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確乎不抜ノ戦闘記  作者: 鳥終螺
第一部 黒塊戒告部隊編
9/28

絶望の指揮者 7 「虚構の邂逅」

遅くなりました_(._.)_

 秋ノ葉が土曜日何をしていたのかと言うと、それはもう様々な言い方ができる。

 一つには何もしていなかった、というものがある。が、これだと「何をしていたのか」という問いの答えになっていない。となると、息をしていた、というのが正しいのかも知れない。

 息をしているなんて事は当たり前の事であり、わざわざ言う必要の無い事である。だがそれをわざと言うという事はそれ以外に述べる点が皆無であるという事を意味するのだ。

 故に言い方を変えれば、「ベッドに横たわっていた」とか、「寝ていた」とか、「ボーっとしていた」とか、そのような言葉が出て来るのだろう。

 とにかく、秋ノ葉は土曜日、部屋から出なかった。正確に言えば食事の時はあの広大な部屋に赴いたのだが、基本的には新しく与えられた自分の部屋に引き籠っていた。

 引き籠っていてする事などあるのか、と言えばそれはする事が無いに決まっている。だから秋ノ葉はただ呼吸をするに留まっているのである。

 しかし、秋ノ葉も何も考えない訳では無い。人間である以上、やはり何もする事が無くなると何かを考え出すものだ。

 秋ノ葉が考えていたのは金曜の昼の事であった。

 昼、というのは秋ノ葉が目を覚ました時である。つまり、折木谷とドミノ倒しのようになってソファーで仲良くぐっすり眠っていたあの場所で目覚めた時である。

 あの時の事を後悔しているのかどうかと訊かれれば、秋ノ葉自身、それはよく分からない。

 そもそも、後悔と言って、何を後悔するのかが分からない。

 睡魔に負けて寝てしまった事。重なって眠っている所を人に見られた事。それに対して反論の余地が無いという事。

 どれも事実としては正しいが、後悔をする元になるのかどうかは怪しい所だった。

 怪しい場所で怪しい事があっても別に怪しくは無いのではないだろうか。

 いや待てよ、と秋ノ葉は自分の思考にストップをかけた。

 怪しい場所で起こっている事ならその事象がどんな事であれ、怪しく見えるはずだ。その事象が元々怪しかったら、尚怪しく感じるはずである。

 例えば、真夜中の学校に忘れものを取りに来た(今の学校は真夜中に入る事すら出来ないが)少年がいるとする。

 その少年が自分の教室に入り目的の物を取ろうとした時、バランスの悪い位置に置いてあった黒板消しが落ちる。その現象は何ら不思議の無いよくある光景なのにも関わらず、真夜中の学校という不気味な場所で起きたというだけで、通常とは比べものにならない恐怖を呼ぶものであろう。

 そして、もしそこで起こった現象が、黒板消しが浮く、なんていうとんでもないものだったなら、場所が場所、状況が状況なだけに恐怖は数倍に跳ね上がることだろう。

 故に、怪しい場所――この場合では秋ノ葉が滞在中のこの建物――で起きた怪しい事というのは、ただ単に怪しい訳では無くなってくるのだが、ここまで来て秋ノ葉は自分が何を考えているのかが分からなくなり、考えを放棄した。

 別に放棄しても良いのである。秋ノ葉以外にこの考えを知る者などいないのだから。

 大分脇道に逸れてしまった話を元に戻し、秋ノ葉はあの時の事を頭の中で再現してみた。

 まず、自分を起こしてくれたのは心里三氷だったはずだ。

 快活な彼女には合わず、起こし方は至って普通であった。普通さで言うのなら、目覚まし時計の音並である。

 まあ、それは置いておき、三氷の顔が最初に視界に入った時、やけに彼女がニヤニヤしていた事を覚えている。

 奥のソファーには四五六や救井兄妹もいて、モニター前では神崎が簡易椅子に腰を掛けてコーヒーを啜っていた。

 幸いだったのは、折木谷が目覚める前に自分を起こしてくれたという事だろう。

 上に重なっているのは折木谷の方だが、やはり後に起こされると色々大変な事になっていたのではないだろうか。

 そこは良かったのだが、結局秋ノ葉は皆に弱みを握られる事となってしまった。

 そして秋ノ葉は折木谷の弱みを握っているという事になる。(折木谷は秋ノ葉も一緒になって寝ていたという事を教えてもらっていない)

 だが、秋ノ葉にとってそんな事は大した事ではなかった。

 勿論、一緒に寝てしまった事は悪いと思っている。けれど、知らない組織に連れられてきた秋ノ葉はそんな「日常の中のイレギュラー」より圧倒的に、現在置かれている状況がイレギュラーなのである。

 最早小さな事に構っている暇は無い。(小さな事なのかどうかは定かでは無いが)

 しかし、この隊の人間は、少し冷やかしはしたものの悪意のあるような雰囲気は無く、また執拗にネタにするような幼稚さは持っていないようで人間的には信用できるのかも知れない、と断片的にではあるが思った。

 と、金曜の事を考えてみたものの、すなわち過去を振り返ってみたものの、秋ノ葉がきになっているのはどうしたって明日の事だった。

 日曜日。

 約束の日である。

 無論、端から約束が守られるとは思っていない。相手はもう自分の事を覚えていないのだから当然である。

 秋ノ葉が気にしているのはメンタルの方であった。

 いくら理解しているとは言え、所詮知っているというだけ。

 理解と納得は違う。知っていても受け入れられない事はある。

 秋ノ葉が恐れているのはつまりそういう事である。

 現実を見せられた時、自分は正気でいられるか。

 好きな人に、好きとも言われず嫌いとも言われず、ただ無知と無関心を突きつけられるという事実に対して、正気でいられるのか。

 無関心を向ける、とは関心が無い、という事と同義である。何もしていないという状態を、何もしないという事をしている、と強引に動作として認識させているだけなのだ。

 という事は、無関心を突きつけられる、その事実は「名も知らない彼女との縁を完全に断ち切られた事」の象徴に他ならない。

 だとすれば、彼女の中の秋ノ葉は死に、秋ノ葉の中の彼女も死ぬ、という事だ。

 記憶から消されるとはそういう事なのだ。

 秋ノ葉は、片方がいなくなっても、すなわち死んでも、もう片方が覚えている限りその人は永遠にもう一人の中で生き続ける、という考えをある程度受け入れている。

 ただ、それには例外、極めて広範囲の例外が存在するとも思っている。

 この考えには死んだ側が最後までもう片方の事を記憶に残していた事が前提として存在するのだ。

 死ぬ前にもう片方の存在に興味が無くなって忘れ去って、その後死んだのなら、もしそれでもう片方が死んだ人の事をいくら覚えていていくら愛しく思っても、共有出来ない感情ならばそれは押しつけとなり、単なるストーカーと変わらない。

 そしてこの考え方は相手が生きていようといまいと関係無い。

 記憶から完全に抹消されるとはこういう事である。

 秋ノ葉は今になって、本当の死の本当の意味を悟ったのだった。

 知らないものは無いのと同じ。

 それは知った時に初めて意味を持つ。

 知らないものは無いのと同じ。

 知る前は無かったと思われていたものが実際はあった、となればそれは実際にはあったのであろう。

 だから今存在しないとされているものはシュレディンガーの猫の箱の中から永遠に抜け出せないのだ。

 知るまで分からない。

 有るのか無いのか分からない。

 故に知らないものは、知らない段階である以上無いのと同じなのである。

 死の根源的意味が存在の消失なのだとしたら、本当の死とは誰の記憶にも残らない事である。

 と、秋ノ葉は思考をグルグル頭の中で回した。

 こうまで哲学的な頭になってしまうのはこの状況下では仕方無い。

「そう言えばさっき四五六が出て行ったな……何しに行ったんだろう……」

 誰かに呼ばれて外に出て行ったのは確か四五六だったはずだ。

 しかしそれを確認した所でその理由を知る必要も無いし知りたいとも思わない。ただの事実確認だった。

 こうした無駄で怠惰で陰湿な雰囲気を纏うその部屋で、秋ノ葉は一日、貴重な休日である土曜日という日を過ごした。

 真っ白な天井を見上げても、そこにはただ天井があるだけである。

 だが、そこに天井があるという事実は、秋ノ葉には納得できた。



 無駄な一日などというものは無い。どんな一日にも意義はある。だが、秋ノ葉が過ごした土曜日は一般的に無駄とされる過ごし方であった。

 しかし日曜はそんな訳にはいかない。

 夜の九時頃には既に寝ていた秋ノ葉は早朝四時に目を覚まし、五時にはもう出発の準備を終えていた。

 今まで彼女との待ち合わせの際、十一時より前に時間を設定した事は無かった。

 故に今回も早くても十一時に行けば良いのだが、彼女が来るという保障は無く、むしろ九分九厘来ないだろう。

 それでも秋ノ葉には行かねばならない理由があった。 

 約束したから。

 それだけと言ってしまえばそれだけなのだが、それを「それだけ」という矮小な価値に固定する事は他者には出来ない。

 秋ノ葉にとっては、それはそれだけで十分大切な意味を持っているのだ。

 が、五時に準備が完了したということはつまり出かけるまでに――三十分前にいるのは当たり前として――映画館に行くまでに徒歩約一時間かかるから――まだ四時間半も時間があるという事になる。

 食事は大体七時から八時くらいなのでそれまでにも二、三時間ある。(ここではご飯はみんなで食べる事になっている、と昨日の食事中に聞いた)

 つまり、秋ノ葉は現在暇なのである。

 だが精神に余裕がある訳では無い。気持ちが早まるばかりで時間は一向に進んでくれない。

 誰もが経験する、待ち遠しいという感情だ。

 ただやはり、秋ノ葉の場合楽しみで待ち遠しいという訳でも無かった。

 楽しみでないのなら、待ち遠しいという言葉は不適切かも知れないが、秋ノ葉が「時間よ、早く過ぎ去ってくれ」と感じているのは確かである。

 この時間ならきっとまだ皆寝ているだろう。

 徹夜続きだった(と言っても昨日はぐっすり寝ていたが)折木谷や、元気溌剌の三氷が早起き体質とは思えないし、兄妹は(自分と二歳ほどしか違わないが)まだ小さい。四五六は昨日どこかへ出かけて来たようで帰って来た時にとても疲れた顔をしていたためまだ寝ているはずだ。(土曜日は引き籠り気味だった秋ノ葉とは言え、出迎えくらいはする)御吉野はそもそもこの建物に住んでいる訳では無いようだからここにはいない。

 後は神崎だが――彼ならば起きているかも知れない。

 未だ神崎の性格をよく理解しているとは言えない秋ノ葉だが何となく神崎が起きているような気がしたのだ。

 別に神崎が起きていようといまいとそれで何かが変わる訳では無いのだろうが、広間に行ってもし神崎がいれば話相手くらいはしてくれるのではないか。

 それに昨日の夕食の時、明日の当番は自分だというような事を言っていた気がするのでその分早く起きたという事はあり得る。

 秋ノ葉は四五六と一緒の時に買った薄目の上着と黒い革製のバッグ(元々この部屋にあった)をベッドの上に置いて部屋の外に出た。

 秋ノ葉の部屋は西側の端なので陽射しが眩しいという事は無いが、窓を見れば少し明るい、というくらいにはもう日が出ていた。

 隣の部屋はまだ静かなのでやはりまだ折木谷は寝ているのだろう、その部屋の前をそっと通り過ぎ、ホテルの様な廊下を歩いた。

 外からの見かけによらず、中は(特にこの三階は)西洋風の造りになっているので旅行気分が無い訳でも無い。

 豪華な窓から下を見下ろすと、そこに見えるのはただの道である。

 大都市の外れ、田舎町の中の都会、という具合にも見えるこの付近の、変哲もない景色が見えるだけ。

 だがその窓枠を通して見ると、貧相な景色なの変わらないが、どこか遠くへ来てしまった気がした。

 実際はそれ程遠くない。少なくとも秋ノ葉が実感している程は遠くない。距離的には遠くない。だが秋ノ葉の精神は数日前とは全く別のものになっていた。

 数日で人はここまで変わるのか、と思う程、変わってしまっていた。

 悪い事だろうか。

 いいや、決して悪い事では無い。

 人は変わる。時代の流れ、時の流れ、人の流れの中で否応なしに変わっていく。

 だが、変わってみてから昔を懐かしむ気持ちが溢れて来る。

 意図して変わったのか、流されて変わったのか、それは関係無く、変わったという事実だけが過去を連想させる。

 秋ノ葉も数日前の過去を何度も頭に甦らせた。

 今自分がここにいるという事がどのような経緯をもってなされたのかを幾度となく考察した。

 ただ、秋ノ葉の心はどうしたって今のこの状況を受け入れようという結論からずれる事は無かった。

 天変地異を受け入れた。

 だから今、秋ノ葉はこの場所にいる訳だし、こうして二階へと降りて広大な部屋のドアを開けたのである。

 ドアを開けるのはもう何回目にもなるのでそれほど特別な事では無いが、その先に神崎だけしかいないという光景は初めて見た。今までは必ず黒塊戒告部隊のメンバーが二人以上は居たのだから。

 とは言っても別にそこに誰がいようがいまいが何ら影響は無い。

 先に人がいるとなれば秋ノ葉のする事は一つである。

「おはようございます」

 部屋は広いがそれほど音が響く訳ではないので、秋ノ葉は奥の調理場にいる神崎にも聞こえるように少し大きい声で挨拶をした。

 神崎はドアの開いた音でもう秋ノ葉に気づいていたようで、火を消すと少し秋ノ葉の方に歩いてくる。

 秋ノ葉も少し駆け足で近寄り大体真ん中辺り、大きなテーブルがある所で止まった。

「おはよう、秋ノ葉君。今日はよく眠れたかな?」

「はい、ぐっすり眠りました」

 本当は決して安眠などしてはいないのだが、ここで不用意に心配させるのは良くないと思い、ナチュラルに嘘をついた。

 これが嘘かどうか、それが神崎にばれていたとしてもここでは別に問題の無い事である。コミュニケーションを円滑に進める為の一つの手段と言えよう。

 神崎は微笑みを絶やさず、

「そうか、それは良かった。早くこの生活に慣れるといいね」

 と、どっちとも取れる返事をした。

「いつも神崎さんがご飯を作っているんですか?」

「いや、料理係は週番制なんだ。私と心里君と救井兄妹と八百万君で、四週毎で回している」

 さり気なく、本当にさり気なく折木谷の名前が抜けている事に秋ノ葉はすぐには気づけなかった。

 そう言えば、一昨日、料理がどうのこうの、と言っていた気がしなくもない。

 あまりに意外過ぎて記憶から抹消されていたのかも知れない。

 そんな秋ノ葉の表情を読み取ったようで、神崎は微笑みを苦笑いに変えた。

「ああ、折木谷君はね、ほら、あれだから」

「は、はい」

 日本語において指示語の「あれ」というものほど便利なものは無いのではないだろうか。

 ある特定の状況において「あれ」は全てのものに対して代用でき、また、何かをぼやかして言いたい時には「あれ」を用いる事によって相手に自分の真意を伝えるという事を妨害できる。

 実に画期的な言葉(昔からあったが)だなぁ、と一人感嘆した。

「今週は私の番だからね。こうして朝早くから作っているという訳さ」

「こんなに早くから作らないといけないんですか?」

「別に普通の料理を作るだけなら皆が起きてからでも良いのだが、私はこれでも一応隊長だから、色々忙しくて昼食や夕食を作る暇が無い時もあるのだよ。今日は結構忙しいから三食分を作っているんだ。まあ、買ってきても良いのだが、やはり隊員の健康状態の為にもなるべくバランスの取れた食事を、と思ってね」

 変わらぬ表情で言う神崎を見て、大人だ、と秋ノ葉は思った。

 それもただの大人ではない、社会的に見本となる、理想の大人である。

 仲間の事をよく考え行動する、その姿をしっかり学ばなければならない、と決心した。

「あ、あの、邪魔にならないようでしたら手伝わせて下さい」

 手を振り料理場へ戻りかけている神崎に歩み寄り、秋ノ葉は言った。

 せっかく早く起きたのだからそれくらいはしよう、と思っての行動だ。

「本当かい? それは助かるな」

 台所に並べられていたのは既に完成したいくつかの料理と、ジャガイモ、豚肉、調理油、等々であり――神崎が何時に起きたのかは知らないが――恐ろしい手際の良さだった。

 これほどの腕ならば自分の助力はいらないのではないかと思ったが、やると言った以上手伝わせてもらおうと前向きに考えることにした。

 秋ノ葉の料理スキルは簡単に言ってしまえば中の中くらいである。

 男にしては料理好きの類なので得意の方に入るかも知れないが、とにかく秋ノ葉の腕は普通の域を出る事は無い、その程度である。

 それに対して神崎は料理人のような手際で次々に調理をしていく。

 秋ノ葉は料理に関して非常に詳しい訳では無いが、神崎の腕は一流のシェフ並なのではないだろうか、と今更ながら思ったりもした。

 昨日も神崎の料理を食べているため本来そこで非常に美味な神崎の料理に驚嘆すべきではあったのだ。が、あまりにも自然な美味さであったため気づかなかったのである。殆どは買って来た物だったようだが。

 キッチンと思われるゾーンは広く、調理台も広いので、狭くて困るなんて事は起きそうにもないが自分がここに突っ立っているのは邪魔なのではないかと思い、

「ジャガイモの皮、剝きましょうか」

 目の前にあるジャガイモを取った。

「ああ、ありがとう。昼食用にジャーマンポテトでも作ろうかと思って」

 神崎は完成した料理(恐らくは夕食用か昼食用)を冷蔵庫に入れた。

 冷蔵庫の中を遠くから少し覗いてみると、そこにはこれまた完成した料理がいくつか並べられていた。

 確かにこれほど人数がいれば作る量はかなりにのぼるだろう。

 もう一度神崎の寛大さに感心し(ゴロがいいとかそういうのは関係ない)、秋ノ葉は手際よくジャガイモの皮をむき始めた。

 ジャガイモというものは何とも不思議な食材である。

 食材には群分けというものがあるが、その分け方は教育課程毎に異なり、そもそも栄養がどうとか色がどうとかで勝手に分けたものである。

 その中でジャガイモは大きく言って野菜に分類される訳だがその一方で、カロリー的な観点からすれば十分に穀物として扱えてしまう。

 野菜から最初に食べると良いと言われる中ジャガイモだけはその「野菜」の中に含まれていなかったりする。

 そんな不思議な存在であるジャガイモだが日常的な食事において欠かす事が出来ない食材であるのは明白なので、ジャガイモの存在意義は最早それだけでいいのではないだろうか。

 という結論を導き出すと、秋ノ葉の皮むきスピードが少し上がった。

 しっかりと手伝いが出来ているという事は嬉しかった秋ノ葉だが、同時に居づらくもあった。

 いつもなら神崎はこういう状況下において場を和ませる、または円滑にするために何か話しかけてくれるのだ。けれど今朝は本当に忙しいようで凄いスピードで調理をしているので交わされる言葉は無く、こちらからも話しかけづらい。それによってジャガイモの皮むき速度がさらに上昇したりもするのだが。

 そこから約一時間、何も話さないまま料理が完成したと思われた。

「よし、取り敢えずはこんなところかな。秋ノ葉君が手伝ってくれたおかげで早く終わったよ。ありがとう」

 神崎は調理器具をささっと除けると少し大き目のソファーに座った。

 一人で突っ立っているのも何なので秋ノ葉もその対極に座る事にする。

 座ったはいいがやはり何のお題も無いので気まずいのである。

 何とか話を探して、不自然な間ができる前に切り出した。

「あ、あの、料理は全部冷蔵庫に入れてしまって良かったんですか?」

「ああ、朝食は皆が揃い始めてからの方が良いと思ってね。材料はもう用意してあるし、朝食だけならすぐできるから」

 なるほど、と思ったが、納得してしまったが故に次に続ける言葉が見当たらなかった。

 暫し静寂が続く。

 神崎は別に何ともない風でニコニコしているが、秋ノ葉としては何か喋ってもらいたいのである。

 神崎は話題を提供できない、というよりは秋ノ葉が話題を提供するのを待っている、という感じなのだ。

 待たれてしまっては何かしらの応答をせねばならない。秋ノ葉は表情には出さないが必死に考えた。

 ふと、昨日どこかへ行った四五六が頭をよぎる。

「あ、そう言えば、昨日四五六がどこかに行ったと思うんですけど、仕事か何かですか?」

 女性の行動にいちいち何かを言ってはいけないものだが、仕事、というワードを織り込む事で、「休日に一人で仕事、または任務を行う事はあるのか」という新入りにしては至極妥当な疑問に変換できる。

 秋ノ葉に何を訊かれたところで神崎が動揺する事は無いのだが、やはり今回も全く意外さを感じさせなかった。

「お、四五六君の事が気になるのかい? それは結構。良い事だね」

 仕事に関する質問として言ったのだが、神崎はそうは取ってくれなかったようだ。

 だがここで焦っては何だか負けのような気がしたので神崎を真似して平静を装った。神崎が装っているのかどうかは定かでは無いが。

「いえ、休日に一人で仕事をするという事があるのかな、と思いまして」

 脳内の言い訳をそのまま流用した。

 神崎もそれによって何か腑に落ちたような顔をする。案外秋ノ葉の意図していた事が通じていなかったのかも知れない。

「私達の組織も流石に、休みの日に女子高生を一人で働かせるような悪い集団じゃないさ。まあ、偶には、というよりは結構頻繁に、休日の任務が入る事はあるけれど一人でするようなものは殆ど無い。そもそも我々の組織自体、休暇は曖昧だからね。平日でも何も無い時は基本ただの休みと同じだ。四五六君はね、昨日はお友達に誘われて遊びに行ったのだよ。いやぁ、若いっていうのはいいね」

「友達って、学校の友達ですか?」

 弓先高校に通っているらしい四五六だが、この組織に属しているのだから学校を休む事も多くなるのではないだろうか。それこそ不登校並に。そんな状況で遊びに誘ってくれる友達がいるのは幸せだと思った。

「ああ、そうだよ。クラスメイトの女の子が八百万君の携帯に連絡してきたらしくて。少し嬉しそうな顔をしていたのだが」

 とても不自然、という訳では無いが神崎は途中で言葉を切った。

 躊躇っている様子は無い。秋ノ葉がこの先を聞きたいのかどうかを様子見しているような表情だった。こんな切り方をされては秋ノ葉でなくとも気になってしまうだろう。

 じっと黙っていると神崎が続けた。

「秋ノ葉君は見ていないだろうけれどね、最近八百万君は少し具合が悪そうなんだ。体では無く心の方が。……少し前に、私にこう相談してきた。近頃よく幻聴が聞こえる、と」

 秋ノ葉は先日一緒に帰った四五六を思い出した。昔の嫌な思い出を思い出として語れるくらいには風化したと思っていたがそんな事は無かったのだろうか。

 いや、その幻聴がトラウマ絡みだとするのは早計かも知れない。だが秋ノ葉は直感を信じるタイプである。何か関係があるような気がしてならなかった。

「大分病んでしまっていて、昨日は良い気分転換になると思ったのだが昨日は相当参っていたようだったよ」

 秋ノ葉は単に疲れているようにしか見えなかったが、昨日出迎えた時の四五六は精神的にとても不安定だったようだ。

 組織に入ったばかりで仕方無い事ではあるが、仲間の様子の変化に気づけないのは少し悲しかった。

「彼氏でもできれば明るくなると思うのだがね。秋ノ葉君、どうかな」

「えぇ!? いえ、僕は……」

 好きな人がいます、とは言えなかった。

「冗談だ。でも八百万君がつらそうにしていたらそっと助けてあげてほしい。きっと彼女は――」

 セリフを途中で区切り、神崎は目を鋭くして口に人差し指を当てた。静かに、という事らしい。

「おはようございます。あれ、秋ノ葉君ももう起きていたのね」

 扉が開けられ四五六が入ってくる。

 入ってくるような音はしなかったため秋ノ葉は神崎の危機察知能力に驚いた。

 神崎の察知能力を無駄にしないために、また四五六を心配させないために、秋ノ葉は微笑んで挨拶を返した。

「おはよう。日曜なのに早いね」

「秋ノ葉君のほうが早いじゃない。神崎さんも相変わらず早いですね」

 秋ノ葉の横、少し離れた所に腰を下ろした四五六には特に気怠そうな様子は見られない。

 だが神崎に事実を教えられた今となっては四五六の平静さもあまり信用ならないのであった。

「さて、じゃあ揃い始めたから私は朝食を作ることにするかな」

 アイコンタクトで秋ノ葉に何かを伝えてから神崎はキッチン(のような場所)に戻った。

「秋ノ葉君、昨日はちゃんと眠れた?」

 眠そうにもしていない四五六は首を傾けてそう訊いてくる。自分の心配をした方がいいと思う、なんて事を言えば感づかれてしまう可能性があるのでやめておいた。

「そっちこそしっかり眠れた?」

 が、別に訊き返すこと自体は普通の事であるので問題は無いだろう。

 遠くから神崎が微笑んでいるのが目に留まってしまったがそれは気にしないでおく。

 朝の挨拶を終えた所で、神崎の時とは比べものにならない程起きてはいけない静寂を回避する為に素早く頭を回転させた。

「四五六はいつも朝早いのかな?」

「そうね、私は早起き、というよりはいつも規定の時間に起きるタイプだと思う。学校には殆ど行かないから規則正しく起きる必要は無いとは思うけれど」

 フライパンの上で油が撥ねる音を聞きながら早朝に同年代の女子と上司のいる中二人で会話をする、というシチュエーションは恐らく今自分が経験しているのが人類史上初だろう、とよく訳の分からない事を考えながらも、沈黙回避のセリフを考える。

 が、よく考えてみると(さっきからよく考えているが)こちらから質問ばかりしていては気持ち悪がられるのではないかと思い、少し口を開くのを躊躇った。

 まだ会って数日であり――それは一緒に買い物はしたが――未だ知り合い、という域から出ていないはずの相手から質問攻めされるという事がプラスに解釈される事な筈が無い。

 ではどうしたら気まずい雰囲気を回避できるのだろう。それは勿論、四五六側から話をしてくれるのを待てばいいだけの事なのだが――

 待てばいいだけの事であった。

「秋ノ葉君? どうしたの?」

 少し考え過ぎた為妙な間が空いてしまった。

 この間を変な風に解釈されたらどうしよう、と思ったがその解決策を考えている内にまた不自然な間が空いてしまう事は明白であったので、仕方ないながらもひとまず質問を続ける事にした。

「秋ノ葉君はきっと、質問ばかりしていては迷惑なのではないか、と考えていたのだと思うよ」

 質問しようとした所、思わぬ方向から神崎が話に乱入してきた。

 しかもその内容は図星であったので言い返す事も出来ない。

「え、そうなの? 別に大丈夫よ。寧ろ新しい仲間に私の事を知ってもらうのは大事だし」

 その通り、というのも癪なので秋ノ葉は沈黙を貫いた。

 すると今度は自分が質問する番なのかな、と四五六は思ったらしく、何かを考え始めたようだ。

 考えているため当然その間お互いは喋らない。妙では無いがあまり良くない静けさだった。

「おはようございます」

 しかしその空間は幸い長くは持たず、静かな声が部屋中に薄らと響いた。

「おはようございます」

 すっと立ち上がり最初に秋ノ葉が立ち上がった。

 折木谷は金曜の夜の事を聞かされていないので平然としているが秋ノ葉の方はそうはいかない。

 だが、何故立ったのかと言われると何も反論できないのでそのまま円卓のような所(朝食を食べそうな所)の椅子の傍で立ち止まった。

「おはよう!」

「おはようございます!」

「お、おはよう……」

 と、続けざまにぞろぞろと三人が入ってきた。

「おや、すぐに揃ってしまったね」

 そう言う神崎の手元には既に完成された料理があった。

 それを運んできて机の上に置く。

 いくら材料が揃えてあったからと言っても早すぎでは無いだろうか。

「おっ! 神崎さんもう料理出来てるんですね!」

 三氷を先頭に今来た組が一斉に席に着いた。その三人を見ていると何だか、お姉さんと妹と弟のような感じがする。

 立っている人間で残りの皿を運び、準備が整うと折木谷と四五六も席に座った。

「ああ、そう言えば、心里君の提案で一泊二日の旅行に行く事になった」

 席に着いた神崎はふと思い出したように言った。

 初耳の人にとっては随分と唐突だっただろう。

 皆少しだけ驚いているがタダは大分嬉しそうにしていた。

「旅行、ですか! 楽しみですね!」

「随分と久しぶりではないですか」

 折木谷も出かける事は好きなようで明るい表情をしている。

「だから近日に用事がある人は教えて欲しい。誰かいるかな?」

 神崎が尋ねたが手を挙げる者は誰もいなかった。

「……私は君たちの友好関係が心配になるよ。まだ若いのだから友達と遊びに行くくらいの事があって当然なのだが……まあいい。無いのならばなるべく早く予約を取っておこう」

「神崎さん、私達に私用が無いのは普通だと思いますが」

「大体はここで寛いでいるけどね!」

 神崎がリモコンのボタンを押すと壁が透明になった。

 部屋に朝日が差し込む。

 歪な塊は未だ宙に浮いているがそれでも朝はやってきた。

 家族というにはまだ関係が浅すぎて、知り合いというには多くを知り過ぎた、正に仲間といったところの人間と、こうして朝食を食べる。

 理解は出来なくとも、納得はした。



 つい話し過ぎて気づいたときには既に九時半を回っていた。

 用事があるから、と急いで出てきたものの実のところどの映画館に行くかを約束していた訳ではないので少し悩んでしまう。

 が、いつも(といっても数回だが)映画を見る時は駅前じゃないほうの近くの映画館、と決まっていたので今回もそちらの方で待つ事にした。

 移動に一時間取っているので少し急げば予定通りに着くだろうという憶測を立て、秋ノ葉は駆け足で街中を横断する。

 朝から街は人で賑わっていて、日曜出勤のサラリーマンや戯れる学生の姿を横目に、特段すれを羨む事も無く走り続ける。

 のだが、走っていて気づいた事がある。

 秋ノ葉は急いで出てきた為、というのは変かもしれないがあまり考えずにベッドの上においたバッグを手に取り薄手の上着を着て出てきてしまったのだ。

 こんな暑い中、薄いとは言え上着を着れば当然更なる暑さに襲われる事になろう。走っていれば尚更である。

 一言で言えば非常に暑いのであった。

 だが急に止まって上着を脱ぐと何だか目立ってしまうような気がして憚られる。

 次信号に捕まった時にしようと決断し秋ノ葉はそのまま速度を落とさずに走った。

 何もそこまで急ぐ必要は無いのに、秋ノ葉は走った。

 本気で走らなくても一時間以内には着けるし、時間の三十分前にいる必要も無い。

 増してや、彼女が来る可能性は億に一つも無いと言える。

 にも関わらず秋ノ葉が足を緩められないのは約束を守らなければならないという使命感の他に未練を振り落とそうとする闇雲さも原因としてあるように思われる。

 信号に捕まった時、と決意したものの秋ノ葉は結局赤信号を避けて映画館へ向かった。

 その方が早く着くのかどうかは分からないがとにかく秋ノ葉は足を止められずにいるのだ。

 時計を確認する暇も無く周りを見る暇も無く、だがそれでも盲目という訳では無かった。

 見る暇が無いだけで見えるものは見えるのである。

 交差点を横断する社会人や学生、さっき見た光景は何ら変化を見せない。

 当然場所も人も変わってはいるのだが同じ街中の他人という観点で見れば、何一つとして変わっていない。

 映画館の前までノンストップで走った秋ノ葉は汗だくになっていた。

 半分程屋根に遮られた太陽は尚秋ノ葉の体温を上げ続け、水分を奪う。

 入口前の日陰に身を委ねた秋ノ葉は素早く上着を脱ぎバッグにしまった。

 随分湿ってはいるがバッグの中にこれと言って濡れては困るものは入っていなかったので問題無いだろう。

 Tシャツを摘みパタパタさせながら腕時計を確認するとデジタル時計の数字は十時五分を示していた。約一時間前の到着である。

 早く着き過ぎたかも知れないが本当は誰と待ち合わせしている訳でも無いので早いも何も無い。

 秋ノ葉が自動ドアをくぐると冷たい空気が彼を包んだ。

 冷房が大分利いているようで少し身震いする。汗が冷えてあまり良い心地がしない。

 乱れた息を少しずつ整えながら秋ノ葉はエスカレーターで二階に上ると小さ目のベンチに座った。ベンチとは言っても木製では無くソファーに近い。

 座り心地は中々で、ここでなら一時間やそこらは待っていられると思った。

 辺りを見回すと殆どが若者で埋め尽くされている。日曜というだけあって午前中から中学生や高校生で満ちているこの空間は、秋ノ葉にとってはあまり良い場所では無かった。

 数日前までその中の一人だった自分がその集団を外から眺めている。その事が単にショックなのだ。それだけでなく、実際これ程の学生がいると億が一、あり得ないとしても彼女が来た時に見つけにくい。

 目の前の現実を受け入れたくないとかそういう事ではないが秋ノ葉はだんだんと瞼が重くなっているのを感じた。

 ――あれ、このまま眠っちゃうのかな……

 今までの疲れがどっと来たという訳ではあるまい。それは金曜日辺りに済ませている。

 その疲れは今までの、というよりは今走って来た疲れ、と言った方が適切であった。



 目が覚めて時計を確認すると既に昼を回っていてお腹の空いてくる頃だった。

 もしかすると彼女が来ているのではないかと夢にも無い事を思ったが当然そんな事は無く、変わった事と言えば右隣の机と椅子のセットに男子高校生が二人座ってお喋りをしている光景くらいである。

 その他天井から床までを見渡しても人の波があるだけ。まだ視界が少しぼやけているが、取り敢えず今映画館のベンチに座っているという状況は覚えていた。

 学生達は制服姿でチケットを買っているが、そう言えば彼女が制服で来るとは限らない。

 二人で出かける時も――制服デートが好みでは無かったのか――彼女は毎回私服で来た。秋ノ葉もそれほど制服デートにこだわりがある訳では無かったのでオシャレに気を使いつつ普通に私服で遭っていたものだった。

 故に、自然に学生服を目で追ってしまっていた秋ノ葉だがそんな事は無意味であった。

 よくよく今の自分を見つめてみると休日に映画館のエントランスで隅の椅子に腰を下ろして学生を眺めている変態がいた。

 脳内にふと変態、という言葉が出てきた事に衝撃を受けながらも一度目を擦って瞬きをする。

 どんなに今の自分が痛々しい事をしていると自覚してもこれをやめる訳にはいかない。

 約束は「日曜に映画を見に行く」というもの。時間の指定は無い。ならば、彼女が来るまで一日中でも待ち続けるべきだ。

 実際は一日隅で座っていたら不審者扱いされてお店の人に話しかけられてしまうと思うため、二、三回は映画を見る事になるのかも知れないが。(生活費は結構貰ったのでこの位の出費は何ら問題無い)

 隣の男子高校生の会話が少しだけ聞こえてくる中、秋ノ葉はもう一度集中して辺りを見回した。

 見回したら、いた。

 エレベーターから十メートル程前。

 彼女がいた。

 が、秋ノ葉はそれほど驚嘆した訳では無い。

 彼女の姿を見たときにはもう既にその隣にいる三人の女子も目に入っていたからだ。

 つまり、彼女は秋ノ葉との約束を覚えていない。

 決定的だった。

 秋ノ葉との約束を忘れ、友達と約束したのだ。

 それほどショックでは無い。来ない確率の方が圧倒的に高かったのだから彼女の姿がもう一度見られただけで十分だった。

 すっと立ち上がりその場を去ろうとする。

 その時ふと、何かとっかかりを覚えた。

 彼女は約束を忘れている。それなのにも関わらずここには来た。

 駅前の映画館では無く、ここに来た。

 友達と約束したから? 

 そうかも知れない。

 だが、秋ノ葉と約束した日に丁度重なるように友達と同じ所に来るだろうか。

 可能性としては十分にあり得る。ただでさえ日曜はどこかに出かける確率が高い。

 偶然か。そう割り切った。

「映画って久しぶりじゃない?」

 彼女の隣、茶髪の少女が秋ノ葉の目の前を通る時に彼女に語り掛けた。

 彼女の様子を見る辺り、完全に秋ノ葉の事を忘れているようだ。

「うん、そうだね」

「でも何で急に映画? いや別に見たいのあったからいいんだけどさ」

「え? ……何となく、かな。うん、何となく」

「じゃ、映画見終わったら予定通り買い物行こうね!」

 話の輪に入ろうと三人目が語り掛ける。どうやら買い物に行く約束をしていて彼女が映画に行きたいと言ったらしい。

 何となく、そう思ったらしい。

 ベンチの前で立っているのも不自然なので自分はもう帰ろうと思い背を向けた時、

「なあ、あの子可愛くね?」

「え、どの子?」

「ほら、あのグループの子。全員可愛いけど、俺はあの黒髪ショートの子がタイプだな」

「マジ? おれは茶髪の子かな」

 という男子高校生の会話が聞こえた。

 鮮明に、しっかりと、聞こえた。

「…………」

 もう一度振り向き、少しの距離を置いて二人を凝視する。特に、最初に喋った方を。

 可愛い?

 可愛いとも。

 タイプ?

 誰の?

 お前の?

 どういう意味でのタイプだ?

 それは勿論、女の子として。

 秋ノ葉の藍色の瞳に少し赤黒さが混じる。血では無い。

 言うなればそう、嫉妬の色だ。

 彼女は別に秋ノ葉のものでは無い。それは彼自身がよく理解している。

 だが、彼女に欲望の視線を注ぐ事は許さない。

 静かな怒りに思わず声が出そうになるのを抑え、秋ノ葉は睨み続けた。

 今も尚、集団の女子について語り続ける二人は楽しそうに笑い転げている。

 あの二人は友達なのだろうか。

 それは、友達じゃない奴と一緒に映画館に来たりはしないと思うが。

 友達。友達か。

 ――ふざけるな。

 強く睨んだ刹那、秋ノ葉の目が一瞬紅に光った。

「……? ど、どうも」

 突然二人の男子高校生が会釈をし始めた。

 そして片方が居づらくなったのか席を立つ。

 まるで他人と同じ席に座っていたかのような、そんな感じ。

 秋ノ葉は首を傾げた。

 残された方も、もう女子には興味を示さずに一人で携帯をいじっている。

「な、何だ……?」

 目の前で起きた現象には、どこか見覚えがあって、だがそれを深く考える事を恐れて、秋ノ葉は首を振った。

「そ、そうだ、せっかく来たんだし、僕も映画を見て帰ろう……」

 何を見るべきか、と考え始めた時、真っ先に思いついたのは彼女と同じもの、という考えだ。

 我ながらストーカーのようだ、と思ったが事実もう既に若干ストーカーじみているので良い訳は出来ない。

 こちらだけが一方的に守る約束なんて意味は無い。ただの自己満足だ。

 そんな事は分かっていても、秋ノ葉は彼女達の後ろに並び、聞こえてきた彼女達の声に従いその席の近くを取った。

 女子高生が見る映画と言ったら恋愛ものではないだろうかと思ったが意外な事に海外のアクションものだった。男子高校生が一人で恋愛ものをみるのは大分悲しいので良かったと言える。(そもそも秋ノ葉は「男子」高校生には見えないが)

「はぁ……いよいよ変質者じみてきたなぁ……」

 そう、秋ノ葉の外見が可愛いという事がせめてもの救いであった。



 アクション映画。一口にそう言っても……と脳内でアクション映画について語りだそうとした所だったが実のところ秋ノ葉は映画についてさほど詳しくない。ジャンルについてもよく分からないのでアクション映画の何たるかを問うた所で立派な結論が導き出せるとは思えなかった。SF映画の定義もいまいち分からない。

 SFがサイエンスフィクションの略だと知ったのは高校生になってからで、それまではずっと少しフシギの略だと思っていた秋ノ葉である。映画について語れる筈も無い。

 そもそも「少しフシギ」の「少し」とはどれくらいを指すのだろうか。

 映画を見ている間、運良く隣に慣れた彼女を気に掛けながらもあまりじろじろ見るのも失礼だと思いそんな事を考えていた。

 見終わってみての感想としては、単に「面白かった」というのが一番しっくりくる。

 飲み物も何も買わずに入ったので結構喉が渇いているがそれはあまり気にならず、とにかく今は早く帰ろうという思いが先行していた。

それでもエンドロールは最後までしっかり見てから席を立ちあがる。仄かな光が館内を照らすとそのまま出口へと歩いた。早すぎず、遅すぎず。

後ろから彼女達が来ているのを感じ取りながらも決して後ろは振り向かず、階段を下りる。所々足元のライトが消えているがだんだん明るくなっているため転ぶ人はいないだろう。

まさか転ぶ人はいないだろう。と思っていると、

「あっ!」

 後ろから声がした。声がしたのと背中に衝撃を覚えた間に殆どブランクは無かった。

「ぐえっ」

 という情けない声は出さないようにしたものの、何せ階段で転ぶというのは非常に危ない。気を付けて受け身を取り後ろの彼女が階段の角にぶつからないように自分の足を伸ばしておいた。こんな短時間にそこまでの配慮がいくとは、これはもう配慮というよりは防衛本能なのかも知れない。

「ヒナ! 大丈夫!?」

 その後ろの茶髪の少女が彼女に語り掛ける。

 ――ヒナ? 

 彼女の名前だろうか。良い名前だ。

 あっさりと名前を知ってしまったがこれと言って何かの感情に突き動かされることは無かった。そもそも、もしかしたらヒナというのは渾名で、本名はヒナコだったりするかも知れない。考えても無駄というものだ。

「大丈夫でしたか?」

 秋ノ葉はなるべく他人を装って、通行人の邪魔にならないように立ち上がって彼女に話しかけた。

「あ、はい、すみません、転ばせちゃったみたいで」

 あれだけ勢い良く転べば前の人も転ぶよなぁ、と思うのだが勿論口には出さない。

「え、えっと、僕急いでるんで!」

 変に間が空くと脱出するタイミングを見失いそうだったため、秋ノ葉は四人の顔もろくに見ずに階段を駆け下りた。

 ただ、彼女達の方は秋ノ葉の顔をしっかり覚えたようである。

「ねぇヒナ。今の子、可愛かったね」

「ん? 可愛かった?」

「いや相当可愛かったっしょ!」

「うん、超絶可愛かった!」

 彼女の友達は全員秋ノ葉の事を可愛かったと言う。

 それはそうなのだが、少女達の言う「可愛い」はつまり女の子として「可愛い」のであって……

「あの人、多分男の人だよ?」

「え?」

「え?」

「え?」

 見事に揃ったハテナマークである。

 秋ノ葉を初見で男だと分かったのは彼女だけであったが、残念な事にそれを秋ノ葉が知る事は無い。


二千十四年八月六日午前四時五十八分、私の作品を評価してくれた人が初めて現れました。あ、現れたのを確認しました。感謝です。

誰かが自分の話を読んでくれているという事が私にとっての一番の励みになります。

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