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第1話

 竜のうんちは、臭い。

 もちろんうんちが臭いのは当たり前なのだけれど、竜はその臭いが半端じゃない。鼻がひん曲がるとか涙が出るとかの次元を超えて、嗅覚そのものがすり潰されるような臭さだ。

 もちろん僕は『学校スクオーラ』に入るまで竜に触ったことはないし、生まれ育った村は貧しくて牛や羊もあんまりいなかったから、野性の竜が襲いに来ることもほとんどなかった。

 その僕がどうして竜のうんちの臭いを知っているかというと……小さい頃、外に出ると、必ずといっていいほど、空飛ぶ竜にうんちを落とされたからだ。

 井戸汲みのときも、麦刈りのときも、初恋の相手のモニカと一緒に歩いているときも、なぜかうんちは図ったごとく頭の上に落ちてきた。当然のように僕のアダ名は「うんち磁石」になり、当然のようにモニカには嫌われ、僕は上を向いて歩くのが癖になった。

 もちろん空から襲い来るうんちを警戒してのことなのだけど……だからだろうか。

 村の誰よりも、空の綺麗さを知るようになったのは。

 どこまでも高くて青くて、一日だって同じ顔は見せない、大きな空。

 そんな空を、僕はきっとモニカよりも好きになった。何度うんちを落とされても、僕の中の気持ちは消えず、むしろ大きくなっていった。はっきり憧れるようになったのだ。

 空に。空を飛んでゆく竜に。

 そして、それを駆る竜撃士ドラゴーネに。 


「フェデリコ! どうだ調子は!」

 よこされたミッタル鋼のヘルメットを受け取り、テヘナ草で緑に染めた頭にかぶる。

「良くねぇな! 昨日徹夜なんだわ! 賭けチェスやっててよ!」

「研修の前だから早く寝ろっつってたろーがよ!」

「心配いらねぇって! こんなトコに野良竜なんぞ来ねぇよ! なぁ、フォルゴーレ!」

 鞍の上からブーツの蹴りを入れると、独特の甲高い鳴き声が返ってきた。

 蒼玉竜ザッフィーロはゾディアに棲む竜の中でも比較的な大きな種で、頭から尻尾まで六メード以上もある。どっしりとした体を覆う鱗は、その名の通り蒼玉サファイアのように青い。コウモリ型の皮翼が羽ばたくたびブドウ畑が激しく波立った。

 手綱を絞ると竜は激しく翼を動かした。土煙が上がる。周囲の人間が一斉に離れてゆく。

発進ボラーレ!」

 強靭な二本の肢で地面を蹴り、フォルゴーレは空へ発った。力強く羽ばたく翼、舵をとる尾。烈風に乗って、六メードの巨体はあっという間に空の極みへと吸いこまれていった。

 それを見送りながら。

「いってらっしゃ~い……」 

 僕は、ひらひらと力無くスカーフを振った。

 空に向かってついたため息を、潮風がさらう。土と草と海の香りが混ざり合っている。

 天秤樹区ビランチャの南に位置するこの村は、イレニア海がすぐそこだ。なだらかな斜面に造られたブドウ畑からは、定規で引いた水平線が見渡せる。

 竜の発進が終わり、手の空いた後衛アポージオのみんなは、おのおのの道具を持って散らばってゆく。生徒たちは多くが都会育ちで、ブドウの木がツルであることも知らない。夏の初めで粒の小さいブドウを珍しそうにながめたり、畑の脇の収穫小屋を指差したり。

 そして、田舎育ちの僕は、離れて一人、ぽつりと空を見上げ続ける。

 うっすら白んだ地平線から群青色の天頂まで、空は高さとともに青を重ねてゆく。雲ひとつない天盤を、竜のシルエットが気持ち良さそうに横切ってゆく。まるで泳ぐように。

「いいなぁ……」

 あそこから見れば、僕なんてきっとブドウの実より小さく見えるだろう。……けど。

「おい、ジュリオ」

 けど、僕もいつかはあそこに行きたい。そして、もっと……

「ジュリオ! ジュリオ=ユリアーノ!」

「えっ、あ、は、はいっ!」

 慌てて振り向いた先にイラ立ち顔。フェデリコにヘルメットを渡していた先輩だ。

「ボケッとしてんじゃねーぞ、さっさと荷物片付けろ!」

「す、すみません、うっかりして……」

 そこで先輩はなぜか僕をじっとりと見つめた。次いで「はぁ~っ」とため息をつき、

「お前さ、トシいくつ?」

「え? あ、じゅ、十四です」

「知ってるよバカ。俺が言ってんのは、十四にもなってそのクセやめろっつーこと」

 胸元を指される。僕の両手は、知らないうちに互いの人差し指をこすり合わせていた。

「あっ……。す、すみません、自分でも気づかなくって……いつものクセで」

「ったく、なんか見ててイラつくんだよな、女々しくてよ。今度こそやめろよ」

 面倒くさそうに言い残して、先輩は去ってゆく。それを見送り、僕はまたうなだれた。

「……また、やっちゃった……」

 いつもこうだ。人と話すとき、特に怒られているとき、無意識にこのクセが出てしまう。怒られている自分が妙に小さく見えて、すがるものが欲しくなってしまうのだ。

 そして、いつも思う。

 空を飛べたら、変われるだろうか。こんな自分から抜け出せるだろうか。

 この地面から離れて、風に乗ってどこまでも飛んでいけたら。あの、いつも見上げるばかりの竜に乗ることができたなら――

「おいッ、チビ!」

「ひぅっ?」

「てめぇ、ブッ殺されてぇのか! 荷箱運べって――」

 先輩の声は、そこで途切れた。不思議に思って振り返る。

 先輩は、脚をばたつかせながら、空を飛んでいた。

 頭を竜に食われながら。

「うわああああああああ――――――――――ッ!」

 僕の悲鳴を受けながら、野良竜は地表スレスレを滑空する。蒼玉竜に匹敵する巨大な翼がつむじ風を巻き起こす。

「襲撃――――――――――――ッ!」

 悲鳴のような誰かの声で、休憩していた後衛の先輩たちが一斉に飛び出してきた。

紅玉竜ルビーノだ!」「野良竜がなんでこんなとこに!」「何やってたんだ見張りのヤツは!」

 燃えるような鱗の竜は、そのまま上昇した。頭を丸呑みにされた先輩は首から下だけでバタバタともがき、

「ぎゃぶっ!」

 凄惨な悲鳴。喉を食い破られたのだ。

 後衛の先輩たち級友の無惨な姿に顔を歪めながらも、竜撃砲を肩に隊列を作った。

 ガチン、と撃鉄が落ちると同時に、一メードもの細長い砲身が火を噴いた。

 次々に飛んでゆく弾丸は、そのうち一発が標的の肩口に当たった。炸薬が爆ぜ、閃光と白煙が弾ける。揺れる竜の顎から先輩の――おそらくもう死体がぐちゃりと落下する。

 が、当たったのは急所じゃない。竜の硬い鱗は貫けない。白煙の中から紅の巨体が飛び出し、どすん、と僕の背後で重たい音。「へ?」と振り向けば、赤い鱗が目の前にあった。

「うえぇぇッ?」「ヴォォォォォォオオオオオンッ!」

 僕の悲鳴は、一メードの距離で放たれる咆哮にかき消された。なんでなんで、よりによって、僕のところに来るッ?

 竜の体の前面、ウロコで覆われていない桃色の皮膚の、ノドの部分だけが腫れたように赤い。『学校』で習った記憶が確かなら、それは怒っている証拠だ。 

 二本の脚は土をかくばかりで、もう何の役にも立たなかった。死を呼ぶ顎がぐわ、と迫り、もうダメだと目をつむったその瞬間。

 竜の頭が後ろに弾けた。

 爆煙が上がり、たたらを踏む竜。何が起こったか分からない僕の、まさにすぐ後ろから烈風が吹きつけた。

 現れたのは、紫の鱗の紫晶竜アメティースタだ。

 紅玉竜より少し小さな翼を広げ、僕の頭上をまたぐようにして一度上昇、鋭い宙返りで降下してくる。その背の鞍に乗った男の人を見て、僕は目を見張った。

 ――あの人は!

 『学校』の生徒じゃない。もちろん引率の先生でもない。けれど、あの金髪と、両腕にびっしり並んだ洗礼紋――後衛のみんなが歓声を上げた。

「レオンだ!」「『トゥオーノ』のレオナルドだ、本物だ!」

 レオンさんの右手、竜撃士用の小型の銃――炸裂銃が閃光を放った。銀色の銃身から放たれた弾丸は紅玉竜の頭に直撃、爆音とともに脳震盪を起こした紅玉竜が崩れかける。

 が、敵もさるものだ。紅玉竜はしぶとく立ち直ると、地を蹴って空へ逃げた。

 読んでいた。紫晶竜はすでに相手の逃げ道に身を躍らせていた。強靭なカギ爪がまんまと飛び込んできた獲物をひっつかみ、そのまま地面にたたきつける。

 首根っこを押さえつけられ、紅玉竜は動きが取れない。激しくもがくその背中に、レオンさんがバッと飛び移った。 

 懐から取りだしたのは、一振りのナイフだ。竜の後頭部に素早く刃を走らせる。鱗をひっかく硬質の音がする。目にも止まらない速さで、『洗礼』の円が描かれてゆく。

「ヴォオオオオンッ!」

 しかし最後の抵抗か、紅玉竜は渾身の力で頭を振りあげた。レオンさんはとっさに角に手をかけて踏みとどまるも、一瞬の不覚、ナイフが手が離れてしまった。

 刃が虚空に銀色の弧を描く。そして、その弧の行き着く先は。

「……え?」

 これまたよりにもよって、僕の足元だ。

「えええええええええええええッ?」

 紅玉竜はなおも暴れ続ける。格闘するレオンさんは、こっちを見るスキもない。

 このナイフは術者の血を混ぜて鍛錬した特注品だ。代わりはきかない。これがなければ『洗礼』はできない。

 遠巻きに伏せる同級生たちが、僕の足元を指さして叫んだ。

「ジュリオ――! 拾え! 拾って渡せェ――!」

 無茶言わないでほしい。目の前では竜が地響きを立てて暴れている。丸太のような野太い尻尾ときたら、かすめただけで首が吹っ飛びそうだ。

 ――ダメだ。ビビるな。

 行かなきゃ。僕だって竜撃士を目指してるんだ。ここでひるんでどうする。

 足が震えている。腰も抜けている。恐くて恐くて恐くて恐くて、それでも。

「い……」

 ――行け!

「動くな!」「え?」

 声と同時に地面が爆ぜた。

 何が起きたのか分からない。爆音とともに胸に何かが強く当たる痛み、真っ白な視界が回復したときには、ナイフが空中で弧を描いていた。

 つまりそれは、レオンさんが地面を撃ってナイフを弾き飛ばしたわけで、ナイフは柄から僕の胸に当たって跳ねかえったわけで、その向かう先はレオンさんなわけで――と、そこまで分かったときにはもう、当のレオンさんは飛んだナイフを受け取り、洗礼紋を完成させていた。

「我が名を聞け! 我が血を受けよ! 我が名は――レオナルド・ネスタ!」

 カッ、と光があふれた。円の中から紅色の煙が――『竜魂』が激しく吹き出し、それはすぐさまレオンさんの右腕に向かってゆく。すでに満員状態の腕の、かろうじた空いた部分に、竜に刻んだのと同じ模様が浮かび、煙はそこへ吸い込まれてゆく。

 光が収まる。暴れていた竜が、翼をたたんで大人しくなる。『洗礼』が終わったのだ。

 ドォッ、と沸き上がる歓声。先輩たちが両手を上げて飛びあがり、英雄のもとへと殺到してゆく。押し寄せる人波。笑顔の洪水。喝采の渦。

 そして僕は――動いていなかった。

 動くな、なんて言われるまでもない。奮い立ったのは頭だけで、体は一歩たりとも進んでいない。その場に腰を抜かしていただけの「その他大勢」に他ならなかった。

 レオンさんが竜の背を降りる。英雄の周りに歓喜の人垣ができる。なおも続く人の波にさんざん足をぶつけられながら、僕はどうしようもない現実を噛みしめていた。

 僕は――腰抜けだ。

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