絶望の指揮者 3 「藍の少女」
改めて外から今の建物を見てみると、内側があれだけ豪華だった事を考慮すると外側はちょっと新しい程度の小さいマンションにしか見えなかった。しかしビルの集合地帯からは一歩外れているので周辺の民家からすれば頑丈な様にも見える。
斜め上に上げていた首を真っ直ぐに戻すと、秋ノ葉は突然の倦怠感に襲われた。無理も無い、彼は今日半日で人生が反転するような出来事に遭遇したのだから。そしてそんな状況でも、変わらず生きている自分が不思議でならなかった。
「ここにいるのは本当に僕なのかな……」
などというセリフも呟いてしまうものだ。
無論、そこにいるのは紛れも無い秋ノ葉彼自身でありそれ以外の何物でも無いのだが、このように考えてしまうのは人間にはよくある事だ。
そんな「よくある事に悩んでいる自分に起きた事」もよくあるのではないか、と薄暗い細道を歩きながら考える彼の姿は正に失恋した少年のようである。
実際彼に起きた事はそんなに頻繁にある事では無い。心のどこかではそう分かっていつつも、秋ノ葉は今自分が陥っている状況を特別なものだとは思いたくなかった。
秘密組織に憧れなかったと言えば当然嘘になる。どころか今でも高揚を抑えられないところはある。しかしそれと同時に押し寄せる絶望と後悔の念と喪失感が消える筈はない。
人としてはまだ短い十六年という年月の間、クラスメイトとは僅か数ヶ月の間だが、秋ノ葉は家族や友達、地域の人間に支えられて生きてきた。それらの記憶が今の彼を形作っていると言っても良い。けれどその思い出は最早彼の中にしか無い。
いや、彼の記憶する記憶は彼だけのものだから元々彼の中にしか無かったのかも知れないが例え受け止め方の違う出来事であっても、嫌な思い出であっても、それを共に経験した人間とは何かを共有できるものだ。
それが今となっては彼の中にしか無く、さらに言えば彼の中からも消えかかっている。
そしてその事を日常の一部として許容してしまおうとしている自分が許せなかった。
放心状態で暫く歩いて、秋ノ葉は漸く今自分の居る場所がどこなのか気づいた。
当然、道の途中であるのだが、今までフラフラと歩いてきたので方向が合っていないかも知れないのであった。
辺りを見回すと幸いショッピングモールの方向に進んでいたので少し安堵する。別に時間が無い訳では無い為間違えていても困らなかったのだが。
月が黄色く見え始める頃、つまりは午後八時近くである、未だに蒸し暑い都会の空気を吸いながら一人の少年(少年に見えない)が歩いているのはどうなのだろうか。この時間帯なら部活仲間やサークル仲間が揃って帰る時間でもある。夏は活発な若者が都会を闊歩するにはベストの時期だろう。そんな街から一歩外れた人通りの無い道を一人で歩くのは若者としては悲しいのではないだろうか。
とは言え、今の秋ノ葉にはそんな事を気にする余裕など無い。先程まで初対面の人間と話していたせいか、一種の解放感を得ているのかもしれない。
途中で誰にすれ違うでも無く、秋ノ葉は着実に目的地に近づいていく。
しかし角を曲がろうとしたところ、秋ノ葉は急に背後に人の気配を感じて反射的に振り向いた。普段よりも神経質になっているのが幸いしたと彼は思った。
が、それと同時に今の自分の反応に疑問を感じた。
いくら神経質になっているとは言え人が現れた事をこんな明確に把握できるものなのだろうか。そしてそれ以前に人が突然現れるという事はあり得ない。
けれどそこに人は居た。
木の陰に隠れていて顔がよく見えないが夜に染め上げられた漆黒の髪を後ろで一本に結わえている事からおそらくは女性だと思われる。背丈があまり高くない割にはしっかりと引き締まっている美しいプロポーションだが年齢は定かでは無い。
気のせいかもしれないが秋ノ葉にはその女性の右目が藍色に揺れている気がした。そしてその仄かな光に照らされて頬に道化のような印が見られる。
直感的に、秋ノ葉は彼女を危険人物だと判断した。
神崎達の話が蘇る。
仲間の勧誘と、敵の殲滅。
悪意を持った強者。
今目の少し先にいる彼女は秋ノ葉からして見れば明らかに敵と言うべきオーラを纏っていた。
ここからどうやって逃げるか。秋ノ葉が最初に考えたのはその事だった。もし彼女が能力を持つ人間なのだとしたら――
だとしたら何なのだろうか。秋ノ葉はじっくり考えてみた。悪意を持った強者は人を襲うのかもしれないが、ピンポイントで能力者を狙うのは無理がある。そう考えればさらに彼女が何者なのかが分からなくなる。
ただ、たまたま狙われてしまった人間が自分のような能力者であったという可能性も無くは無い。
という結論に思い至りまずは穏和に話をするべきだと切り出そうとしたところ、
「その反応、間違いない」
小さい声ではあったが秋ノ葉は確かにその言葉を聞きとった。
何が間違いないのかは知らないが、やはり話し合いは必要だと思いもう一度話しかけようとしたところ闇に揺れる彼女の姿がぶれた。
否、こちらに向かって走ってきていた。
その事に気づいた時には彼女の姿はもう目の前にあり、より詳しく言うのなら秋ノ葉の右頬に横からの飛び膝蹴りが迫っているところだった。
それを確認してから秋ノ葉は咄嗟に体を前に転がし受け身を取る。
「な、何故!?」
彼女がいきなり襲い掛かってきた事にも驚きだが、今の攻撃を自分が避けた事に対する驚きの方が大きかった。
秋ノ葉は視認するのも難しい速度の攻撃をその目でしっかりと確認してから一拍おいてそれを躱したのだ。さらに秋ノ葉は今本能的に第二撃が来る事を察知して体勢を整えている。その様子はまるで熟練した武闘家のようだ。(勿論秋ノ葉に武術の訓練経験は無い)
彼女の方も今の攻撃を躱されたのは意外だったのか一瞬動きが止まったが、その後予想通りすぐに攻撃を再開してきた。
しかし秋ノ葉はその攻撃をあまり恐怖には感じなかった。いや、この状況は実に恐ろしいのだが、彼には目の前に迫る腕や足がよく見えるのだ。
急に動体視力が上がったかのように。
故に初心者じみた秋ノ葉の動きでも彼女の猛攻に対応できる。反撃しようという意図は全く無かったがその気になれば反抗できる程度の隙は作れているようにも見えた。
忍者のように素早く動く彼女の方も少し焦ったのか、一度距離を取って呼吸を落ち着けた。
攻撃が止んだ事を確認して今度こそ話しかけようとしたが、その前に彼は危ないものを見てしまった。
ナイフである。
彼女は懐からナイフを取り出し再び秋ノ葉に襲い掛かってきた。
いくら軌道が見えるからと言っても流石に刃物は恐ろしい。足が竦むとまでは幸い行かなく一瞬遅れるだけで済んだが自分の近くを高速で刃が通るのは生きた心地がしないものだ。
彼はだんだんと目の前の人間がただの犯罪者に見えてきた。
元々、能力に関係する事だと見切ったのは彼の考えに過ぎず実際はただの通り魔だったのかもしれない。
今更そんな事に気づき戸惑うも、結局やる事は変わらないという事に気づき秋ノ葉は攻撃を避け続けた。
暗殺者にしてはその軌道は少し鈍いところがあるが、ただの通り魔にしては強すぎる。
そして何より、足が速すぎるのだ。
こんなところでタイムは計れないが彼女の速度はテレビで見たオリンピック百メートル走の代表選手並、もしくはそれ以上にも思えるのだ。
避け続ける内に彼女の速度が次第に落ちている事に気づく。
流石にあれだけのスピードで動き回っていたら体力も尽きるというものだろう。
本当に反撃の意志は無かったのだが、彼女の速度の低下によって今までに無い程の隙が生まれたため、秋ノ葉はつい臆病になって彼女の背中を精一杯押してしまった。目を瞑りながらであるので情けない光景ではあるが。
しかし、か細いとは言え十六歳の男が思い切り突き飛ばせば、がっしりとした巨漢でない限り少しは揺さぶられるものだ。増してバランスを悪くしているこの状況であれば尚更である。
彼女はそのまま転がり受け身を取ったが、そこで片膝をついたまま動かない。
目を開いた後で秋ノ葉は自分が何をしたのかに気づき慌てて彼女の元へ近寄った。
「す、すみません! だ、大丈夫ですか!?」
右手を差し出して謝罪したが、彼女にはその手を取る意志は無かった。
秋ノ葉からすれば一方的に襲撃を受けているだけなのだろうが今は戦いの真っ最中なのである。
彼女が大人しくなる筈は無かった。
手を出す代わりに彼女は握っているナイフをこちらに向けてくる。
油断していた秋ノ葉は(最初から油断していたが)今度は一歩と言わず数歩、反応が遅れた。
寸でのところで回避したがそれよってバランスを崩し尻もちをつく。
それを彼女が見逃す筈も無く今までに無いような速度で斜め上方から迫ってきた。
まるで滑るように。
秋ノ葉はこのアングルからの襲撃に見覚えがあった。
だから自分のポケットに戦闘の道具が入っているという事を思い出したのだろう。
秋ノ葉は咄嗟に左手でポケットをまさぐり<一刀両断>を振りぬいた。
刹那、紅く光る刀身が現れ彼に迫る小型のナイフを彼女の手から弾き落とした。
ピンポイントに彼女のナイフだけを弾き落とした。
「っ!? 何故それを持っている!?」
完全に硬直した彼女が震えた声でそう言った。
止まったところは丁度街灯の下で彼女の顔がよく見える。
光を反射する髪は戦闘によって少し乱れ、前髪の隙間から覗く瞳は鋭くやはり多少藍色の揺らぎを帯びている。そして今度こそ右眼の下の模様がはっきりと見えた。瞳の色に似ているその縦のラインは短い横のラインとクロスしている。歳は秋ノ葉と同じくらいか。
秋ノ葉はゆっくりと立ち上がると息を整えた。
左手に大きな刀を持っている秋ノ葉を警戒して少女が距離を取る。
避けられて、秋ノ葉は今、自分が凶器を持って少女に近づいている事に気づいた。先程までそうされていたとは言えこんな事は本来良くない事であり、秋ノ葉は動揺を表に押し出して<一刀両断>をしまった。
「ご、ごめんなさい! 剣なんか向けて……」
頭を精一杯下げて謝罪する。
少女は不思議そうに秋ノ葉を見た後、弾かれたナイフを拾うと懐にしまった。
「その剣をどこで手に入れたのです?」
話す気になったのか少女は急に丁寧口調になった。
しかしその眼には一種の強制力が働いている。まるで、答えなければもう一度切りかかるぞと言うようだ。
その迫力に気圧されて秋ノ葉はつい口を滑らせそうになったが、神崎に組織の事は他言無用と言われている。本当の事を話す訳にはいかなかった。
「え、えっと、これは……道に落ちていたのを拾っただけで……」
しどろもどろになってしまい、案の定少女は疑惑の目を秋ノ葉に向けている。
少女は一歩前に踏み出すと秋ノ葉の瞳を覗いてきた。
「怪しいですね……さっきの反応速度からして能力者である事に間違いは無いのでしょうが……も、もしや天敵破壊団のメンバーですか!? ならばここで叩いておく必要があります!」
何かを決したように少女がさらにもう一歩近づいてくる。それに合わせるように秋ノ葉は一歩後退したが、そこで一つの予感が頭をよぎった。
彼女は天敵だの破壊だの物騒な事を言ったが、団と言うのなら何らかの組織である事は間違いない無いと思われる。その組織と対立する存在は別の組織に入っている可能性が高い。
「神崎咫倉間という名前に聞き覚えはありませんか?」
そう尋ねると少女は目を見開きナイフを構えた。
「何故その名前を知っているのですか!?」
さらに警戒するように少女が腰を低くする。
戦闘態勢を崩さない少女に怯えながらも、秋ノ葉は疑問に思わずにはいられない事があった。
そしてそれをそのまま口に出してしまう。
「何でこの人は僕が新しく仲間に加わった人間だという事を先に考えられないんだろうなあ……」
勿論ひとりごとのつもりで言ったのだが、それは少女に聞こえてえしまったようだ。
「え? 仲間?」
少女が首を傾げる。
秋ノ葉の方も少女が黒塊戒告部隊の人間だと確信を持った訳では無いのだが彼女が腰に着けているベルトは三氷が着けていたものと同じものだ。そして能力者を襲撃してくる事からただの能力者とは思えない。
組織は黒塊戒告部隊の他にもあるようだが近くにいくつもそのような組織があるとも思えない。さらに、第三部隊隊長の名前に聞き覚えがあるとなればもう決まりだろう。
「あの、あなたは黒塊戒告部隊の方ですよね? 僕は今日仲間に加わりました、玄冬藤秋ノ葉と言います」
目の前の少女は、冷静そうな割にはあまり頭の回るほうでは無さそうなので誤解の余地を与えないように簡潔に自己紹介をする。
少女は暫く固まっていたが、その後夜道でも分かるほど顔を赤くすると顔を伏せた。
「ご、ごめんなさい……新種の能力者だと思ってつい……あ、あの、私は弓先高校二年、黒塊戒告部隊第三調査隊所属の八百万四五六と言います。ほ、本当にすいません……」
大分落ち込んでいる様子で秋ノ葉はその姿に心を動かされたが、その事よりも遥かに心に渦を巻く疑問があったのである。
「あのー、分かってもらえたのならそれでもういいのですが、それとは別に何故いきなり襲ってきたんですか?」
神崎達は、仲間を見つけたら勧誘して断られたら強引に連れて行く、と言っていたような気がする。だが四五六は無言で襲い掛かってきた。その理由を問いたださずにはいられない。
しかし秋ノ葉がそう尋ねても四五六は下を向いたまま黙っていた。
そのまま答えを待ってみたが、一向に彼女は口を開かない。
「あ、あの……どうしました?」
四五六の事を気にしながらも、秋ノ葉は周りを気にしていた。仮にこの場を人に見られでもしたら秋ノ葉的には結構な心的損害を負うからだ。
顔を赤くして俯く少女に近づく男の絵図はよろしくない。
キョロキョロしている所も問題である。
辛抱強く返事を待ってみると四五六が漸く顔を上げた。
「そ、その、状況説明は、あまり得意ではないので……話し合いとかも、苦手で……本部に連れて帰って神崎さんに説明してもらう方が効率が良いかな、と……」
「えぇ!?」
と驚かずにはいられない。実に物騒な話である。秋ノ葉はひとまず殴って言う事を聞かせようというような雰囲気を感じる四五六に戦慄した。
四五六の外見を見る限り、実に冷静で的確な判断を下せそうな、折木谷のようなオーラを纏っているのだが、外見と中身が一致しないとはまさにこの事であろう。
取り敢えず秋ノ葉は四五六を宥めようとして言葉を探した。
「ま、まあ、もうそんなに気にしないで下さい。お互い怪我もしてませんし結果オーライということで」
「は、はい……」
一言言われたくらいで開き直るのは難しいがフォローしないよりはましだろう。
秋ノ葉は気まずい雰囲気から脱出しようとしたが、暗くなった今若い女の子が一人で外をふらついているのは少し危ないような気もした。
「あ、あの、これから帰るのなら僕も一緒に行きますよ。その、最近は何かと物騒ですし……」
誘いはしたものの典型的なセリフであまりインパクトが無い。
だがシンプルだからこそ心配する気持ちも伝わるというものである。
「あ、ありがとうございます。でも、秋ノ葉さんはこれからどこかに行くのでは無かったのですか?」
四五六が気にかけるように言う。が、秋ノ葉にとってはその言葉よりも初対面の人に自分の名前を呼ばれた事の方に驚いていた。
その表情を読み取ったようで四五六は顔を背ける。
「す、すみません、その、名字より名前の方が短かったからつい……」
「大丈夫ですよ。何て呼んで頂いても構いません」
軽く会釈をして今までの進行方向と逆に歩き始めた秋ノ葉を見て四五六は申し訳なさそうにした。
そこで秋ノ葉は自分の用事を述べていなかった事に気づく。
「ああ、これからあの建物で暮らす事になったので服とかその他諸々を買いに行こうと思ったのですが別に今日である必要はないので大丈夫です」
質問の答えを返したが、四五六にはまだ言いたい事があるようでその場にじっと立ったままである。
「あの、もしかしてまだ帰らないんですか?」
気になって訊いてみる。
「いえ、本当は帰るつもりでしたが……そういう事なら私も買い物に付き合いましょう」
四五六は冷静さを取り戻すと予想していなかった答えを返してきた。
この場合、どうすればいいのか、中々考え物である。
秋ノ葉としては人がついて来る事は全く問題無い。
しかし自分で一緒に帰ろうと誘っておいてそれをすぐに取り消すのも何だか申し訳ない。
とは言え、それを承知で四五六は提案したのだろうから無下に断る訳にもいかないのである。
「ご迷惑で無ければ、ですが」
秋ノ葉が当惑していると四五六がもう一言投げかけた。
こう言われて、迷惑だ、と言う人間などいる筈も無く事実迷惑では無いため、秋ノ葉の選択肢は一つに絞られた。そういう意味ではこの四五六の言葉は助け船と言えるだろう。
「全然迷惑なんて事は!」
手を振って否定する。その動作がやけに女子らしく四五六は肩を揺らして笑った。
「ふふっ、では行きましょうか」
今度は四五六が先に足を踏み出す。方向は無論、ショッピングモールの方だ。
「あ、はい!」
まだショッピングモールが開いている時間である事を確認し、秋ノ葉は四五六について行った。
二人が歩く夜道は、中々に明るい。