降りてきた。巨人の舌の根元に着地し、逃げ場をふさぐ形――追いつめられた。
「レオン、さ……」
「たのむわ、ニワトリちゃん。俺とつきあってぇな。一生パスタ作ったるから」
「い・や・じゃ!」
舌を出してみせる少女。レオンさんは落胆した様子も見せず、竜から降りると、
「しゃーないなぁ。ムリヤリやなんて趣味とちゃうけど……足の一本もブチ抜いとこか」
のんびりと少女に銃を向ける。少女はギッとにらみつける。
すでに二人の目に、僕は入っていない。これが演劇なら、僕は脇役以下もいいところ、風になびく草あたりの配役に違いなかった。
こうなる運命だったんだろうか。生まれたその瞬間から、僕という人間は、誰にも必要とされず、どうでもいいように死んでゆくように定められていたんだろうか。
教えてほしい。誰か。僕は、僕は――
「? おいおい、ジュリオ君。何のつもりや、それ?」
不思議そうに聞いてくるレオンさん。無理もない。
自分でも思う。本当に何のつもりだろう。
こんな。こんなふうに、両手を広げて、少女の前に立ちはだかるなんて。
「おーい、当たったら死ぬで? 分かってんのー?」
もちろん分かっている。なんだったら、僕のヒザを見てくれたらいい。これ以上ないってくらい、ガクガクになってるから。
――何をやってるんだ、僕は。
彼女を守る。なんて、そんな大それたつもりじゃない。僕にそんな力がないのは、誰よりも僕自身がよく分かってる。
レオンさんは銃を下ろさない。
底無しのように黒い銃口が、じっと僕を見下ろしている。
怖かった。死にたくなかった。もしできるなら、今すぐ悲鳴を上げて逃げ出したい。
なのに体はその場を動こうとせず、それどころか口までもがぐちゃぐちゃの嗚咽と一緒に、背後の少女に向けて、言葉をつむぐのだ。
「き、きみ……」
僕はここで死ぬ。それはもう、どうしようもない。
だけど、なら、せめて。
「に……」
最後の最後くらい――
「にげて」
カッコつけて、死にたい。
このみっともない人生の終わりに、ほんの少しくらいの花を添えたい。悪者から姫を守る、お話の中の騎士みたいに、一瞬でいい、なってみたい。
レオンさんがため息をついた。
「これが最後や。五つ数える間に、そこをどけ。そやないと、撃つ」
死の秒読みがはじまる――5。
背中から、くっくっ、と少女の笑い声。こんなときに何を笑うんだ――4。
「おい」
「な、なに? 早く行って!」
時間がない――3。
「お主、名はなんという」
形見に名前を覚えてくれるのか――2。
「ジュリオ! ジュリオ=ユリアーノ!」
1。
「おい」
「だー! 今度は何ぃ!」
0。
「チビるなよ」
聞き返すヒマはなかった。
首筋に腕を回され、後ろ向きに引き倒され、銃声が轟き、足元から地面が消えて、ガケから真っ逆さま。
「わ――――――――――――――――――――――――ッ!」
岩場と空がメチャクチャな勢いで遠ざかってゆく。頭の後ろから暴力的な風が吹き上げ、それをブチ破りながら僕の体はガケの下へと落ちてゆく。撃ち殺される覚悟はあっても落ちて死ぬ準備はしてなくて、まぶたを絞った瞬間、ふわりと抱きしめられる感触が来た。
開いた視界一杯に、少女の笑みがあった。そして唇が――
「Serva me servabo te Julio Iuliano」
重なる。
息が止まる。数瞬遅れて何が起こったのか理解したそのとき、世界が光にうずもれた。
光の球――落ちる僕らを中心に、ガケまで覆い尽くすような巨大な光が膨らんだのだ。
「な?」
飛んでいた。大地をかすめ、上空へと弧を描いて一気に浮かび上がってゆく。
少女はどこにもおらず、その代わり、足元にいたのは、なんとあのニワトリだ。
『しっかりつかまっておれよ!』
人間の声じゃない。だけど、なぜか今の僕にはそれを聞き取れた。
「な、な、な、な、ど、ど、ど、どうなっ、どうなって」
『誓約の魔法じゃ! お主の生命そのものを、竜魂の代わりにした!』
「はいぃ? 何がなんだってぇ?」
『分からんならいい! とにかく落ちるなよ!』
頭を上げて上昇するニワトリ。後ろ向きに転がりそうになった僕は、必死に背中の羽毛をつかむ。首をねじ曲げてみれば、はるか眼下のガケの端、わずかに見えたのは、こちらを見上げるレオンさんの、呆然とした表情だけ。
いきなり視界が灰色に染まった。
雲の中だ。轟音の中、ニワトリが「目を閉じておけ」と言うのがかすかに聞き取れた。言われるまでもない。雲は固体になって顔を叩き、全身を縛る重みと顔面にかかる突風、まさかこのまま天国まで昇るつもりなのか、いや、ひょっとしてもうとっくに到着してるんじゃなかろうか、そんなふうに思った瞬間、不意に風が途切れた。
『――もう開けてよいぞ』
言われるままにした途端、針の痛みが眼を刺した。閉じ直した視界が真っ赤になる。痛みがゆっくりと過ぎ去ってゆくのを待ち――
「あ……」
瞼一枚。開いた向こうは、別世界だった。
雲の海だ。丸く広がった山脈の中に、白い雲が溜まっている。
太陽を背負ってそびえ立つ向こうの山脈は雲よりなお高く、太陽を背に受けてきっぱりと黒かった。その漆黒に向けて、雲は波立って押し寄せてゆくように見えた。見上げれば、空の頂上はもはや青ではなくて、果てしない漆黒だ。
魂を抜かれた。息苦しくて、とんでもなく寒くて、だけど僕は、何もかもを忘れて目の前の景色に吸いこまれていた。
知らなかった。空がこんなに広いだなんて。雲が、こんなに甘いだなんて。
『チャハハッ、きンもちいいィィ―ッ! やはり空はいいのう! 鼻水出そうじゃわ!』
……台無しだった。
『さぁて、行くとするか』
「へ? 行くってどこに?」
『決まっとろう。わしのねぐらじゃ! レオンサンノを倒す準備をせねばの!』
頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言っているのか分からない。
ただ、一つだけ。聞いておかなければならないことがあった。
「ねぇ……キミのこと、なんて呼んだらいい?」
いつまでもニワトリと呼ぶわけにはいかない。
『クルムディウス=クレアンデル=セベルタージ=エレクティウス=リリクトルーチェ』
「……呪文?」
『わしが人間だったときの名じゃ。まぁ、全部言うのも面倒じゃし、好きに呼べ』
僕の糸はまだ切れていないのかもしれない。運命は、この空のようにどこかにつながっているのかもしれない。そして、そこへ引っ張ってくれるのは、ひょっとしたら――
「そ、それじゃあ……」
呪文のような名前の中、僕は一個だけ、聞きおぼえのある発音の単語を抜き出した。
いつか授業で習った、今はとっくに失われた、ゾディアの古い言葉。
「ルーチェ、で」
その意味は、『光』だ。