絶望の指揮者 1 「灰色の心」
確乎不抜の戦闘記 第一章 絶望の指揮者~Where you arrive is despair.~
「あなたは全人類にとって必要よ、玄冬藤秋ノ葉君」
不敵に笑う彼女の顔は、もうこの世に絶望した玄冬藤秋ノ葉にとっては恐れるべきものではなかった。
全てのものと『縁を切った』彼にはもう恐れるものは無かった、とも言える。
「誰ですか、美人のお姉さん」
遠すぎて顔は見えないが秋ノ葉は取り敢えずその女性を褒めておくことにした。
見知らぬ人、つまりは不審者に遭遇した時はこっちの方が不審である、という事を相手に認識させるべきである、というのが彼の持論だ。無論、今まで使ったことは無かったのだが。
「び、美人!? そうかしら、それはありがと!」
効果抜群だった。完全に油断し切っている。
とは言え彼は別に隙を見て攻撃しようと思った訳では無い。ただ逃げるための時間が欲しかっただけである。
秋ノ葉は全速力で川の下流へ走った。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! って言うか待って下さい!」
大声で女性が叫ぶ。
待て、と言われて待つ奴がどこの世にいるのだ、と思ったが、丁寧に待ってくださいと言われると何だか待ってあげたくなるのもまた事実である。
秋ノ葉は立ち止まった。今走っても無意味だと悟ったからだ。
「何ですか。僕はこれでも酷く傷心なんですよ、それにつけ込もうとは、全く酷い人ですね」
今度は軽く突き放してみた。相手の心を乱す事が出来れば話し合いは自分に有利になる。そう思っての行動だ。
中々秋ノ葉は狡猾なタイプなのかもしれない。先程まで泣いていた人間の様には全くもって見えない。
「しょ、傷心!? いや、それは知らなかったというか、ご愁傷様というか……そうじゃなくて! 君は人類の役に立つことが出来る素晴らしい人間なのよ? 私はあなたを必要としているの!」
彼女は得意げにそう言った。得意げに、の部分を、決め顔で、と置き換える事も可能だ。
人類の役に立つ、だの素晴らしい、だの必要としているだの、思春期の男子なら必ず一度は言われてみたいであろう言葉を並べる事によって彼を引き留めようと考えたようである。
「必要としている? 傷心の僕につけ込んで口説くつもりですか?」
が、彼はあまりそういう事を熱望するタイプでは無かった。
「く、口説く? 違う違う。……もしかして、フラれたの?」
デリカシーの欠片も無い発言だが、彼には今更その程度の事で感傷に浸る理由は無い。
秋ノ葉はゆっくりと彼女の方を(斜め上を)向くと虚ろな目をしながら近づいて行った。
「ええ、フラれましたね。世界に」
不気味なセリフについ彼女は一歩後ろへ下がってしまった。
「そ、そっかぁ、世界にフラれちゃったのかぁ……えぇ!? それどういう事!?」
彼女は決して阿保では無い。しかし普段の言動からして年齢を低く見られがちである。現に精神年齢はあまり高いとは言えない。
「そのままの意味です」
「そうなんだ……で、でさ! 君に私たちの仲間になってほしいんだ!」
あまりに直球過ぎる申し出に秋ノ葉はひるんでしまった。
そしてそれと同時に目を見開いた。
――仲間。
仲間とは何だろうか。ただそこにあるだけのものだろうか。
いや、違う。
仲間なんてただ踏みつけるものでしかない。踏みつけて、踏み台にして、要らなくなったら捨てて、すぐ忘れる。
そういうものだ。
だから彼が欲しいのは上辺だけの仲間などでは無く、別れた後も心の中に生き続ける本当の友達だ。
「仲間、ですか。要りませんね。すぐに忘れてしまうような仲間なんて」
吐き捨てるようにそう言った。ただ自棄になっているだけだが。
「え、ええっと……あまり脅かしたくはないんだけど、もし話し合いで解決しない場合、無理矢理連れて来いって言われているんだ、上司に……というよりそういうルールなんだ」
どう説得したものかと戸惑うが、見ているだけで傷ついているのが分かる幼気な少年を強引に、というのは少々いただけない、と彼女は思った。
「そうですか。じゃあ、戦いましょう」
秋ノ葉は躊躇い無くそう言った。目の前の女性は相当丈夫そうな服を着ているし何やら物騒なものを腰にさしているし、何も持っていない彼から戦うなどという言葉を出すのははっきり言って愚かである。そもそもいくら街はずれの川辺とは言え人が全く通っていない訳では無い。
「ええ!? 戦う!? …………ちょっと、どうするの、この子!」
懐から通信機を取り出して連絡を図る。
「何が、どうするの、ですか。話して伝わらないのなら無理矢理連れて来るしかありません。まあこの場合あなたの伝達能力に問題があるようですが。うまく口でやり込められてどうするのです。それにあなたを必要としている、なんて口説き文句以外の何物でもありませんよ。そこの少年の言っていることの方が筋が通っています。……それにしても、世界にフラれた、とはどういう事なのでしょう。もっとうまく聞き出して下さい」
どうやら通信は最初から繋がっていたようである。
「うまく聞き出せって言われても……」
どう見ても交渉が得意そうでない彼女に交渉をしろと言うのも無理があるのかもしれない。
しかし秋ノ葉にはそんなやり取りは聞こえない。
「ここで戦って死ねば、僕の人生も無意味では無かったという事になるでしょう」
「物騒な事を言うわね……じゃあ仕方ないから力ずくで連れて行くわ!」
秋ノ葉の目の前に斜め上空から女性が迫ってきた。気のせいかその女性の動きは少しばかり重力に逆らっているように見える。
何故なら、彼女が丘を滑るように迫ってきたからだ。
浮いているのである。
しかしそんなことは彼の意識には投影されず、現実に迫りくる脅威にいよいよ我慢ができなくなり、大声で叫んだ。
「ぼ、僕のことなんか放っておいて下さいよ!」
その瞬間、彼の眉間の辺りが第三の眼の如く赤く光った。
その光は目の前の彼女に突き刺さる。
しかし彼女の脳天が貫かれることは無かった。光の跡が文字通り跡形も無く消えたのである。
不意に彼女は動きを止めその場に数秒立ち尽くした。
その光景は中々に不気味である。
その不気味な様子を、秋ノ葉は真剣な表情で見つめていた。心なしか手足が震えている。
それからさらに数秒、漸く彼女が動きだした。
「……ねぇオリギン、何で私ここにいるんだっけ?」
突然素っ頓狂な事を問う。
「は? ……何を言っているのですか、あなたは。あなたは今回のターゲット、玄冬藤秋ノ葉を捕獲するためにそこにいるのでしょう?」
当たり前でしょうと言わんばかりの呆れ声で答えた。
「玄……何? 誰よ、その人」
とぼけているようには見えない。というよりとぼける理由が無い。
「いよいよ本格的にぼけましたか、その歳で。いいからさっさと捕まえて下さい。逃したら承知しませんよ」
なおも不思議そうに首を傾げる彼女は仕方なさそうに秋ノ葉に話しかけた。
「えっと……初めまして。私は心里三氷と言うの。よろしくね」
突然丁寧になった彼女の姿に当惑しつつも、それによって逃げる気も戦う気も失せてしまった秋ノ葉は相手の名前をよく聞き取る事が出来なかった。
「ココロザトミ、コオリ、さん?」
心里見、氷、だろうか。それならば随分変わった名前だ、と思うが自分も大分変わった名前なのであまり人の事は言えない。
「違うわ。心里、三氷、よ。心に里、数字の三に氷点下も氷で心里三氷」
ご丁寧に漢字まで教えてくれたのでこちらからも挨拶をしようと思い、一歩前へ出た。
「僕は玄冬藤秋ノ葉と言います。青春、朱夏、白秋、玄冬の玄冬に藤、秋の葉っぱと書いて玄冬藤秋ノ葉です。それで、お姉さんは僕に何か用なのですか?」
力づくでも連れて行くと言われたばかりだったがもう一度訊いておく事にする。
彼女は何か言おうとしたが先に彼の耳に届いたのは別の女性の声だった。
「始めまして、四季園高等学校二年八組十四番玄冬藤秋ノ葉君。私はそこの愚か者の同僚である、折木谷聖恩と言います。折衷の折に樹木の木、渓谷の谷に聖書の聖、恩寵の恩で折木谷聖恩です。以後お見知りおきを。今回はこの様な乱暴極まりない手段を取ってしまい申し訳ありません。そこの愚か者の事はあまり気にせずまずは私の話を聴いて頂きたいです」
「愚か者ってなんですか!」
丁寧に説明する折木谷に三氷が反論する。
「……分かりました。僕も少々自暴自棄になっていたようで、申し訳ありません。お話は聴きます」
落ち着きを取り戻した秋ノ葉は同じく丁寧に返した。
「まず、私たちはあなたの味方です。危害を加えるつもりはありません。勿論、話を聴いてもらえる事が前提にありますが。詳しい事はまだ言えませんが、そこの愚か者と一緒に私たちの所へ来て頂けないでしょうか。私たちが決して怪しい者ではありません。政府の承認を受けた組織です。ですからどうか不気味に思わないで来て頂きたいのです。不安なようでしたら、そこの女の武器を取って人質にしても構いません」
「人質って何ですかぁ!」
「少し黙っていなさい。……失礼しました。それで、来ていただけますか?」
折木谷の声は非常に落ち着いていて秋ノ葉は冷静にその言葉の意味を計る事が出来た。
そして現状からするに自分が生きていくにはまずこの怪しい組織の所に行くしかないのだという事も同時に理解した。
個人情報を知られている辺り、政府が関係しているという事は嘘ではないようである。
「分かりました。行きましょう。で、そこまでは心里さんが案内してくれるのですか?」
何となく話の輪から外されているような三氷を庇うような形で秋ノ葉は話を三氷に振った。
「は、はい! お任せ下さい! 私が責任を持って秋ノ葉君を連れて参ります!」
そう言うと、勢い良く通信を切った。
「……通信、切っちゃって良かったんですか?」
そう尋ねると三氷は少し気まずそうな表情をした。
「……良く無かったかもしれないわ……」
「そうですか、それはご愁傷様です。そんなことより、僕を早く連れて行って下さい」
急かすように秋ノ葉が言う。元々彼は性格の悪い人間では無いのだが、やはり人間、自分の命がかかるとそうも言っていられないようである。先程は死んでもいいような事を言っていたような気がするが。
「わ、分かった。それでは私に捕まって。一人くらいなら問題無いと思うから」
「どういう風に捕まればいいんですか?」
焦らずに問う。
「うーん、おんぶかな?」
「嫌ですよ!」
即答した。三氷は確かに背の高い方で百七十センチ程はあるがそれでも秋ノ葉の方が高いため、仮に三氷が秋ノ葉を負ぶって行く事にでもなったら情けなく見える事請け合いである。そもそも彼は何故負ぶわれなくてはならないのか、という事に未だ納得していない。
「即答したな!?」
「ええ、負ぶわれて行くなんて情けないにも程があります。普通に歩いて行けばいいでしょう」
「でもおんぶした方が――」
「いいんです」
秋ノ葉は三氷の手を引かんばかりに前へ歩き出した。
「あ、秋ノ葉君!」
三氷が呼び止める。
「何ですか?」
「そっちじゃないよ」
方向音痴、という言葉があるが、彼は元々三氷達の組織の場所を知らなかったため、この場合は当てはまらない。
それでもやはり道を間違えたのは恥ずかしい事であり、道中秋ノ葉は三氷の三歩後ろを歩く大和撫子と化していた。
それだけが原因では無いが怪しげな組織に向かうのが不安なのかどうなのか、三氷から話しかけられても一言返すだけであった。
見慣れた街並みの中を突っ切り人が少なくなってきた所で秋ノ葉は急に怖くなる。
これはもしかすると半分くらい誘拐なのではないだろうか。そのような事が頭をよぎったのだ。知らない人について行ってはいけないという教えを破った事が後ろめたくなったが、同時に今の世界では全員他人であるという事も実感した。人について行く事=誘拐される事、となっている事に恐怖したと言っても良い。
しかし今から逃げようと思って逃げられるはずも無い。
…………という経緯を辿って、秋ノ葉は現在、怪しい(!)組織の部屋の前に立っている訳である。
三氷がドアを開けるとそこには広大なスペースが存在した。自分の部屋何個分だろう、と無意識に考えてしまうのも無理は無い。
左の壁際には大きなモニターと壁に沿って配置された長い机、椅子、パソコン等の電子機器が置かれている。家具はどれも飾り付けがあまり無いようだが見るだけで快適さを追求しているという事が分かるフォルムだ。奥には巨大な円卓がありその周りにはソファーが四つ配置されている。右側にはいくつかの用具入れのようなものが並んでいて、正に研究機関のような部屋であった。
秋ノ葉が息を飲んでいると、眼鏡の男が優しく笑いかけた。
「まあ、そんな所に立っていないでまずは腰を落ち着けてくれないか」
眼鏡の男は部屋の中央に置かれた小さめの(と言っても十分大きいが)机の前に立ち椅子に座る事を薦めた。
その隣には銀髪の女性、折木谷聖恩が既に着席している。
椅子は机を囲んで全部で七つあった。司会役の人間が座るであろう場所に眼鏡の男が座っている。
秋ノ葉は出口に一番近い席に遠慮がちに座った。続いて三氷が隣に座る。
肩を上げて、緊張しているのがまるわかりな秋ノ葉を見て、折木谷がふと顔を綻ばせた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。あなたが思っているほど、怪しい組織ではありませんから」
ニッコリ微笑む彼女の顔に少しだけ心臓が跳ねた気がした。
女好きという事では無いが、女性がいるだけで場が落ち着くというのは確かにその通りだと秋ノ葉は思った。
この場に三人(自分を除いて)しか居らず、その二人が女性となると、身に危険が及ぶような危ない組織でないという事は信用出来る。
これ以上狼狽える訳にはいかないと思い、秋ノ葉は姿勢を正すと真剣な面持ちで眼鏡の男の方を見た。
「ようこそ、黒塊戒告部隊へ。私はこの第三調査隊の隊長を務める神崎咫倉間と言う。宜しく頼むよ」
神崎は普段と変わらない様子で言った。挨拶も至って普通である。
しかしそれとは別に秋ノ葉は黒塊戒告部隊、という言葉を聞き取れなかった。それ故、この組織に対する不審感が一層強まってしまった。
あからさまに怯えている様子を見て取り、神崎は取り敢えず場の同僚(部下)にも自己紹介をするように促す。
「もう既にご存知かもしれませんが、改めて自己紹介させて頂きます。私は黒塊戒告部隊第三調査隊副隊長を務めています、折木谷聖恩と申します」
一度席を立った折木谷が深々と頭を下げた。年下相手にそこまで丁寧になる必要は無い様に感じられるが、そこが彼女の個性なのだろう。
あまりにも丁寧にされて、秋ノ葉もつい席を立って頭を下げてしまった。この状況下で平静を装うのは中々に酷である。
「ちなみに二十一歳の独身だ」
「その情報は必要ありません!」
神崎がちゃかすように言ったのを折木谷が慌てて制止する。本来女性の年齢に関する事には触れるべきではないが、神崎は恐らく秋ノ葉の緊張を和らげようとしたのだろう。そしてその意図は折木谷にも通じていたらしく深くは追及しなかった。もっとも、他に良い案はなかったのか、という折木谷の眼差しも無くは無かったが。
そんな仲の良い雰囲気を見せられ秋ノ葉の緊張は確かに和らいだので、結果的には良かったのだろう。
その後、時を見計らって三氷も挨拶を行った。
「何だか急にこんな所に連れて来ちゃってごめんね? 私は隊員の心里三氷よ。これで私も先輩になるのね!」
三氷もあくまで自然体であった。この隊の人間は形は違えど基本的に自分のスタイルを崩さないようである。
自分をしっかり持っているなあと感心しなくもなかったが、それよりも気になったのは三氷の発言内容である。
先輩になる、という事は必然的に後輩になる人間がいる訳で、現状その人間は誰かと訊かれれば、いや、訊かれなくても一人しかいない。
自分はこんな怪しい団体に入るなどとは一言も言っていない、とつい言いそうになってしまったが、実際問題、彼には行く所が無い。今彼らを邪険に扱うのはあまりいい考えでは無いと思い、慌てて口を閉じた。
「一目見れば誰もが怪しいと感じるであろうこの組織だが、実際はそうでもないから安心してくれていい。そうだな、まずは君の身の安全を保障しておこう。その方が心も落ち着くだろうからね」
神崎は席に着くと続けた。
「この組織に居れば君は衣食住に困る事はまず無い。折木谷も言った通り、この組織は政府の許可が出ている。故にその一員になれば、粗末な扱いを受ける事は一切ないと断言しよう」
秋ノ葉にとって、というより人間にとって、命の保障は何よりも大切な事であるはずだ。そういう意味では神崎は最初の発言として実に正しいものを選択したと言えよう。
いつの間にお茶を淹れて来た折木谷がコップを各々の前に差し出し着席するといよいよ場の雰囲気も落ち着いてきた。
「その上で、これから話す事は一切他言無用でお願いしたい。いいかな?」
急に発言権が回ってきた事に動揺しながらも秋ノ葉は返答した。
「は、はい。他言しません」
どうやら自分は取り返しのつかない所まで来てしまっているらしい、と実感する。
「よし。では我々の組織について説明したいと思う。まずはあれを見てくれ」
神崎が机の上のリモコンのボタンを押すと、無機質な壁が急に透明になった。
「本当は透明になっているのではなく、薄いパネルがスライドしたに過ぎないのだがね。まあ、窓の様なものだよ。それで夕日の隣に見えるのが、我々が<黒塊>と呼んでいる黒い塊だ。君にも見えるだろう?」
秋ノ葉はここで部隊名に含まれる黒塊の意味を把握した。しかしその様な事は今目に映るものの前で見事に霧散する。
いるのだ。
黒い塊の周りを回る、一体の悪魔が。